「二人の人を好きなんだよね?」──ゼクスを侵食する、セシルの純粋で重い体温。
「……昨日、初めてスーちゃんの方から求めてきてくれたのが、あまりにも嬉しくて」
王城へ向かう馬車の中、セシルが放ったその一言が、狭い空間を絶対零度へと凍りつかせた。
前夜、セシルの純粋で重い献身に溺れ、「二人の少女を同時に想う」という自身の不誠実さに激しい嫌悪を抱いていたゼクス。
元の世界への帰還の手がかりが消えゆくことに絶望しながらも、心のどこかで安堵している自分に澱んでいく。
そんな中、耐えかねた美月の言葉にセシルが返したのは、残酷なまでの「愛の確信」だった。
ゼクスから出た「美月の前でそういうことは……」という場所を弁えるだけの口封じ。それが事実であるという無言の肯定となり、美月の中で何かが音を立てて砕け散る。
翌朝。
カーテンの隙間から差し込む朝陽が、寝室の床に長い影を落としていた。
ゼクスが微睡みの中で意識を浮上させると、いつもの様に、すぐ隣に柔らかで確かな熱を感じた。
「……ん、スーちゃん。おはよう」
視界が開くと同時に、視界いっぱいにセシルの微笑みが飛び込んできた。
彼女はすでに起きていたのか、整った顔を至近距離に寄せ、慈しむような瞳でゼクスを見つめていた。
「おはよう、セシル……」
まだ掠れた声で応じるゼクスの唇に、セシルは当然のような所作で、自分の唇を重ねた。
「ん……ちゅ」
甘やかで、けれど「今日からこれが当たり前」だと言わんばかりの、所有権を主張するような吸い付くようなキス。
「……っ」
ゼクスの脳裏に、昨夜の出来事が鮮明に蘇る。自分の中で何かが決定的に壊れ、そして書き換えられた感覚。
「……あ。スーちゃん、顔赤い。かわいい」
セシルはゼクスの頬に指先を這わせ、勝ち誇ったような、けれどこの上なく幸せそうな笑みを浮かべた。
「セシル、その昨日のは⋯⋯俺はまだ美月──」
唇を人差し指で抑えるセシル。
「そんなこと知ってる。けど、スーちゃんはこういうことは好きな人とって前に言ったよ?つまり、スーちゃんは今、二人の人を好きなんだよね?」
言われてはっとなる。美月を想う心と、セシルを愛おしいと感じる熱。
その二つがゼクスの中で等価に並んでしまった瞬間、彼は自分という人間に激しい嫌悪感を抱いた。
「ああ⋯⋯そう、だな」
虫唾が走る。美月への想いがありながら、その実、セシルに触れられる事を求めていた自分に。
「酷い人って思う。けど、それでも私はスーちゃんが大好き。スーちゃんと一緒にいられるなら、他に何もいらない」
セシルがゼクスの胸に顔を埋める。その温もりは、どこまでも純粋で、どこまでも重い。その重みが、ゼクスの逃げ道を一本ずつ塞いでいく。
「だから……昨日は、今まで生きてきた中で一番幸せだった」
涙ぐみながら微笑むセシルの顔は、ひまわりが朝露に濡れたような美しさだった。
自分の不誠実さが、彼女をこれほどまでに輝かせてしまう。
その歪な因果関係に、ゼクスはただ沈黙するしかなかった。
「今日は朝から図書館で調べ物して、午後から学院。そして王城で修練だよね。手伝ってあげる。ずっと、傍にいてあげるからね」
その言葉は、献身的な愛の囁きのようでもあり、二度と逃がさないという呪文のようにも聞こえた。
────
図書館の一般書架。
おとぎ話の類をいくら捲っても、そこに「科学的な帰還」のヒントはなかった。
異世界から来た勇者の伝説。その後帰還した話、姫と結婚した話。国同士の争いを治めた話。……どれも物語の都合でしかなく、現実の物理法則を凌駕する「門」の理論などどこにも記されていない。
「どれもパッとしないね。これじゃあスーちゃん達が帰れるかわからないね」
セシルは眉を下げて困ったような顔をしたが、その口角は隠しきれない歓喜に震えていた。
「ごめんなさい……スーちゃん達が帰れるかわからないのに、嬉しそうにしちゃって……けど、やっぱりスーちゃんと一緒にいられるって思ったら嬉しくて」
「ああ……わかってる。……気にしなくていい」
ゼクスは短く応じる。彼女を責める資格など、今の自分には一欠片もない。
むしろ、元の世界への道が閉ざされるたび、心のどこかで安堵している自分さえいるのではないか。
そんな疑念が、ゼクスの思考を重く澱ませた。
────
学院の門前。
放課後、王城へ向かう馬車の中。
四人の間に流れる空気は、昨日までとは明らかに異質だった。
ゼクスの隣に陣取ったセシルは、彼の腕に深く、深く身を寄せていた。
それは不安からくる縋り付きではなく、選ばれた者だけが許される、深い愛への確信に満ちた仕草。
美月はその光景を直視できず、膝の上で拳を白くなるほど握りしめている。
「その……いつもよりくっつきすぎじゃないかしら。セシルさん」
美月が、耐えきれずに震える声で切り出した。
(そう言ってくれるの、待ってたの)
セシルは、美月の言葉の裏にある悲鳴を敏感に感じ取り、頬を林檎のように赤らめて、幸せそうに視線を伏せた。
「あ……ごめんなさい。……昨日、初めてスーちゃんの方から求めてきてくれたのが、あまりにも嬉しくて。つい……浮かれちゃって……」
馬車の中が、一瞬で凍りつく。車輪が石畳を叩く規則的な音だけが、美月の心臓を抉るように響いた。
「スーちゃんの方から、求めた……?」
美月の顔から、血の気が完全に失せた。
膝の上で握りしめられた拳が、微かに震える。
その瞬間、エドワードの瞳に宿ったのは、殺気ではなかった。
それは、暗い洞窟の奥で、獲物が罠にかかった瞬間を見届けた猟師のような、「嗜虐的な歓喜」だった。
(……素晴らしい。セシルくん、よくやった)
エドワードは内心で、この「自爆」に快哉を叫んでいた。
ゼクスが不誠実であればあるほど、美月の心は行き場を失い、自分へと転がり落ちてくる。
庭園での喧嘩に続き、今回の「事後報告(という名の自認)」。
これで美月は、ゼクスへの未練という鎖を、自ら断ち切らざるを得ない。
「……セシル。……美月の前で、そういうことは……」
そして、ゼクスの口から出たのは、否定ではなく、ただの「口封じ」だった。
それが事実であるという無言の肯定が、狭い馬車の中で、美月の心を何よりも残酷に切り裂いていった。その瞬間に、美月の中で何かが音を立てて砕け散った。
「……美月。どうした?顔色が悪いぞ」
エドワードは、内心の歓喜を「憐憫」の仮面で完璧に隠し、美月の肩にそっと手を添えた。
体調が悪そうな婚約者を優しく気遣う、高潔な王子のフリ。
けれど、その指先は、彼女が自分のもとへ来る瞬間を、今か今かと待ち望んで、熱を帯びていた。
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