「セシルさんの香り……」──首筋に残る甘い芳香が、聖女の心を真っ暗に塗り潰す。
「……セシルに、学院の出席免除と禁書庫の閲覧権を頂きたく存じます」
謁見の間。ゼクスが国王に求めたのは、己のためではなく、隣に寄り添うセシルのための特権だった。
その言葉は、救済を待ち望んでいた美月の心を「公認」という名の刃で切り裂く。
さらに、再会の喜びを伝えようと歩み寄った美月を襲ったのは、ゼクスの首元から漂うセシルの香り。
今朝、彼が誰に抱かれ、誰と朝を迎えたのか。
残酷な真実を突きつけられ、絶句する美月の前で、セシルは満足げに魔術師団長との模擬戦へと向かう。
「見ててね、美月様。スーちゃんの隣にふさわしいのが……誰なのか」
聖女の誇りを、そして最愛の人を。すべてを奪い去るための「証明」が今、始まる──。
豪奢な装飾が施された謁見の間。高い天井に足音が反響し、ゼクスとセシルは国王の前で膝を突いた。その傍らには、エドワードと、祈るように胸元を握りしめた美月の姿があった。
「よく戻った、ゼクス。そしてセシル。此度の働き、余からも感謝を伝えよう。王都を、そして余の息子と聖女を救ってくれたこと、誠に見事であった」
国王の重厚な声に続き、エドワードも一歩前へ出た。
「ゼクス殿、君がいなければ今の私はいない。セシルくんも、彼を支えてくれてありがとう」
その言葉に、美月がたまらず声を上げる。
「……ゼクス様、本当に……無事でよかったです……っ」
今すぐにでも駆け寄りたい衝動を、美月は聖女としての矜持で必死に抑え込んでいた。
「さて、ゼクスよ。相応しい褒美を取らせたい。望むものがあれば言うが良い」
国王の問いに、ゼクスは隣に寄り添うセシルを一度見てから、迷いのない声で答える。
「……恐れながら。セシルに、学院の出席免除と禁書庫の閲覧権を頂きたく存じます」
「なっ……」
美月の心臓が、音を立てて凍りついた。
(そんなに……そんなに、いつもセシルさんと一緒にいたいってこと……?)
二人の「密月」を公認するような要求に、美月の瞳から光が消えていく。その横でエドワードは、内心で喝采を送っていた。
(セシルくん、素晴らしいよ。君こそが美月の心を折るための最高の『檻』だ)
「ほう。……だが、余としては、その力、魔術師団へ入団して振るってほしいと考えていたのだがな。二人で入ってはくれぬか?」
国王の打診に、ゼクスは即座に首を振った。セシルを軍の危険に晒すなど、考えられない。
「ありがたきお言葉ですが、今はまだ、この世界の知識を学ぶべき時かと。実技などの出席を免除していただき、自主練と禁書庫での研鑽に励みたく存じます。もちろん有事の際はお呼びください」
「……よかろう。だが、セシルの出席免除は実力を示してもらってからだ。後ほど、相応の相手と模擬戦をしてもらう」
国王はそう告げると、傍らの大臣に低く耳打ちした。
(……キュラムを呼んでおけ)
(はっ……。しかし陛下、彼を相手にするのは少々酷では……)
(よいよい。力を見るだけだ)
使いが走るのを見送ると、国王は表情をわずかに引き締めて言葉を続けた。
「それともう一つ。聖女美月より、そなたから魔術の教授を受けたいとの進言があった。受けてはくれまいか?」
ゼクスは、言葉に詰まる。美月の傍にいれば、嘘を吐き続けなければならない。だが、彼女が自分の身を守る力をつけるのは、今回のような窮地を思えば必要なことだ。
迷うゼクスの隣で、不意にセシルが口を開く。
「スーちゃん。美月様も危険な目に遭うかもしれないんだし……教えてあげたほうがいいんじゃないかな?」
(セシル……。君は、自分のことより美月のことも思ってくれているのか)
ゼクスはセシルの「慈愛」を受け、深く頷いた。
「……分かりました。謹んでお引き受けいたします」
その瞬間、美月が喜びに顔を上げるよりも早く、エドワードの顔が苦々しく歪む。
(セシルくん、何を考えている……? 二人を近づけて、どうするつもりだ)
王子の懸念を余所に、セシルは満足げに目を細めた。
「ゼクスよ、ありがとう。感謝する。では、演習場でセシルの実力を測らせてもらうとするか」
「……行きましょうか、スーちゃん」
セシルが立ち上がり、当然のようにゼクスの腕に手を添える。
案内された演練場には、赤髪の天才、魔術師団長キュラムが待ち構えていた。
「あなたがゼクス殿……ではなく、お隣の彼女が相手ですか。陛下も人が悪い」
不敵な笑みを浮かべる師団長を前に、セシルはただ、ゼクスの袖を愛おしそうに握りしめた。
「……ねえ、スーちゃん。あの赤い人、誰? 強いの?」
「……セシル、彼は魔術師団団長だ。有名人だぞ」
「ふーん……。スーちゃんより強い人なんて、いるわけないのにね」
セシルがフィールドへ向かう中、ゼクスは観覧席の最前列へと移動した。そこへ、待っていたかのように美月が駆け寄ってくる。
「先ほどはお礼を言いそびれてしまいました。ごめんなさい……。本当に助けてくれて、ありがとうございました。ゼクスさん」
美月は周囲の目を気にしながらも、ゼクスのすぐ傍へと歩み寄った。
その時だった。
ゼクスの首元から、ふわりと甘い芳香が漂ってきた。今朝、セシルが執拗なまでに肌を擦り付けていたせいか、あるいは道中の馬車でもずっと密着していたせいか。
「……っ!」
衝撃が美月を貫く。それは今朝まで、誰かが彼の首筋に深く顔を埋め、その肌を慈しんでいたことを残酷なまでに証明していた。
(……セシルさんの香り)
それは朝露に濡れた花のような、けれど執拗にゼクスの肌にこびり付いた「女」の匂い。言葉を交わすよりも先に、二人の間に横たわる「夜」という名の深淵が、美月の視界を真っ暗に塗り潰した。
美月が絶句していることなど露知らず、ゼクスは淡々と前を見据えたまま答える。
「当然のことをしたまでです」
追いかけるようにエドワードが駆け寄ってくる。美月とゼクスの間に入り込むようにして、ゼクスに問いかける。
「ゼクス、彼女はキュラム相手に大丈夫なのかい?」
「……セシルは強いですよ」
ゼクスはエドワードの問いに答えながら、自然な動作で席を一つずらす。
「殿下、こちらへ」
「……ああ。ありがとう、ゼクス」
二人の間にエドワードが座る形になり、ゼクスは一番端へ。美月は、物理的にも心理的にも厚い壁を作られた感覚に陥った。「涼翔」が自らの手で置いたエドワードという名の障害物。それが、今の二人を隔てる世界で最も高く、冷たい壁だった。
(……涼翔、どうして? どうしてそんなに遠くにいこうとするの……?)
演練場の中央で、セシルが冷たく微笑んだ。観覧席で震える美月を一瞥し、その口角をわずかに吊り上げる。
「見ててね、美月様。スーちゃんの隣にふさわしいのが……誰なのか」
地獄の幕開けを告げる鐘が、今、鳴らされようとしていた。
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