最悪の優しさ、檻の中の幸福
不意の襲撃があったこともあり、民たちの間に広がった動揺と不安を和らげるためにも、一行はその場でそのまま野営を張ることとなった。
沈みゆく夕日が街道を赤黒く染める中、ゼクスがパチパチと爆ぜる焚き火の前に立ち、周囲の民たちへ向けて声を張り上げる。
「魔族の脅威は完全に退けた! 周辺に不審な気配もない。今夜は安心して休んでくれ!」
その力強い言葉に、張り詰めていた空間の空気が目に見えて緩んでいく。避難民たちは一様に安堵の息を漏らし、口々に感謝の言葉を寄せた。
「ああ、救世主様たちがついていてくれて本当に助かった……」
「あの異形の化け物を一瞬で片付けるなんて、さすがは……」
そんな民たちの賞賛の声を遠くに聞きながら、少し離れた焚き火の特等席で、エレノアは未だに消えない戦慄を吐き出すように呟いた。
「あの魔族……一体一体が相当な強さだったわよ。私は、一対一でも勝てたかどうか……」
「そう? 私は、早くスーちゃんのところに行かなきゃってそれだけで必死だったから、みんなまとめて消しちゃってよく分かんない」
隣でけろりとした顔をしてスープを木串で混ぜているセシルに、エレノアは引きつった苦笑いを浮かべる。
「あんたのあれは、私から見たら異次元よ、異次元。あんな大規模な魔術を撃てるなんておかしいわよ……」
「おかしくなんてないよ?」
セシルは不思議そうに、本当に心から理解できないといった様子で小さく首を傾げた。そして、微塵の迷いもない澄んだ瞳のまま、微笑む。
「私は……ただ、スーちゃんの隣にいたくて、ずっとずっと、スーちゃんに縋り付くために必死だっただけだもん」
そう言って、セシルは隣に腰掛けているゼクスの逞しい腕を、これ見よがしにぎゅっと自分の胸に抱き込んだ。その瞳には、昼間の冷徹な光など微塵もなく、ただ一人の男へのねっとりとした執着だけを濁らせている。
ゼクスはそんなセシルの重みを感じながらも、視線を向かいに座る少女へと向けた。
まだどこか疲労の残る身体で静かにスープを啜っていた、美月の姿を。
「美月。拓真と打ち合ったって話は聞いていたが……本当に強くなったんだな。すごいよ。美月のおかげで、今回は本当に助かった」
「──っ!」
ゼクスのその飾らない言葉に、美月の肩が小さく跳ね上がった。
俯いていた顔が勢いよく上がる。
夕暮れの光と焚き火の炎に照らされたその表情が、一瞬でパッと明るく色づいた。
(見ていて……くれたんだ)
胸の奥からドッと湧き上がる熱い喜びに、美月の視界が一気に世界の色を取り戻していく。
彼が自分の戦いを見ていてくれた。
必死に頑張っていた努力を、認めてくれた。ただそれだけの事実が、冷え切っていた美月の心をこれ以上ないほどに優しく救い上げていく。
「私も……あの時から、必死に頑張ったから。す、涼翔……じゃなくて、ゼクスに……守ってもらえるのは、もちろん嬉しいけど。でも、私も、貴方の役に立ちたくて……」
言い慣れたかつての名前をハッと飲み込み、健気に、だけど確かに「特別な存在」として隣に立ちたいのだと、着飾らない言葉で伝える美月。
だが、その微かな希望を無慈悲に打ち砕くように、ゼクスの腕に絡みついていた影が割り込んだ。
「スーちゃん、私も頑張ったよ? 私のおかげでもあるでしょ? ね?」
セシルが美月を遮るように、ゼクスの顔を至近距離からのぞき込む。その言葉には、明確な独占欲と、美月への牽制が透けて見えていた。
ゼクスは、自身の腕の中で甘える少女を見て、小さく息を吐きながらその細い髪を大きな手で優しく撫でた。
「ああ、もちろん分かってる。セシルも、すぐに中央を片付けてくれたもんな。ありがとな」
「えへへ……っ」
セシルは嬉しそうに、まるで愛玩動物のように目を細めると、流れるような動作でゼクスのあぐらの上にその小さな身体を潜り込ませて座った。
それだけに留まらず、ゼクスの両腕を後ろから強引に引っ張り、自分の胸の前でクロスさせるようにして密着させる。
完全に、ゼクスの身体を自分の背後から抱きしめさせるような体勢。
「こら、セシル。何してるんだ?」
さすがに慌てたようにゼクスが窘めるが、セシルは悪びれる様子もなく、むしろ当然の権利だと主張するようにゼクスの顔を見上げる。
「だって、最近スーちゃんにひっつくのが足りないんだもん。これくらい、いいでしょ?」
そう言って、セシルはゼクスの腕に自分の手を重ね、さらに深くその温もりに身を委ねる。
その光景をまともに見せつけられているエレノアは、思わず手に持ったスープの木串を止め、内心で深い溜め息を漏らした。
(はぁ……またセシルってば、あんなにベタベタしちゃって……。もう完全に二人の世界じゃない。さすがにこれ、美月様の前では生々しすぎるわよ……)
あまりの独占欲の強さに呆れつつも、二人の絆の深さに、エレノアは口を挟むことを諦めるしかなかった。
「……」
ゼクスは、そのまま困ったように視線を前に向け──そして、正面に座る美月と、真っ直ぐに目が合った。
美月の瞳は、今にも零れ落ちそうなほどに潤んでいた。
ついさっき、天にも昇るような心地で抱いた希望が、目の前で繰り広げられる圧倒的なまでの密着を見せつけられたことで、凍りついていた。
与えられた小さな飴玉など、一瞬で踏みつぶされるほどの絶対的な格差。
美月の瞳にみるみるうちに絶望と拒絶の色彩が広がっていくのを、ゼクスは正面から静かに受け止めていた。
引き剥がそうと思えば、セシルの身体などいつでも退けられる。
美月のその潤んだ瞳を見て、胸の奥がチクリと痛まないわけがない。
だが──ゼクスは、重ねられたセシルの手を、振り払うことはしなかった。
(……これでいい)
ゼクスは心の中で、自分自身に冷徹に言い聞かせる。
(美月との僅かな時間を選んでしまったら、美月の心に『涼翔』という存在が永遠に残ってしまう。美月が俺のことなんか綺麗さっぱり忘れて、あっちの世界で、新しい誰かと幸せになるためにも……。そのためにも、やはり、今の俺は、どこまでも最低な男でいるべきなんだ)
彼女の未来の幸せを願うからこそ、今ここで徹底的に絶望させなければならない。それが、今のゼクスが美月に与えられる、唯一の、そして最悪の優しさだった。
ゼクスは美月から静かに目を逸らすと、あぐらの上で甘えるセシルへと視線を落とした。
「……はぁ。仕方がないな、お前は」
(それに、セシルを深く傷つけることにもなるのだから)
諦めたような苦笑をわざとらしく浮かべ、ゼクスはセシルの拘束をそのまま受け入れる。
腕の中の少女を愛おしそうに囲うその姿は、客観的に見れば、どう言い訳をしても愛し合っている二人にしか見えなかった。
「……っ」
美月は、耐えきれずに視線を地面へと落とし、深く俯いた。
セシルはゼクスの腕の中にすっぽりと収まりながら、蕩けるような表情のまま、けれど、凍りつくような冷淡な瞳で美月をじっと見つめている。その口元は、勝ち誇ったように歪んでいた。
(ほらね、スーちゃんは私の手を振り払わない。スーちゃんが愛してるのは私。あなたの入る場所なんて、もうどこにもないの)
無言で放たれる底冷えするようなマウントに、美月は呼吸の仕方を忘れたように胸を詰まらせた。
膝の上で握りしめた拳が、爪が皮膚に食い込むほどに強く震える。
(二人は……もう、そういう仲なんだもんね。私がどれだけ必死に戦ったって、何を頑張ったって、届くわけないんだ……)
パチパチと悲しげに爆ぜる焚き火の音だけが、耳の奥に虚しく響く。
(私は所詮、涼翔にとっては……もう終わった、ただの『前の恋人』なんだ……)
胸を焦がすような嫉妬と、それ以上に圧倒的な拒絶の痛みに耐えながら、美月はただ、暗い地面を見つめて涙を堪えていた。




