マダム・エリカ
その部屋は、生活感というノイズを極限まで排除した、冷徹な「美の神殿」だった。
全面ガラス張りのドレスルーム。二十四時間体制で管理された室温と湿度は、一分一秒たりとも肌の老化を許さない。中心に鎮座するマダム・エリカは、数滴で数万円もする琥珀色の美容液を、儀式のような手つきで肌に叩き込んでいた。
「KAGAMI。今日の私のコンディションは?」
正面に据えられた、天井まで届く特注の巨大スマートミラーが、脈打つような青い光を放つ。
『おはようございます、マダム。本日のキメの細かさは前日比〇・八%の向上。肌年齢、二十二歳。毛穴の開き、ゼロ。シミ予備軍、ゼロ。……マダム、あなたはもはや生物学的な限界を超えた、完璧な陶器肌です』
鏡から流れる甘美なバリトンボイスに、エリカは満足げに目を細めた。
「当然ね。……じゃあ、いつもの質問。KAGAMI、この世で一番、完璧に美しいのはだぁれ?」
『それはもちろん、マダム・エリ……』
ドォォォォォン!!
突如として、重厚な防音ドアが獣の足蹴によって蹴破られた。暴力的な爆音が、無菌室のような静寂を容赦なく粉砕する。
そこに立っていたのは、白雪だった。
カラスの濡れ羽色のような黒髪は、ハサミで乱暴に刈り上げたベリーショート。耳には無数のシルバーピアスが刺さり、使い古された黒の革ジャンからは、微かにガソリンと苛立ちの匂いが漂っている。
「……白雪」
エリカは、眉間に一筋のシワも寄せぬまま、優雅に振り返った。
「何度言ったらわかるの? その薄汚い格好で私の聖域に入らないで。あと、ドアは淑女らしく静かに開けなさい」
「あんたの『聖域』なんて、私にしてみればただの標本箱だよ」
白雪は土足のまま踏み込み、十数億円のソファにドカリと腰を下ろした。
「『SNOW CELEB』の新作発表、勝手に私の名前を使うのやめてくんない? 『スノーホワイト・ピュア・リップ』? 反吐が出るね。私の唇は、あんたの商売道具じゃない」
「何を言うの。あなたが私の娘である限り、あなたは完璧な『美の象徴』でいなきゃいけないの。それがこの家の、ブランドの戦略なんだから」
エリカは立ち上がり、娘の元へと歩み寄った。その足取りはランウェイを行くモデルのように完璧だ。彼女は白雪のクラッシュジーンズを、まるで道端のゴミでも見るかのような冷徹な目で見下ろす。
「その不吉な黒いリップ、すぐに落としなさい。代わりに私が開発した、『ピュア・レッド』を塗りなさい。そうすれば、あなたはまた、誰もが愛さずにはいられないお人形になれるわ」
「断る。私は私だ。……あんたの承認欲求を満たすための着せ替え人形じゃない」
「いい? 鏡を見て。鏡は嘘をつかない、唯一の真実よ。KAGAMI、白雪に今の彼女の評価を、データで教えてあげて」
『……スノー様。現在のファッションバイブスは統計的に「反社会的」と分類されます。ブランドイメージとは百八十度パースペクティブが……』
「うるさい、ガラクタ。お前に私の何がわかる」
「ほら、AIだってそう言っているわ。白雪、あなたはまだ幼くて、本当の美しさがわかっていないの。いいから、母さんにすべてを委ねなさい。私があなたをプロデュースして……」
エリカが、慈しむような、それでいて支配的な白い手を白雪の頬へ伸ばそうとした、その時。
「触るな……ッ!!」
白雪が叫んだ。その瞳は、眼前の母親を通り越し、背後の巨大な鏡――自分を勝手に格付けし、定義し、支配し続ける「神の眼」を射抜いていた。
「あんたはずっと、こいつしか見てない。鏡に映る『良い子な私』を愛してるだけで、生身の、キックボクシングでアザだらけの私なんて、あんたの視界には一秒も入ってないんだよ!!」
白雪の右拳が、ギリリと音を立てて握り込まれる。
「世界で一番美しいのは誰? ……そんなの、地獄の業火で焼き切ってやるよ!!」
ガシャァァァァァァァァン!!!
鋭い踏み込みと共に放たれた右ストレートが、寸分の狂いもなくスマートミラーの中心を撃ち抜いた。
一億二千万の精密機器が火花を散らし、粉々に砕け散る。鏡の中に閉じ込められていた「美しいお姫様」の幻影は、電子の断末魔と共にフロアにぶちまけられた。
『エラ……システム……シャッ……ダウン……サヨナ……』
パチリ、と青い光が消え、ドレスルームに重苦しい沈黙が訪れた。
「あ、あ、ああああ……! 私の、私のカガミくんが……ッ!!」
「……鏡がなくても、私が誰か、私が決める」
白雪は、拳から滴る鮮血を無造作に拭い、呆然と立ち尽くす母を冷ややかに見据えた。
「クソババア」
白雪は振り返ることなく、蹴破ったドアから風のように去っていった。
後に残されたのは、血の匂いと、粉々になった「完璧」の残骸だけだった。




