第一章・第三節「氷の決断」―そして嵐の前夜―
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ヘルシンキ、フィンランド大統領府。1939年12月17日。
降伏文書への署名は、午後二時に行われた。
雪が降っていた。
フィンランド全権代表のペッカ・ヴィルタネン外務次官は、ペンを持つ手が微かに震えていた。震えは寒さのせいではなかった。
六日間だった。
史実でソ連と三ヶ月戦った国が——六日で、膝を折った。
対面に座るスウェーデン側代表、ノルドストローム大佐は、表情一つ変えなかった。書類を確認し、署名欄を指さし、万年筆を差し出した。事務的に。冷静に。まるで商取引の契約のように。
それが——余計に、屈辱だった。
「条件は守られますか」ヴィルタネンは言った。
「参謀総長の言葉は、命令です」ノルドストロームは答えた。「市民への危害なし。軍の名誉保持。捕虜の人道的扱い。全て履行されます」
「……なぜ」
「なぜ、とは」
「なぜ、そこまで」ヴィルタネンは言った。「勝った側が、負けた側にそこまでする理由が——わからない」
ノルドストロームは少し間を置いた。
「閣下は、参謀総長に直接聞いてみますか」
ヴィルタネンは首を振った。
署名した。
窓の外、ヘルシンキの空に雪が積もっていた。
ストックホルム、参謀総長室。同日夜。
「北欧、制圧完了」
ノルドストロームの報告は簡潔だった。
「デンマーク——二十二時間。フィンランド——六日」
作戦室に、静寂があった。
レーヴェンは窓の外を見ていた。ストックホルムの夜景。バルト海の向こうに、ドイツがある。東に、ソ連がある。
「ベルイマン、損耗は」
「全行動を通じて、戦死者——二百十七名」ベルイマン少佐は書類を見た。「負傷者——六百四十名。フィンランド側の戦死者は——推定四百名」
「民間人は」
「ゼロです」
レーヴェンはうなずいた。
それだけだった。歓声もない。乾杯もない。二百十七という数字が、部屋の空気に溶けていた。
リンド中将が珍しく静かな声で言った。
「……よくやった、と言うべきなのかもしれんが」
誰も返さなかった。
レーヴェンが振り返った。
「次の準備を始める」
「次、とは」ノルドストロームが言った。
「ドイツとソ連が、いずれ戦う」
部屋の空気が、変わった。
「それは——」ノルドストロームは慎重に言った。「現時点では同盟関係にある両国が」
「独ソ不可侵条約は紙だ」レーヴェンは言った。「ヒトラーは東を欲しがっている。スターリンは西を警戒している。二人とも、相手を信じていない。信じていない者同士の条約は——時限装置だ」
「いつ、爆発すると」
「わからない。だから——今から準備する」
レーヴェンは地図の前に立った。北欧全域を覆う地図。その南にドイツ。東にソ連。
「我々は今、両国の間にいる。両国が戦えば——どちらかが、我々を利用しようとする。あるいは——邪魔だと思う」
「その前に」ファルクが静かに言った。「我々が動く」
「その前に」レーヴェンは繰り返した。「要塞線の建設を加速する。極寒戦特化部隊の増強。対装甲戦術の研究。そして——」
彼は一度だけ、全員を見渡した。
「どちらが勝っても、スウェーデンが生き残れる準備を、今日から始める」
そして——時間は、跳んだ。
次回もお楽しみに




