第一章・第二節「冬の包囲」
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ベルリン、総統官邸。1939年12月9日。
報告書が届いたのは、朝食の最中だった。
アドルフ・ヒトラーは書類を手に取り、三秒で置いた。
「二十二時間か」
「はい、総統閣下」国防軍総司令部のヴィルヘルム・カイテル元帥が直立したまま答えた。「スウェーデン軍はデンマークを——予定の半分以下の時間で制圧しました」
沈黙。
ヒトラーは窓の外を見た。ベルリンの冬空は灰色だった。
「レーヴェンという男は」
「三十二歳です。閣下」
「知っている」ヒトラーは立ち上がった。歩きながら考える癖が、今朝も出た。「年齢を聞いたのではない。どういう男かと聞いている」
カイテルは一瞬だけ視線を落とした。
「……我々の情報では、極めて合理的な人物かと。感情を作戦に持ち込まない。補給と地形と気候を——数式のように扱うと」
「数式」ヒトラーは繰り返した。不快そうではなかった。むしろ——興味深そうだった。「我々の将軍たちより優秀かもしれんな」
カイテルは何も言わなかった。
「鉄鉱石の輸送ルートは」
「デンマーク制圧により、バルト海北部ルートが完全にスウェーデンの管理下に入りました。協定通り、我々への供給は——」
「協定通り、か」
ヒトラーの声のトーンが、わずかに変わった。
カイテルは気づいていた。この男が「協定通り」という言葉を口にするとき、それは信頼の表明ではない。確認だ。あるいは——疑念の始まりだ。
「スウェーデンは北欧を統一するつもりかもしれん」
「可能性は——」
「可能性ではない」ヒトラーは振り返った。「奴らは五年前から準備していた。五年だ。ということは——北欧全域の地図が、あの参謀総長の頭の中に入っている。デンマークは一手目に過ぎん」
カイテルは直立したまま動かなかった。
「監視を強化しますか」
「する必要はない」ヒトラーはソファに腰を下ろした。「今は——使える。だが覚えておけ。使い終わったとき、あの男は障害になる」
窓の外、灰色の空から雪が降り始めていた。
モスクワ、クレムリン。同日、夜。
スターリンは地図の前でパイプを燻らせていた。
部屋には三人いた。
内務人民委員のラヴレンチー・ベリヤ。赤軍参謀総長のボリス・シャポシニコフ。そして——今夜この場に呼ばれた、対スウェーデン情報担当のニコライ・コワレフ大佐。
コワレフは内心、冷や汗をかいていた。
この部屋に呼ばれた人間が、次に別の部屋に呼ばれるとき——それはシベリアか、地下室か、どちらかが多い。
「コワレフ」
「はっ」
「スウェーデンのレーヴェンという男を、お前はどう見る」
コワレフは一瞬だけ考えた。この場で曖昧な答えを出すことは、確実な死だ。正直に答えることも、内容によっては死かもしれない。だが——
「危険です」コワレフは言った。「同盟国の中で、最も危険な人物です」
ベリヤの眼鏡の奥の目が細くなった。シャポシニコフは表情を変えなかった。
スターリンだけが——少し、口の端を動かした。
「理由を言え」
「デンマーク制圧を見てください、書記長閣下。あの作戦は——敵を壊滅させていません。最小限の戦闘で、最大限の麻痺を引き起こしている。通信。補給。指揮系統。それを順番に潰した。つまりレーヴェンは、敵の意志を折ることに特化している」
「それの何が危険だ」
「我々の軍は、正面から戦えば強い。だがもし——意志を折られた場合、組織が崩壊します。フィンランドも、おそらく同じ手で落とすでしょう。そして」
コワレフは一瞬だけ躊躇した。
「そして——いずれ、その計算の中に我々も入ってくる」
沈黙が、部屋を満たした。
スターリンはパイプを一吸いした。煙が天井に向かって昇る。
「シャポシニコフ」
「はい、書記長」
「フィンランド侵攻の準備状況は」
「カレリア方面への集結は完了しています。開始命令があれば——」
「待て」
短い言葉だった。
「スウェーデンが先にフィンランドを取るかもしれん。その場合はどうする」
シャポシニコフは答えた。「協定では、フィンランドはスウェーデンの影響圏内とされています。我々が得るのは——カレリア地峡の緩衝地帯のみです」
「協定では、な」
またその言葉だった。
スターリンはゆっくりと立ち上がり、地図の前に歩いた。フィンランドの輪郭の上に、太い指が置かれた。
「奴らが北欧を統一したとき——バルト海はスウェーデンの湖になる」
「それは——」
「困る」
それだけだった。
コワレフは直立したまま、冷や汗が背中を伝うのを感じていた。
スターリンは振り返らなかった。地図を見たまま言った。
「コワレフ。スウェーデンに、我々の目を用意しろ。レーヴェンの側近の中に——必ず、使える人間がいる」
「……御意」
「ベリヤ」
「はい」
「もしコワレフが失敗したら」
「承知しております」
コワレフは、その先を聞きたくなかった。
フィンランド国境、スウェーデン軍前進基地。12月11日。
零下二十七度。
グスタフ・リンド中将は外套の首元を立てながら、地平線を見ていた。フィンランドの森が、白い闇の向こうに広がっている。
「寒いですね、中将」
副官のヨハン・ストレーム少佐が隣に立った。二十六歳。リンドが気に入っている若者だった。文句を言わない。それだけで合格だ。
「寒くなければ、ここじゃない」
「フィンランド軍の配備は」
「ファルク少佐の情報によれば——カレリア地峡に主力。北部は手薄だ」リンドは煙草に火をつけた。極寒の中でも手が震えない。「だが問題はそこじゃない」
「と言いますと」
「フィンランドの冬を、舐めた奴は死ぬ」リンドは言った。「史実じゃ、ソ連が百万の兵で攻め込んで、三ヶ月てこずった。気温じゃない。森だ。雪だ。見えない敵だ」
ストレームは黙っていた。
「参謀総長はわかってる。だから——」
リンドは後ろを振り返った。
基地の端に、白い外套を纏った部隊が整列していた。スキー装備。白い偽装。顔まで白い布で覆われている。
第十七スキー猟兵連隊。
「フィンランドのやり方で、フィンランドを落とす」リンドは言った。「敵が得意な戦場に、敵より上手い奴らを送り込む」
「……それは」
「参謀総長の言葉だ」リンドは煙草を踏み消した。「俺には考えつかない。だから俺は——ぶち抜くだけでいい」
その夜、作戦命令が届いた。
ストックホルム、情報局地下。同日深夜。
イングリッド・ファルクは一枚の報告書を読んでいた。
モスクワからの情報だった。
正確には——モスクワに送り込んだ資産からの報告。彼女が三年かけて育てた、ソ連内務人民委員部の中級官僚。家族がいて、負債があって、秘密がある。そういう人間が、一番長く使える。
報告書の内容は簡潔だった。
「スターリン、スウェーデン国内への浸透工作を指示。ターゲット:レーヴェン周辺の高官」
ファルクは報告書を一度だけ読み、記憶した。
それから焼いた。
彼女は次の書類を取り出した。スウェーデン軍高官三十七名のリスト。それぞれの横に、小さな印がついている。
緑の印——問題なし。
黄の印——要観察。
赤の印——既に接触されている可能性。
赤の印は、二つあった。
ファルクは二つの名前を見た。一分間、動かなかった。
それから立ち上がり、上の階へ向かった。
参謀総長室に、まだ明かりがついていた。
参謀総長室。深夜一時。
ドアをノックせずに入ることができる人間は、この建物に二人しかいなかった。
ノルドストロームと、ファルクだ。
レーヴェンは机に向かっていた。書類ではなく——白紙を前にして、何かを書いていた。ファルクが入ってきても顔を上げなかった。
「ソ連が動きました」ファルクは言った。「閣下の周辺への浸透工作です」
「知っている」
ファルクは一瞬だけ止まった。
「……いつから」
「二週間前」レーヴェンはペンを置いた。「お前の報告より先に、別のルートで入ってきた」
「別のルート」ファルクの声が、わずかに硬くなった。「私が把握していない情報源が」
「ある」
沈黙。
ファルクは感情を持たない女だと言われていた。それは概ね正しかった。だが今夜は——何かが揺れた気がした。自分の情報網に死角がある、という事実が、わずかに不快だった。
「名前を教えていただけますか」
「いずれ」レーヴェンは立ち上がった。窓の外、ストックホルムの夜景が広がっている。「ファルク。お前のリストの赤い印、二つ——どちらを先に処理する」
ファルクは答えた。「エーク中将とローゼン外務大臣です」
「エークは違う」
「確認が取れていません」
「エークは愛国者だ。ソ連に乗る男じゃない」レーヴェンは言った。「ローゼンは?」
ファルクは一瞬間を置いた。
「証拠はありません。ただ——三週間前、ローゼン外務大臣はソ連大使と非公式に会食しています。記録には残っていない会食です」
「記録に残らない会食を、お前はどうやって知った」
「ウェイターを使っています」
レーヴェンは窓の外を見たまま、かすかに息を吐いた。
笑ったのかもしれなかった。わからなかった。
「ローゼンを泳がせろ」
「泳がせますか」
「ソ連に何を流すか、見る。そしてソ連が何を信じるか、確認する。それが——次の欺瞞作戦の素材になる」
ファルクは無表情のまま、手帳を開いた。
「……御意」
彼女はドアに向かった。
「ファルク」
「はい」
「お前の情報網に、死角があることは——悪いことじゃない」レーヴェンは言った。「死角があることを知っている、ということが重要だ」
ファルクは振り返らなかった。
「……閣下は、私を試していたのですか」
「いいや」
「では——」
「教えていた」
ファルクはドアを開けた。廊下の冷気が入ってきた。
彼女は何も言わなかった。ただ——ドアを閉める前に、わずかに間を置いた。
それだけだった。
フィンランド国境。12月12日、午前三時。
森が、動いた。
音はなかった。
白い影が、白い雪の上を滑るように進んでいく。スキーの摩擦音すら、風の中に溶けていた。
第十七スキー猟兵連隊、第一大隊。
先頭を行く男が、右手を上げた。全員が止まった。
一分間、沈黙。
遠くで犬が吠えた。それだけだった。
男は手を前に向けた。全員が、また動き始めた。
フィンランドの森の奥に、補給基地があった。
ファルクの情報では、守備兵は四十名。だが情報参謀が出す数字は、常に「確認済みの最小値」だ。実際は六十名かもしれない。八十名かもしれない。
それでも——命令は変わらない。
夜明けまでに、補給線を切る。
作戦室では、レーヴェンが地図を見ていた。
ベルイマンが横に立っていた。珍しく、黙っていた。
「ベルイマン」
「はい」
「フィンランド軍の司令官は、今夜何を考えていると思う」
ベルイマン少佐は少し考えた。
「スウェーデン軍は正面から来ると思っています。デンマークがそうだったから。そして——ソ連がいつ南から来るかを、怖れている」
「その恐怖を」
「利用します」ベルイマンは地図を指さした。「南部国境に、意図的に見える動きを作ります。砲兵の偽装展開。無線通信の増大。フィンランド軍の視線を南に向ける。その間に——」
「北から、包囲する」
「補給線を三本、同時に切れば——組織が崩壊します」ベルイマンは静かに言った。「戦わずして」
レーヴェンはうなずかなかった。だがペンを取り、地図に小さな印をつけた。
「フィンランドの司令官に、伝言を送れ」
「……伝言?」
「降伏条件を、開戦前に提示する」レーヴェンは言った。「戦う前に、出口を見せる」
ベルイマンは目を細めた。
「出口を見せると——抵抗意志が削がれる、と」
「人間は、逃げ道がないと思ったとき、狂う。狂った敵は、計算が狂う」レーヴェンはペンを置いた。「逃げ道を見せると——冷静に考える。冷静に考えると——現実が見える。現実が見えると——」
「降伏する」
「合理的な選択をする」
ベルイマンは少し間を置いた。
そして——静かに言った。
「あなたは、敵すら守っている」
レーヴェンは答えなかった。
地図を見ていた。
北の森の奥で、白い影たちが動いている。補給線が、静かに切られていく。
夜明けまで、あと三時間だった。
ベルリン、国防軍最高司令部。同日早朝。
エーリッヒ・フォン・マンシュタイン中将は、北欧の地図を見ながら珈琲を飲んでいた。
「早い」
隣のフランツ・ハルダー上級大将が言った。「二十二時間でデンマーク。フィンランドも——三日もつかどうか」
「マンシュタイン、お前はどう見る」
マンシュタインは地図から目を離さなかった。
「スウェーデンの参謀総長は——我々より先に、次の戦争を考えている」
「どういう意味だ」
「デンマーク制圧は、目的ではない。フィンランド制圧も、目的ではない」マンシュタインは珈琲を置いた。「あの男は、北欧統一のその先を考えている。だとすれば——」
ハルダーは黙っていた。
「いずれ、我々と正面から向き合う日が来る」
「同盟国だぞ」
「今は」
窓の外、ベルリンの空に雪が降っていた。
北欧と同じ雪が。
フィンランド、タンペレ近郊。12月13日、午前六時。
フィンランド第三軍の司令部に、一通の書簡が届いた。
スウェーデン語で書かれていた。
司令官のヤコブ・アールト少将は、通訳に読ませた。内容は——簡潔だった。
「抵抗を停止した場合、軍の名誉と将兵の身体を保証する。市民への危害は加えない。交渉の余地がある。」
アールト少将は書簡を机に置いた。
窓の外、南の方角に砲声が聞こえていた。フィンランド軍は今夜、南部国境に増援を送っていた。そちらが主攻だと判断したからだ。
だが——北から来た補給の便が、昨夜から途絶えていた。
通信が、切れている箇所がある。
アールト少将は地図を見た。そして——感じた。
自分が、何かに包まれつつある、という感覚を。
「……スウェーデン軍の位置は」
「確認できません」副官が答えた。「偵察部隊と——連絡が取れていません」
アールト少将は書簡を、もう一度読んだ。
窓の外の砲声が、少しずつ遠くなっていた。
それが——罠だと気づいたとき、もう遅かった。
次回もお楽しみに




