9 2-5 ミナキ高原とサクラテマリ
適度な距離をおきながら、サクラテマリは第二訓練棟から離れていく光を追った。ふわふわとやわらかいくるぶしの丈の草を踏みしめて、夜のミナキ高原を歩いた。
サクラテマリが第三訓練棟の入口前に来たとき。
白い光がぱっと消えた。
行き先を見失ったサクラテマリは、その場でぴたりと立ち止まった。白い光のあった方向を静かに見つめていると、今度は低い位置から発する銀色の輝きに変わった。空中浮遊の魔法を発動しているときの輝きだった。輝きは地面から上空へ、打ち上げられるように真っすぐ上昇した。
サクラテマリはしばらくの間、立ち止まって銀色の輝きの軌跡を目で追っていた。飾り気のない高原の夜空を駆ける、なめらかで複雑で全く詰まらない輝きの流れ。サクラテマリの通っている教室で一番空中浮遊が上手い子でも、こんなに自在に飛びまわることはできていなかった。
不安と戸惑いの入り混じっていた表情は、好奇心のにじみ出たやわらかい表情に変わった。サクラテマリは銀色の輝きのほうへと駆け寄った。草の音が少ししたけれど、銀色の輝きが動きを止めることはなかった。
輝く靴で夜空を駆ける男の子アルフレッドは、いったん地面近くまで下降してくると、今度は鼻歌混じりに空中浮遊を駆使したダンスを始めた。聞こえてきたメロディは大陸の有名なおとぎ話。舞台でも定番演目の、歌姫と仮面の男の恋物語のメロディだった。
サクラテマリは草原に転がっていた小さな木箱に腰かけて、彼の一人舞台を観賞した。冷やかしや嘲りではない、ただ美しいと感じたものを見ていたいという純粋な観客だった。
彼が口ずさむメロディがクライマックスのフレーズになった。サクラテマリはこの演目の舞台を家族と見たことがあったので、もうすぐ終わるのだと分かった。
だけど、彼がランドルフのパフォーマンスを再現しているつもりでいることは知らなかった。
ランドルフのパフォーマンスには、最後にお客さんサービスの演出があった。
アイテムボックスから取り出した赤い情熱の花を、「お嬢さん、ご観覧ありがとう! お土産に持って帰ってください!」と、最前列のレディの一人に差し出すというもの。幸運なレディは羨望のまなざしを集めながら、「きゃっ……! ありがとうございます……!」と顔を赤らめて花を受け取っていた。
そんな演出があったことは、サクラテマリはもちろん知らなかった。
そして。
今腰かけている木箱の位置が、幸運なレディの位置に相当することも。
小さな体が銀色の輝きと共に下降してきた。木箱の前でひざまずくと、草原に生えていた花を一輪引っこ抜いて。
フィニッシュにふさわしい決め顔で、サクラテマリに花を差し出してきた。
「おじょうさ」
「えっ──えっ──」
「えっ? なっ──」
濃紺の瞳とマゼンタの瞳の間で、視線の衝突事故が起きた。現場では差し出された花が申し訳なさそうに頭を垂れていた。
永遠のような無言の時が流れた。
二人はいまだ木箱のそばにいた。どちらかが咄嗟に転移できれば二次災害は防げたのだが、片やひざまずき片や木箱に腰かけた状態でいたので、双方ともタイミングを逃した。
アルフレッドは木箱のそばの草地に姿勢を崩して座っていた。花は草の上にそっと置いていた。視線は下に向いていた。木箱に腰かけている彼女と向き合って会話をすることは、非常に難しい状況だった。
聞けるものなら、彼女に聞きたいことは大いにあった。なぜここにいるの? とか、人のことは言えないけれど練習はどうしたの? とか、お願いだから今ここで見たことは綺麗さっぱり忘れてもらっていいですか? とか。
だけど、それをいうなら木箱の上で顔を覆っている彼女にだって、言いたいことは大いにあるはずだった。なぜここに来たの? とか、人のことは言えないけれど練習はどうしたの? とか、勝手に後つけてきて覗き見してたんですけど見逃してもらえますか? とか。
会話の気配はまるでなかった。
出口の見えない静寂に終止符を打ったのは、二人以上にここにいることが不思議な人だった。
「導く光! トリプルブライト!」
二人の頭上を、真昼の太陽のように明るい光が照らした。突然灯った眩しい光に、アルフレッドは手で目元を覆った。サクラテマリは元から手で顔を覆っていたので、新たに対応する必要はなかった。
それから、二人ともゆっくりと手をどけた。聞こえた声が知らない声だったサクラテマリはおそるおそる。よく知っているけれど、ここミナキ高原で聞くことなど予想していなかったアルフレッドは、手をどけると大きな瞳をぱちぱちとまばたきさせた。
「えへへ。きちゃった」
ふわふわのソフトピンクの髪に、髪の毛の同じ色の瞳。その姿もまた、サクラテマリは知らないけれど、アルフレッドは今日の朝にだって会った人の姿だった。
「シアちゃん──えっ──今日は、実家でゆっくりするんだって、朝──」
「そう! ゆっくりしてたよ! 家族とご飯にも行ったし。なんだけどねー。なんか、練習したくなっちゃって。ミナキの第三訓練棟借りて練習してたの」
「あっ……そうだったんだ……もしかして、大発生に備えて?」
「あは。それもあるのかなあ。まだ行くかどうかも決まってないけどね」
「シアちゃんは絶対行くって! だって前のときも行ったんだし、今もすごく強いし」
「あはは! なんか嬉しいな。頑張るね! あっ、そうだ」
アルフレッドと話していたシアは、腰をかがめて小さな木箱のほうに体を向けた。そして、会話に混ざれずにいたサクラテマリに笑顔で話しかけた。
「はじめまして! 私はローレンシア! みんなにはシアとかシアちゃんとか呼ばれてるから、そう呼んでくれると嬉しいな。ねっ、あなたのお名前は?」
「…………サクラテマリ、です」
「サクラテマリちゃん? そうなんだね! ねっ、テマリちゃんって呼んでいい?」
サクラテマリが名前を答えた声はやはり小さかった。ただ、周囲が静かだったからか、集中すれば聞き取れる程度だった。シアは聞き取った名前を口に出して、サクラテマリの反応を元に正誤を確かめた。そして、あだ名で呼んでも構わないか尋ねた。サクラテマリは言葉を発しなかったが、マゼンタの頭をこくんと小さく縦に揺らした。
「えへへ、じゃあテマリちゃんね! ねえ、アルとテマリちゃんはお友達?」
「うっ」
妙な声を発してアルフレッドは言葉に詰まった。同じグループだったので同じ時間を過ごしてはいた。できたばかりの二人だけの思い出もある。ただ、友達ですと即答することはできなかった。
アルフレッドは木箱の上をちらりと見た。サクラテマリは視線を下に落として黙っていた。彼女が答えることは難しそうだったので、アルフレッドは口をひらいた。
「その……グループが同じで……だから、あの、名前は知ってる、よ、ね……?」
後半、アルフレッドは不安げに木箱の上をうかがいながら言った。反応が返ってこない可能性もあったが、サクラテマリはうんうんうんと三回頭を縦に振った。
「そっかそっか! これから仲良くなるお友達、って感じなんだね!」
煮え切らない答えにシアは解釈を添えて返した。それからシアは草地に座って、二人にいくつか話を振ったものの会話は弾まなかった。縮まる様子のない距離に、シアは「んー……」と腕を組んで軽く唸った。
「んーっと……そうだ! そしたらさ、二人でシアの練習を手伝ってよ! こっちこっち」
シアは立ち上がると、大小の木箱が多く積まれているところへ近づいた。そして二人を手招きした。アルフレッドとサクラテマリはしばし顔を見合わせたが、おそるおそる立ち上がってシアを追った。
「シアちゃん……練習の手伝いって、僕にできるの……?」
「できるよー! えっとねー。あっ、これがいいかな。これにしよ」
木箱を物色していたシアは、大きくてフタのない木箱に目をつけた。「シャイン!」と初級の光魔法の呪文を唱えて木箱の中を照らし、中を覗き込んだ。
「ちょっとホコリっぽいなー。ダブルウインド! うん、よーしよし」
木箱の中の埃は風魔法によって箱の隅に集められた。隅に集められた埃は、そのまま風に乗って木箱の外に出て地面に落ちた。
綺麗に掃除された木箱の中を見て、シアは満足げに頷いた。そして、片手で木箱のフチを叩くと、もう片方の手で木箱の中を指差しながら言った。
「お待たせ! 準備できたから二人とも入ってー」
「えっ」
「えっ」
「あっ、ごめん、ちょっと高くて入りづらいよね。えっと、こっちの小さいのを段差にしたらいいかな? はい!」
「いや、あの……シアちゃん、そうじゃなくて……」
アルフレッドは困惑の表情を浮かべた。木箱は十分に大きく、9歳の小柄な子ども二人であれば余裕で入れそうだった。中の埃は綺麗に掃除され、踏み台としてフタ付きの小さい木箱も設置された。ただ、問題はそこではなかった。
「どうする……? 入る……?」
アルフレッドは同じ状況に置かれている隣の少女に問いかけた。サクラテマリは問いかけには振り向かず、木箱をじっと見つめていた。やがて小さな声でぼそっと言った。
「………………入る」
サクラテマリは木箱のそばまで近づき、段差を使ってよじ登った。すとんと木箱に入ると、体を反転させてアルフレッドの側に向けた。それから木箱のフチに両手をつき、無言でじいっと彼に視線を送った。
おいでよ、という声に出ない言葉が届いたかどうか、アルフレッドもまた木箱に入った。木箱に入った二人を見てシアがにこにこしながら言った。
「オッケー! じゃあ、行こっか!」
「えっ? どこに──」
「伝わる念! トリプルキネシス!」
「うわっ──!」
シアの念動魔法を受けた木箱は、銀色の光に包まれてふわりと高く上昇した。遠ざかる地表では、シアが自分の靴底を叩いていた。
「エゼルフィ魔導師学園ご案内ツアー! お二人さまお連れしまーす」
そう言ってシアは輝く靴で草地を蹴り上げた。