7.請求書
王国軍は商店国家クノウ攻略戦に対して最終的に二千名を超える人員を投入したうち、僅か百五十名ほどの敗残兵が帰投したのみで、残りはほとんどが捕虜となった。
帰って来たのは輜重隊や荷駄役が多かったので、歩兵弓兵と指揮官は殆どが捕縛されてしまったことになる。
王国史上、帝国との戦いで同数以上の死者を出したことは無くも無いが、捕虜の数としては前代未聞の数字である。
王国は慌てて情報を整理すると共に、人員を出した貴族家や平民たちを宥め、予想される身代金の金額に大臣たちは顔を青くしていた。
事態の整理だけで一週間を要した王国は、それから使者を立てるまでに五日を要した。
事実上の降伏状態である。交渉役など誰もやりたくなかったからだ。
それでも、誰かは行かねばならない。
「なるほど、なるほど。それであれから二十日を数える今になって、ようやく使者殿がお越しになられたわけですね」
ソファに座り、ゆったりと背もたれに身体を預けていたクノウは、足を組んだままで「理解はしました」と続けた。
「しかし、もっと早くお越しいただいて、捕虜の返還条件をご確認いただいた方が良かったかも知れませんよ」
使者は以前も来たことがあるコーデル・ライトハルト伯爵だった。『元はと言えばライトハルト伯爵が交渉に失敗したのが悪い』という結論になり、責任を押し付けられる形で無理やり二度目の使者をやらされている。
彼は以前の様な態度は少しも見せず、交渉の当初から平身低頭でクノウの慈悲を求めて哀れな程に身を小さくしていた。
「まず一つ。お預かりしている千八百六十七名の将兵に対する食事や宿泊場所の提供。さらには怪我人の医療や死者の遺体保存など、支払いまでの日が長くなればなるほど、金額が増大するものがあるのですよ」
「そ、それは承知の上ではありますが、せ、千八百などと、ご冗談を……」
使者コーデルが信じなかったのも当然で、通例として生きていても重傷を負った者は殺害され、それ以外でもかなりの人数が兵士たちの怒りの矛先として犠牲になっていると考えていた。
「冗談などではありません。イメルダ、例の書類を」
「はい。社長」
コーデルと向かい合うクノウの後ろに、護衛であるアイナと共に控えていたイメルダ。彼女は求めを予想していたかのように、すでに右手に握っていた書類の束を差し出した。
「ありがとう。……さあ使者殿。これがお預かりしている方々の名簿です。弊社……我が国には階級こそあれ身分制度はありませんので、全て自称の氏名順であり、貴族も平民も分けてはおりませんが」
震える手で名簿を受け取った使者が、その内容に目を通しながら流れる汗を増やしていく。
そして、クノウは畳みかけるように言葉を続けた。
「残念ながら捕虜になった方の内、五名が亡くなられてしまいましたが、他の負傷者は全て治療しております。中には身体の一部が不自由になった方もおられますが、日常生活に支障が無い程度にはリハビリで回復できるでしょう」
もはや使者には言葉が無い。
たった五名。二千名弱の内たった五名だけが死亡し、後は健在。しかも治療が進められているというのだ。
焦燥感に駆られて書類をめくっていくと、長々と並ぶ名前の中に時折見知った名の貴族も含まれており、多くが負傷してはいたが生きていることが記載されている。
「その書類はお渡ししますから、焦って読む必要はありませんよ。どうぞ、王国にお持ち帰りのうえ、じっくりとご確認ください。……そうそう、書類の最後に明細がありますが、全て合計した金額の請求書を別に用意しております」
声をかけずとも、イメルダはクノウが言った書類を差し出していた。
テーブルの上を滑って目の前で止まった請求書を見て、使者は心臓が止まるかと思った。
「き、金貨三万枚!? 法外だ! ふっかけるにも程がある! ……い、いや失礼した。しかし、いくらなんでもこれは……」
王国の年間予算の一割に及ぶ金額であり、とてもじゃないが一度に支払いができるような額ではない。支払えたにしても、その後の国家運営に支障を来すのは間違いないだろう。
しかし、クノウは本気だった。
「この程度の小競り合いで……」
「その小競り合いを仕掛けてきて、私どもに被害を与えたことをお忘れですか? それに、根拠ある金額ですよ」
クノウは使者の手から書類の束をひょいと取り上げ、名簿の後ろに続いている明細の部分を開いてテーブルに置いた。
「王国軍人に関する部分だけでも宿泊費、食費、治療費、火葬費などがかかっています。それに加えて当方が受けた被害について、補修費、治療費も請求に含んでいるのです。これに慰謝料などを上乗せしていないだけ、良心的ではありませんか?」
「そ、それはそうですが……ん?」
使者はクノウの言葉に足りないものがあることに気づいた。それについて触れるのは藪蛇かも知れないが、後で問題になるのも困る。
「ひとつ、確認したいのですが」
「どうぞ」
「治療費のみ、ということは……」
慰謝料の類を上乗せしていないことも踏まえて、あり得ないとは思いつつも、使者は確認せざるを得なかった。
「治療費のみ、で結構です。当方には先の戦闘による死者はおりません。怪我をしたものの多くも、戦闘中では無く粗暴な兵士に怪我をさせられたスタッフがいるため計上した分がほとんどですよ」
この時点で、使者は完全に心が折られていた。
王国は当初、商店国家を実力で突破して、余勢を駆って帝国側に侵入。後に大軍を送るための通用路を作るつもりだった。
そこに商店国家の抵抗は一応予想されていたが、まさか敗れるとは考えもしていなかったようだ。それも、これほど完膚なきまでに叩きのめされるとは。
「これは今日時点での計算になりますから、この先結論を先延ばしにするということであれば……」
「すぐにでも我が王にお伝えし、早急に返答をお持ちいたします!」
もはや挨拶の時間すらも惜しいといった様子で、使者は書類を抱きかかえるようにして退室していった。
彼はこれから王国に帰って多くの人に現状を説明する役目を負っているのだろうが、果たしてどの程度理解されるかどうか。
「減額の交渉があるかと思われますが」
「計算の内容を変更する必要は無いどうせ全体額は減らさざるを得なくなる」
クノウは断言する。
「どうして? 日数が伸びれば金額は増えるって話だったでしょ?」
「計算の下になっているのはあくまで“捕虜の数”だからな。捕虜が減ったらその分請求額は減るだろう?」
「捕虜が減るって、まさか……」
「何を想像しているんだか」
アイナが青い顔をしているのを、クノウは笑い飛ばした。
「お前もわかるだろう? この国の生活を多少でも味わった奴が、王国に帰りたいと思うか、どうか」
「あっ、そういうこと」
二日目から戦闘に参加して以降、アイナは戦闘訓練を受けていた。
準社員として女性用の独身寮に住み、今では帰りにコンビニで買ったお弁当をレンジで温めたり、数日分の洗濯物を休日にまとめて洗ったりと、どこかのOLのような生活をしている。
その利便性は知れば知る程手放しがたい。
「雨の日でも数時間で洗濯物が乾いたり、エアコンで快適な温度を保った部屋でゴロゴロできるなんて、そりゃあ王国でも帝国でも無理な話ね」
「お前はどういう生活をして……ん?」
ふと、アイナの言葉に引っ掛かりを覚えたクノウは、イメルダに顔を寄せた。
「……独身寮の水道光熱費って、自己負担だったよな?」
「はい。ですが入居のタイミングから見て、まだ検針は来ていないはずですから、どれくらいの負担になるか想像できないのでしょう」
アイナの口ぶりから、基本設備として部屋に取り付けられているエアコンや洗濯乾燥機をためらいなく使いまくっているらしいと二人は知る。
別に寝苦しい季節と言う訳でも無いのだが、日々の訓練で疲れているからという理由で洗濯は夜に乾燥まで洗濯機任せで一気に行い、エアコンも点けっぱなしでいるようだ。
「まあ、エアコンは点けたままの方が節約になるとも言うしな」
「浮かれて散在するのは良く見る光景です。社長が気にされることはないかと。これも彼女が受けるべき試練かと」
数日後、電気代の請求額を見たアイナが密かにクノウのところへ相談に来るのだが、イメルダが間に入って説教し、給料前借りという形で決着することになる。