第73話 いつまでも変わらない
────────ドクン
──────ドクン
────ドクン
心臓の音が聞こえる。他ならぬ、自分自身の鼓動音。エルカは、目をゆっくりと開ける。それと同時に目に何かが侵入してきた。
目に映るは薄暗い灰色の空…………雨が降っているのだ。雨水が目に入ったのだと認識する。
仰向けのまま視線を上に向ける。瓦礫の山が見える。左を見ても瓦礫の山。右を見ても瓦礫の山。
エルカは記憶を掘り起こす。自分はネイクスと戦っていた……。いや、あれは戦っていたとは言えない。何も出来ず、ネイクスのいいようにやられていただけだ。
更に記憶を掘り起こす。ネイクスは言っていた。自分が勝ったら、フロッグを爆破すると。そして、この街の状況……答えは一つしか無い。エルカは自分の敗北を悟った。そして、母国の崩壊を。
あれからどれだけの時間が過ぎたのか。数時間……それとも数週間? 腹の減り具合から、数日は経過したとエルカは推測する。ふと、自分の体の上に重さを感じ、何かが乗っている事に気付いた。視線を下に向ける。
「…………ヤドック……?」
見慣れた白髪。ヤドックの頭頂部がそこにあった。エルカが身を起こすと、ヤドックがゴロリと横に転がり落ちる。その姿を見て、エルカは驚き目を見開いた。
左腕が無い。両脚も無い。残った部位も傷だらけの血塗れで、ミイラのように痩せ細ってしまっている。あの逞しかったヤドックの面影はどこにもない。ヤドックの心臓に耳を当てると、僅かに鼓動音が聞こえる。
「ヤドック……ヤドック! 起きなさいよ!」
エルカは必死でヤドックの身を揺する。エルカのその声に反応を示し、ヤドックが目を開け始めた。焦点の合わないその瞳が、ようやくエルカを認識する。
「…………おぉ……姫様……。良かった…………生きて……おられたのですね」
「ヤドック……一体どうしてこんな……」
初めて見る、師のあまりにも弱々しい姿に、エルカは動揺を隠しきれない。エルカにとって、ヤドックは常に絶対的な力の象徴だったからだ。
「あと一歩……及ばずでした。奴は……ネイクスは私と戦った後……決着をつける前に……この国を爆破したのです」
「……あんたが、私を守ってくれたの?」
その言葉に、ヤドックはニコリと笑って返した。もはやネイクスを倒すのは不可能、爆破は避けられないと判断したヤドックは爆破の直前に、気絶したままのエルカに覆い被さり、最後の力を振り絞ってエルカの身を守ったのだ。
「姫様……。もう間もなく、私の命は尽きるでしょう。本来なら……あの後すぐに死んでいても……おかしくはなかった。ですが、こうして…………姫様にお別れの言葉を告げる時間が出来て……良かった。天涯孤独の身でしたが…………姫様がお生まれになってからは、まるで娘が出来たようで……とても楽しい日々でした」
「な、何を……何をふざけた事言ってんのよ。何勝手に死のうとしてんのよ。あんた、私が十年前にあんたに言った事を忘れたの!?」
エルカがヤドックの胸倉を掴んで怒鳴り散らす。ヤドックは再び微笑んだ。これだけの元気があった事に安心したのだ。
「……覚えております。『いつの日か私があんたをぶっ殺すまで、くたばる事は許さない』……でしたな。一日たりとも、一字一句忘れた事は……ございません。それが私の……理想としていた最期ですからな。ですが……それも叶わぬ夢となりました」
「ふざけんな! ふざけんなふざけんなふざけんなぁ!! 私の命令は絶対なのよ! あんたはそれに従う義務があんのよ! あんたは……あんたには……!」
言葉を詰まらせるエルカに、ヤドックが右手を伸ばす。エルカは、そのか細い手を力強く握り返した。その瞬間、ヤドックの手を通してエルカの体に何かが流れ込んできた。うっすらと輝く、白い光。ヤドックの魂の色だ。
「もはや風前の灯火でしかありませんが…………お受け取り下さい。少しでも、姫様の力になれますよう……」
「ヤ、ヤドック……」
「ですが……今は身を隠すのです。今ネイクスに挑んでも……勝ち目はありませぬ。修行を更に……積み重ねるのです。さすれば…………姫様ならいつか必ず……奴を倒せるでしょう」
「ま……待って。ちょっと待ってよ」
「……我が魂は…………常に姫様と……共に…………」
────ヤドックの命は尽きた。その目は、もう二度と開かれる事はない。その手は、もう二度とエルカの手を握る事はない。その偉大なる魂は全て、エルカへと引き継がれたのだ。
「…………うあああああーーー!!!!」
エルカは叫んだ。降りしきる雨の中で、喉が潰れんばかりに叫び続けた。
ヤドックが大好きだった。誰よりも尊敬する存在だった。誰よりもエルカの事を理解していた。エルカの事を第一に考えていた。そんな当たり前の事にも、失わなければ気付く事は出来なかった。
エルカは握ったままのヤドックの手を、胸の上に戻して立ち上がった。生気のない目で、原形を留めていない程に変わり果てた街並みを見渡す。自分以外の生存者はゼロ。確認するまでもない凄惨な光景。きっとどこかに両親の遺体があるのだろうが、これでは探し出す事も不可能だろう。
ゾンビのようなふらついた足取りで歩を踏み出す。冷たい雨が傷口に染みる。目印もなく太陽も雲に隠れて見えないせいで、自分が今どの方角に向かって歩いているのかもエルカには分からない。
「……あっ」
風に乗って、何かヒラヒラした物が空を漂っている。そして、それはゆっくりとエルカの足元へ落ちてきた。何の変哲もない、ただの布切れだ。しかしエルカは立ち止まり、それを何となく拾い上げる。
「これは……あの子の……」
それは、赤いリボンだった。半分以下の長さにまで千切れ、端の方が焼け焦げている。エルカはリボンを握りしめ、目をきつく閉じた。
結局何一つ守れなかったという無力感。そんな物は、エルカとは最も縁のない感情だったはずだ。だが今最も心を支配している感情がそれだ。自分の全力はネイクスに全く通用せず、考えられる最悪の結末を招いてしまった。
エルカが再び歩き出すが、すぐに石につまずいて転倒する。顔やドレスが泥にまみれる。エルカは起き上がれない。立てという脳の命令を、体が拒否をする。
────もう疲れただろう。もう休め。このまま目を閉じてじっとしていれば、そのうち楽になれる。お前はよくやった。誰もお前を責めたりはしない。ネイクスには誰も勝てはしない。姫であるお前に、戦わなければいけない義務など、はなっから無いのだ。
エルカの中の何かがそう語りかける。その声に誘われるように、エルカの意識が闇の中へ吸い込まれていく。
…………
……………………
エルカは目を開けた。身を起こし、近くに転がっていた瓦礫を拾い上げた。そして、思い切り額に打ち付けた。砂のように粉々に砕け散った瓦礫の破片が、水溜まりの中へ溶けていく。更にもう一つ拾い上げ、同じように額に打ち付けて粉砕する。それを三度、四度、五度と、何度も何度も繰り返した。額からドクドクと赤い血が流れ出ている事も気にせずに。
五分ほど経過しただろうか。手の届く範囲にあった瓦礫の破片を全て粉々にした後、すっきりしたような顔で天を仰ぎ、大きく息を吐いた。
「…………ふうぅぅぅ。ようやく声が聞こえなくなったわ。下らない事をベラベラベラベラと……ざまあみろ、クソ、ボケ、カス、死ね!」
エルカは誰ともなく、ぶつぶつと悪態をついた。エルカ自身も気付いていないが、あれは紛れもなく自分自身の心の声だった。ネイクスと出会うまで、一度たりとも顔を出す事のなかった恐怖心。そのエルカの恐怖心の声を、エルカの闘争心が掻き消した。
エルカは再び立ち上がり、先ほどまでとは打って変わった力強い足取りで歩き始めた。死んでいた目も、今は闘志という炎が燃えたぎっている。
今やるべき事は一つ。ネイクスの首を取る事だ。ヤドックは、今は身を隠して腕を磨けと言っていた。だがここまでやられ放題やられて、大人しくしている事など出来るはずがない。
「悪いわね、ヤドック。やっぱり私はいつまで経っても私のまんまだわ」
ヤドックのいつもの溜め息が聞こえた気がした。それでもヤドックは、呆れながらもいつもエルカの味方をしてくれていた。それはエルカの事を誰よりも理解し、誰よりも信じていたからだ。




