拾
「…あっちになんかあるの?」
背中をぽんぽんと叩いてやりながらきいてみると、彼女は頭をぶんぶんと縦に振って肯定した。
「私が行こう。アリエスを見ててやれ」
「はーい」
手を洗うついでだと、カイナは手を使わず器用に立ち上がって先にシンクへ向かう。洗い終えた手を近くにあったタオルを借りて拭きながら、アリエスが指さした方へ足を動かす。
壁をまんべんなく見てみると、隅の方に黒い何かがいた。
一枚で五百ソルドである黄銅貨と同じぐらいの大きさの黒光りする背中を持ったそれは、巧みに世界の台所に忍び込む、言わずと知れたおなじみの嫌われ侵入者。
「ああ、ゴキ―――」
「言わないでくださいっ―――!!!」
「ぐぇっ!!?」
その名を口にしかけた瞬間、アリエスがすごい剣幕で声を荒げた。
同時にリオトの背中に回している腕が力み、彼女の背骨を折らん勢いでいっそう抱き込む。
リオトの口からカエルの潰れたような声が出た。
予想だにしない彼女の声量と勢いに圧倒されたカイナがす、すまない…と反射的に謝罪を口にする。
とりあえずそれを片付けると、手を洗えとアリエスが強要してきたのでおとなしく従った。
「ほら、これでもういいだろ。いい加減泣き止めよ」
彼女のポケットから見え隠れしていたハンカチを引き抜いて差し出してやる。
「なぜお二人ともあれを見て動じないんですか…」
酷い鼻声で言うと、受け取ったハンカチで涙を拭う。
「あれで動じるやつもそういないと思うけど…。虫ぐらいで騒いでるようじゃ旅なんてできやしな―――」
「リオト、足元にカエルがいるぞ」
「うぎいいやあああぁっ―――!!?」
弾かれたようにリオトが飛び退り、びたんと壁に背中をぶつけながらさきほどまで自身がいたアリエスの隣を見る。
が、そこにはあの忌々しい緑色はおろかそれらしき影も形もありはしない。
ただの冗談だということをやっと認識したリオトが彼を見やると、体を後ろに捻り、たいそうおかしそうにくつくつと喉の奥で笑っていた。
虫であればまだしも、森などの自然のなかに生息しているカエルが住居に入ってくることはそう無いこと。少し考えればわかることだが、少なくとも一瞬のうちにそれがわからなくなり錯乱する程度にはリオトはカエルが大キライである。
「ぶっ殺す…!!」
大股で歩み寄り振り上げた拳があっけなく受け止められた。リオトの気配と殺気に気づき正面へ戻された端整な顔は未だ破顔したままで、口元は握った左手に隠されているが笑っていることは明白なのであまり意味はない。
「いやすまない。まあそう殺気立つな。…っくく…!」
「悪気が有るのか無いのかはっきりしてください」
額に青筋を浮かべて、リオトは受け止められた拳をぐぐぐと力づくで押しきり、殴打を続行しようとする。
対しカイナは笑ったまま、その手を押し返そうと力をこめる。
「お、お二人とも落ち着いて…」
今度はアリエスが二人を――主にはリオトをだが――なだめる側になった。おそるおそる近づいてどうどうと両手を振る。
とそこへ、
「おにいちゃん? せんせー?」
さすがに呼ばれるのが遅いので待てなくなったのか、調理場の扉が控えめに開き、まず幼い声が外の空気と共に入ってくる。
メルルの一声に我に返ったのか、リオトは仏頂面のまま拳をおさめ、一歩退いた。
「悪いなメルル。もういいぞ」
扉の方へ声を投げると、ギィ…、と扉を開け、たかたかと駆けてくるや否やリオトの腰に抱き付き、垂れているマフラーの片方を小さな手できゅっと握る。
「子連れ狼か」
「がう」
うるさいと言わんばかりに文字通り吠えてやると、カイナはまたおかしそうに笑った。
すると、オーブンがチーンという高い鐘のような音を鳴らしてクッキーの焼き上がりを知らせる。
アリエスが慌てて駆け寄っていき、ミトンをはめた手でオーブンの引き戸を開く。香ばしい匂いがあっという間に調理場の全域を満たした。
虫に気をとられていたせいですっかり忘れていたが、幸い焦げてはいなかった。中の天板を取り出し、まだ焼けていないクッキーがのった天板を差し入れ、再び焼き始める。
「今日のおやつはクッキーか」
皿に焼けたクッキーを盛るアリエスの横から覗き見ていると、彼女は頷きながら言う。
「はい。お二人もどうぞ召し上がっていってください」
「まだ焼き始めたばかりなんだ。リオトも型抜きを手伝ってくれ」
「へーい。メルルもやるか?」
尋ねてみると、こくこくと二つ返事が返ってきた。邪魔になるので彼女が抱いていたうさぐるみとリオトのマフラーを一緒に壁際の台の上に置く。背の低いメルルではテーブルの高さが喉にくるぐらいなので、同じく壁際にあった椅子を踏み台代わりにして型抜きを手伝う。
そうこうしているうちに昼寝をしていた子供たちが香ばしいクッキーの匂いを頼りに調理場に集まり始め、にぎやかにおやつの時間を迎えた。
*
おやつの時間は子供たちにとって一種の戦争にも等しいのだろう。
少し前に師弟とアリエスが腰かけて話をしたダイニングの、多人数用の長方形の長いテーブル。その左右に四種類のクッキーが一定数で盛られた大皿が置かれている。一応多めに作りはしたが、誰もが我先にと自分に一番近い方の皿のクッキーに手を伸ばし、かじりついていく。
アリエスが静かにお行儀よく食べなさいと怒号を飛ばすが、おやつに夢中になっている子供たちは聞く耳持たない。
そのすさまじさに圧倒されるリオトの隣で、カイナは微笑ましそうにその光景をニコニコと眺めている。
気が弱いのかそれとも冷静なのか、子供たちの手が一度皿から引いて落ち着いたところでリオトの膝の上に座っているメルルがそっとクッキーに手伸ばして、もそもそとリスのようにかじり始める。
「うまいか?」
リオトが問いかけると、メルルはクッキーをかじり続けながらこくんと頷いた。
「よかったな」
頭を撫でてやると、嬉しそうに眼を閉じて頬を緩ませる。
「リオトも食べるといい」
「はい。いただきます」
メルルが落ちないように彼女の腹に腕を回して支えながら、クッキーに手を伸ばして口へ運ぶ。
サクサクした食感にほどよいバターの風味が美味である。
「このバタークッキーは、…師匠が作ったものですね」
「ほう。よくわかったな」
どことなく嬉しそうに、だが少し驚きながらカイナは腕を組み感心したように言う。
「バターの味がしっかりしてますし、以前食べたものと味が同じです」
「さすがだな。大正解だ」
「えへへ…。…あれ?」
今度はリオトがカイナに頭を撫でられ笑む。
そこでふと、テーブルをはさんだリオトの正面の席に誰もいないことに気づき、首をかしげる。
気づいたカイナもその空席を見た。
「空いているな。いないのは…」
自分の左隣に座ってクッキーを頬張っているユーティスから反対側の右隣に座るリオトとメルルまで、テーブルに座っている者たちをぐるりと見まわしてみる。しかし、それよりも早くアリエスが口を開いた。
「ルノア…。私探してきますね。お二人は寛いでいてください」
「待った」
リオトたちよりも少し離れた席に座っていたアリエスが部屋を出ようとするが、リオトの声により反射的に足を止めた。
振り返ってみれば、リオトはメルルを抱えて椅子から立ち、メルルを再びそこに座らせていた。
「オレがいく。メルルはここにいろよ。おやつ無くなっちゃうから」
「ですが、そんなことまでお任せするわけには―――」
「せんせー! アルドがわたしのクッキーとったあああっ!!!」
アリエスの言葉を遮るように涙混じりに叫んだのはティナだった。小さな右手で涙をぬぐいながら、左手は隣に座るアルドを指さしている。
「はやいものがちだろ!」
「こらアルド、仲良く分けないとダメだろう」
「だってさ…」
席を立ったカイナが二人に歩み寄り、頭を撫でてやりながら仲裁に入る。
しかし相手は子どもたちだ。次は誰と誰がどういったケンカするかわからない。ただ子供の面倒を見ることが好きで慣れているというだけの者を一人置いていくよりは、その子供たちの性格などを熟知している者も一緒に残していく方がまだ懸命だ。人手という意味で言えばリオトがいるが、初めからその気は無いことが易々とうかがえる。
渋々と、アリエスはテーブルの方へ戻ってくる。
「…では、お願いします」




