第十二話
冬野たちの部屋は趣味に満ちていた。彩るよりも楽しさを優先するといった印象。それが彼らに与えられたキャラクターだったのだろう。あしながおじさんは冬野たちの部屋にはゲームソフトやプラモデルなどをたくさん置いたのだ。ぬいぐるみや観葉植物は見当たらない。
「凄い、こんなに漫画あったんだ」
萩原は漫画で作られた町の模型にも思える一帯を見て感動していた。
冬野たちの部屋には漫画やDVDのボックスなどが床に並べられて、一つの作品毎にタワーを作っていた。元々それらがあった棚は空っぽになっている。
「どうしたの?」
萩原と一緒に屈んで物色し始めた楓が、立ったままの僕を見ると、近寄ってきてそう言った。
「え?」
「なんか怖い顔してる」
「そう、かな」
していたかもしれない。丁寧に並べられた物たちが冬野たちの座っていた場所を取っていて、冬野たちが解剖されてそれらの物が出てきたかのように感じたのだ。
あれ以来、僕たちの会話は減った。元から少なかったのが、最低限必要なことしか言わなくなった。だから久々の会話のように感じられる。今まで話したかった分、二人で共有するベッドの中で持て余した分、僕の口は饒舌になっていた。
「死ぬのってこういうことなのかなって思ったんだ」
律儀にソートされている。例えば漫画なら、まず出版社毎に集められており、そこからさらに作者名のあいうえお順、そしてタイトルでも順に並ぶよう整理されているのだ。まるで冬野たちがどのような要素で出来ていたのか分析しているみたいだった。
「これまでの人生を数値化してるみたいに見えるんだ、これ。冬野たちはこういう物と触れ合って生きてきて、これらの影響を受けて育ったっていう風に」
数学には青のイメージがある。青は低温の色だ。数字は冷たい。凍てついた理屈の手が彼らの内臓に触れている。それが僕の中にたった今生まれた死のイメージだった。彼らが本当に死んでしまったかどうかは関係無い。死とはこういうことなのだろう。耳に入ってくるのは大雨の音ばかり。
「僕たちが生きていることってこれだけで解析されてしまうのかな。どういう物を好んでいたか、何の影響を受けたのか。そこから僕たちの全てが明らかになるのかな。冬野たちの性格や行動がここにある物で全て説明できてしまうのだとしたら、人間はちっとも美しくないよ」
理屈で説明できない何かが無いのなら、何もかもが理路整然と説明できてしまうのなら、希望なんて無い。人類ならばきっと可能だ、という曖昧な根拠が勇気をくれる。成功する可能性が無いと計算できてしまうなら、冬野たちのした無茶はただの笑い話になってしまう。そんなことがあっていいのか?
思っていたことを全部語ると、楓は言った。
「人間は美しくなんてないよ」
きっぱりと。
「人間は複雑なだけ。最初から美しいとか醜いとか決まっているのなら、きっと美しく生きようと思う人なんていないから」
彼女の言葉は真っ直ぐだ。ひねくれた人間のそれではない。
「それを希望だと思えと言われても、難しいよ。こんな狭い世界で頑張っても、何も残らなそうで」
人は何かを作ることができる。漫画を描けばこんな箱庭にまで流通する。けれどここで作った物が外に広まることがあるのかどうか。
「何も残らないんじゃ、今が楽しいだけじゃ、駄目?」
「そういう生き方があるのは知ってるけど、怖いよ。今だけを見つめて生きていこうとしても、楽しい時間がいつか終わりそうな気がして」
だって冬野たちはもういないのだ。楽しかった毎日は一度壊れている。二度目が無いという保証があるわけではない。それどころか、こんな幸福でおかしな場所に住んでいて、崩壊が無いなんてどうして考えられるだろう。変わらないものが欲しい。現在が駄目なら、死んだ後も残るものを。
楓は黙り込んだ。ざああ、と途切れない雨音が僕たちの心をどんどん泥水にしていくようだった。そして楓は「でも私たちはここでいつも通りに生きていくしかないと思う」と言った。
二人で立ったままいると、萩原が遠慮がちに漫画を抱えて「私はもういいけど二人は?」と聞いてきた。
「戻ろう」
楓がそう言った。部屋に戻ると、彼女はベランダに出た。
「私、もう一度行ってくるね。欲しい漫画いっぱいあったから」
ぎすぎすしたものを感じたのかもしれない。萩原は紙袋を持って部屋から出ていった。僕は楓と何を話せばいいのかすらわからないから、ただ彼女を見ていた。
風が吹くと、ガラスに雨が打ちつけられる。楓は今日は椅子に座らずに立っていたから、ずぶ濡れになっていく姿がよく見えた。風邪ひかないといいのだけど。大きいタオルを用意する。電気ポットでお湯を作っておく。それから着替えの服。今彼女が着ているのと全く同じ白いワンピース。柄も装飾も無い真っ白な服。無垢な少女の記号を着ているが、楓の中身は単色の言葉で表せるようなものではない。彼女の内面をどう表現するのが適切なのかわからない。しかし無抵抗に全身を濡らす彼女が綺麗だと僕は思った。
楓がドアを開けたので、タオルでキャッチするように受け止める。楓は雨に打たれていた時と同じように棒立ちで僕に拭かれる。大雨の中捨てられた猫を家に持ち帰る時ってこんな風なのかな、と思った。しかし彼女は人間だ。頭や足ばかり拭いてしまう。彼女の長い髪から水滴が落ちる。それを見て僕の心臓は暴れる。
「ほらちゃんと自分で拭いて」
そう促すと彼女はやっとタオルを掴んで、体を自分で拭き出す。服も取って、洗面所に向かった。
「はあ」
溜め息。楓は強烈過ぎる。綺麗な瞬間を見つける度に、もっと他にもあるのではないかと思って探したくなる。もっとたくさんの綺麗な姿を常に見ていたい。そういう衝動が僕の恋の形だった。この気持ちを過剰に抑えているから苦しくなる。そうとわかっていてずっと保留してきたわけだけど。
楓が戻ってくる。髪の毛以外、元通り。服がさっきと変わらないから、まるで魔法で乾かしたようにも見える。紅茶を出す。
「ありがと」
平静を装って楓は心の乱れを見せずにカップを取る。そのように僕には見えるのだけど、本当に僕の思い込みが激しいだけだろうか。楓なら平気なように振る舞える。楓ならそうやって耐えることができる。普段のあっさりとした振る舞いを保ったままでいるからそう思ってしまうけど、彼女は本当にそこまで強いのだろうか。そもそも人間は心が乱れる生き物なのに。
「ねえ、楓、無理してない?」
楓はカップに唇を付けたまま停止した。そして目だけ動いて、こちらを見る。
「僕はもう大丈夫。だから無理して何でもない風に振る舞わなくてもいいよ。そしたら、僕も辛いと思ってること、話しやすい」
そこまで言うと、カップがソーサーに置かれた。カチャカチャ、と音がした。ふう、と彼女は溜め息に似た息を吐いた。不規則に、はあ、と息を漏らす。そうして排気した後、楓は泣き出した。何も語らず、両手で顔を覆う。降り止まない雨の音が彼女の本音だった。
「ねえ、ずっと傍にいて」
落ち着いた楓は一言目にそう言った。
「いるよ」とすぐに答える。「楓のこと好きだから、ずっと一緒にいたい」
誰かが見ているかもしれないこととか、もうどうでもいいと思った。楓と生きていくなら、いつか通る道だ。今彼女の力になりたいという気持ちが後押しをした。楓は僕の言葉を受けて、隣に座っていたぬいぐるみを床に下ろす。
「それなら、もっと、傍に」
空いた場所に手を置いて、求めてくる。誘われるまま、隣に。どれだけ近寄っていいものなのか。迷って体がくっ付くか否かといった所に座るが、楓がゆっくりと体を寄せてきた。肩がくっ付いてもなお触れている場所を増やそうとしてくる。そうしてくるなら、と僕は彼女を抱き締めた。
「私、祐介の彼女ってことでいいのかな」
「妻でもいいよ」
腕の中の楓はいつもより幼く見える。髪の毛が冷たい。それを撫でる。外の世界には川というものがあるらしい。その感触はこれに近いものなのだろう。
「結構遅かったね。こうなるの。詩織たちが付き合い始めた時から、私たちもこうなるのかなって思ってたんだけど」
「迷ってたんだ。どうでもいいことが、今までどうでもよくなかったから」
「あしながおじさんのことだ」
「うん」
きっと見られているんだろうな、と思う。にやついているのかもしれない。思い通りになった、と。
「あ」
僕たち以外の声が不意に混ざった。声のした方を見ると、萩原が帰ってきたところだった。目が合う前に「ごめん」と萩原は反射的に口に出して「ごゆっくり」と言い慌てながら部屋から出る。
くす、と楓が笑った。
「ずっとこうしてたら、由美に悪いね」
部屋に入れてあげよう、と楓は言って離れる。一緒に萩原に声を掛けに行った。
「もう大丈夫だけど」
「え、もう?」
萩原を部屋に入れる。彼女はソファに腰掛けると、すぐに尋問を始めた。
「凄くびっくりしたよ。いつからあんな関係になってたの?」
「ついさっきだけど」
「そうなんだ。おめでとう」
萩原のテンションが高くなる。盛り上がると、本当に霜山みたいだ。いつものように大人しくあってくれ、と内心願う。騒がれると照れてしまう。さらに「詩織たちにも知らせないと」なんてことを言ってくる。
「なんか恥ずかしいんだけど」
「そうだね」
このままいたら僕たちを祝福するパーティになってしまいそうだ。
「そうだ。冬野の部屋行って、欲しい物、探そう」と僕は楓を誘う。「早くしないと、いい物無くなっちゃうかもしれないし」
「うん。そうしよう」
僕たちは逃げた。「あ、ちょっと」と不服を訴える声に二人で笑った。
何度か往復して、漫画やアニメをもらっていく。冬野たちの部屋は少しだけ空っぽに近付いた。それによって彼らが失われるという印象は無かった。成仏するというか、この部屋に残されていた面影のようなものが薄れていくようだった。やがてこの部屋から全ての物が撤去される。空っぽの部屋を僕は受け入れつつあった。それが愛の力なのだと言えば途端に嘘くさくなる。人間は満たされるには他人が必要で、僕が最も幸福になれる他人と一緒になれた。第三者から見ればそれだけのことだ。第三者の視点から見るのなら、そうなのだ。




