1話 思い出す
ミリル・レシリアは、13歳にして完璧な令嬢だった。
公爵家の長女。
白金の髪、整った所作、誰もが認める器量。
——ただし、貴族に必要な魔法だけがない。
「また、何も起きませんね」
家庭教師が小さく息を吐いた。
机の上、魔力測定の水晶は沈黙したまま。
本来なら、幼子でも淡い光を灯す。
だが彼女の前では——ただの石だ。
「……もう一度だけ」
指先を置く。
冷たい。何も返ってこない。
視線が、わずかに逸れる。
使用人たちの気配が、遠のく。
「……本日はここまでにしましょう」
淡々と告げられる終わり。
ミリルは静かに立ち上がり、深く礼をした。
「ご指導、ありがとうございました」
非の打ち所のない所作。
——結果だけが伴わない。
⸻
廊下は長く、静かだった。
壁に並ぶ肖像画。
歴代当主たちが、無言で見下ろしてくる。
皆、優れた魔導士。
その中で——自分だけが異物。
(“呪われたお姫様”……)
耳に残る呼び名が、胸の奥に沈む。
人の少ない方へ。
評価の届かない場所へ。
足は自然と、書庫へ向かっていた。
⸻
奥の扉が、わずかに開いている。
「……珍しい」
押すと、乾いた音が響いた。
中は、埃と静寂に満ちていた。
細い光だけが差し込み、空気が重い。
倉庫のような場所。
一歩踏み入れると、足音がやけに大きく響く。
誰かに気づかれたような錯覚。
「少しだけ……」
言い訳のように呟き、棚の間を進む。
並ぶのは古い魔導書や記録。
見慣れた背表紙が続く中で——
ひとつだけ、異質な本があった。
装丁が違う。
文字が違う。
この国の言葉ではない。
「……これは」
指先が止まる。
黒い表紙に、金の箔押し。
見たことのないはずの文字列が——
「……読める?」
胸の奥で、何かが噛み合う。
理由は分からない。
だが、理解できるという確信だけがある。
導かれるように、本を開いた。
最初のページ。
『運命を変える魔法』
聞いたことのない術。
並んでいるのは意味ではなく、音。
曖昧なはずなのに、発音だけがやけに鮮明だった。
「……これで、変えられるの?」
誰もいない。
止める者もいない。
ミリルは唇を開いた。
拙く、それでも確かに読み上げる。
⸻
瞬間。
空気が裏返る。
視界が白く弾け——
気づけば、そこは別の場所だった。
⸻
大広間。
光に満ちた空間。
貴族たちのざわめき。
その中心。
玉座の前に、自分は立っていた。
「ミリル・レシリア」
聞き覚えのある声。
顔を上げる。
そこにいたのは、婚約者である王子。
冷たい目で、こちらを見下ろしている。
「その振る舞い、もはや看過できぬ」
言葉が、刃のように落ちる。
「よって——」
一歩、踏み出す。
「お前を断罪する」
ざわめきが膨らむ。
逃げ場はない。
周囲を囲む兵士。
その先に——処刑台。
「厄災だ!」
「闇の子よ!」
誰かの叫び。
視線の先。
そこにいたのは——
“自分”。
肌は黒く侵され、目は光を失っている。
歪んだ口元だけが、笑っていた。
(……あれが、私?)
次の瞬間。
眩い光が空間を裂いた。
中心に立つ、一人の少女。
迷いのない目。
「聖女様……!」
その声と同時に、光が放たれる。
貫かれる。
内側から崩れていく。
そこで意識が途切れた。
⸻
「……っ」
息が詰まる。
気づけば、書庫に戻っていた。
荒い呼吸。速い鼓動。
「いまのは……」
夢ではない。
あまりにも、鮮明すぎる。
悲しい記憶、声、視線すべてが現実だった。
「……未来、ですのね」
手元の本は消えていた。
指先は震えている。
それでも、瞳は揺れない。
怖い。
だが、それ以上に
「変えてみせますわ」
そのとき。
体の奥に、微かな違和感。
今までなかったもの。
意識を向ける。
細い糸のような感覚。
温かく、ゆっくりと流れる何か。
触れようとすると逃げる。
追えば、形を変える。
「……これが」
直感が告げる。
魔力。
ミリルは目を閉じる。
糸の流れに、意識を寄せる。
ぎこちない。
それでも——
「フローティア」
空気が、かすかに震えた。
一冊の本がふわりと浮かび上がる。
淡く、静かな黄金の光。
闇とは思えない輝き。
(それでも、あの未来の私は…)
ゆっくりと目を開く。
「……いいえ」
小さく、しかし確かな声。
「誰にも、決めさせませんわ」
静かな書庫。
すべての始まりが、ここにあった。




