婚約者の母だけが、なぜか私の味方をする
現代が舞台の小説を書いたのは人生初ですが、よろしくお願いします。
会社近くにあるホテルのラウンジは、夕方のわりに空いていた。
窓際の席に彼の姿を見つける。
桐生恒一。私――相沢透花の婚約者。少なくとも、席に着くまでは間違いなくそう呼ぶべき相手だった。
「ごめん、仕事が立て込んでて。待った?」
「いや」
私が椅子を引きながら言うと、恒一は短く首を振った。声が少し硬い。
招待客の追加でもあったのだろうか。それとも式場の費用の件か。私はテーブルの上に置いてあった封筒の厚みを見て、勝手にそう思った。
結婚式まではもう残り二ヶ月あまり。やるべきことはいくらでも残っている。
けれど恒一は、メニューも開かないまま言った。
「式は中止にした」
一瞬、言葉の意味が入ってこなかった。
「……延期ってこと?」
「中止だよ。もう式場にも、新居の不動産関係にも連絡してある」
私は改めてテーブルの上の封筒をチラリと見た。
「え……なにそれ、私、何も聞いてないんだけど」
「だから今話してる」
あまりに当たり前の顔で返されて指先が止まった。
水の入ったグラスの表面だけが、ラウンジの照明を受けて静かに揺れている。
「いつからなの」
自分の声が思ったより低く出てビックリする。
恒一はそこで初めて、少しだけ視線を外した。
「瀬名栞。取引先だし、お前も同じプロジェクトでいっしょだから知ってるだろ? 実は彼女、俺の元カノでさ。それでヨリを戻すことにしたんだ。悪い」
悪い――その言葉だけが、妙に軽く落ちた。
いったい何をどう悪いと思っているのか。
聞こうとして、やめた。聞いてもたぶん、私の欲しい答えは返ってこない気がしたから。
「社内には俺から説明しておく。『相沢さんが結婚に踏み切れなくなった』。それで十分だろ」
恒一はそう言って、封筒を私の方へ押し出した。
……は?
「それは……私の言葉じゃない」
「最後くらい穏便にすませよう。お互い同じ会社だし、ケンカ別れして気まずい空気にはしたくない。透花には感謝してるんだ」
恒一は腕時計を見て、立ち上がった。
「じゃあ、あと必要なことはメールする」
翌朝。職場である広報室の空気は、あからさまに昨日までと違った。
同僚の一人が私を見て、すぐに目をそらす。誰かのキーボードを叩く音が不自然に速くなる。
いつもなら次々と掛けられる挨拶の声も、半分くらいしか聞こえてこなかった。
朝礼が終わると、課長が私をデスクへと呼び寄せた。
「相沢さん、例の瀬名グループとの共同プロジェクトだけど、いったん西野さんに替わってもらうから」
「……どうしてですか」
課長は困ったように眉を寄せた。
「それはまあ、君もいろいろと落ち着かない時期だろうし……今はあまり仕事に入れ込むよりも、少しペースを落とした方が賢明だと思ってね」
痛々しいほど丁寧な口調。
席に戻ると、先輩である隣の席の女性社員が穏やかに話しかけてきた。
「相沢さん、無理しなくていいからね。必要だったら気にせず有休取って大丈夫だから」
それ以外にも昼休みに社内チャットを開くと、社内の色々な知り合いからメッセージが届いていた。
『結婚ってホント大変なことばっかだよね。あんまり気にしすぎちゃダメだよ』
『恒一さんとのこと、気づいてあげられなくてごめんね。今度どこかご飯行こう』
返信欄にカーソルが点滅している。何を返せばいいのかわからず、そのまま閉じた。
代わりに、プロジェクトの共有フォルダを開く。昨日まで見えていた資料の一覧が消えていた。
『アクセス権限がありません』
画面に表示された短い文を、私はしばらく見つめていた。
その夜、私はアパートの自室に戻ってからラウンジで渡された封筒を開けた。
式場の解約通知。新居関連の契約解除。引出物の発注停止。式の参列予定者への連絡先一覧――婚約解消に伴う諸々の必要な処理に関する書類一式が揃えられていた。
どれもこれも過去の日付で、すでに手続きは完了済みとなっている。一覧には、式が中止になった旨の「連絡済み」のチェックも名前の横に付けられていた。
私は式場へ電話をかけた。
『桐生様からは、先週の時点でご相談がありました』
担当者の声は、最初から気まずそうだった。
「先週、ですか」
『はい。相沢様は今お話しできる状態ではないと伺っておりまして……』
返事をしようとしても声が出ない。
担当者は電話口の向こうで、何かを察したように黙った。
通話を終えたあとも、私はスマホを握ったまま動けなかった。
座ったまま、ベッドに広げた書類をぼんやりと眺める。内容を確認するでもなく、ただただ紙面を見つめ続けた。
そんなときだった。
私のスマホに見覚えのない番号からショートメッセージが届いたのは。
『突然の連絡失礼いたします。恒一との件で、三十分だけお時間をください。明日の夜十九時、駅前のホテルの一階喫茶店で待っております。桐生冴子』
桐生冴子。恒一の母で、私にとっても義理の母になるかもしれなかった人。
顔を合わせたのは結婚の挨拶などを含めて数回だけ。落ち着いた声で、あまり多くを話さない人だった。多少の世間話を交わしたことはあっても、親しくした記憶はない。
そんな人から、なぜ今このタイミングで?
返信しようとして、手が止まる。
考えれば考えるほど意図が分からず、結局、その日は何も返せなかった。
翌日、やはりデスクに座っていても周りの視線が気になって集中できない。
プロジェクトの共有フォルダには相変わらずアクセスできず、西野さんが私の横を通るたび、申し訳なさそうに会釈していく。
時間が進むのがやけに遅く感じ、定時になるまで普段の何倍も長く感じた。
気づけば、私は駅前ホテルの前にいた。
喫茶店の入口から中を覗くと、窓際の席に見覚えのある初老の女性が座っていた。整った身なりで背筋を伸ばし、膝の上で両手を揃えている。
私が近づくと、彼女は静かに立ち上がった。
「来てくれてありがとうございます」
「……三十分だけということでしたので」
向かいに座ると、彼女は小さな封筒を差し出してきた。
「今日はこれをあなたに渡したくてお呼びいたしました」
中身はなんてことないコピー用紙。
けれど、内容を見た瞬間に私は愕然とした。
そこに記されていたのは、とあるメールのコピーだった。
宛先は社内の総務部で、差出人は恒一。件名は、『転居補助の申請取り下げについて』。
「『現在、相沢が結婚の準備を進める過程で情緒不安定になっており、引っ越しに関する調整が遅れています。つきましては、いったん申請を取り下げたく――』」
私は紙から顔を上げた。
「……どうして、これを私に?」
こんなメール、私は存在すら知らなかった。恒一があえて私を宛先から除外して出したのは間違いない。
その理由はもちろん、メールの中身が事実無根であり、私の目に入れたくなかったからだろう。つまりは彼にとって後ろめたい物ということでもある。
そんな代物を、なぜ母である彼女が? 実の息子の不利益になりかねないものなのに。
何か裏があるのか。だとすればどんな?
いろんな疑問が一気に私の中を駆け巡る。しかし――。
「もしあなたに取り返したいものがあるなら、私は協力を惜しみません」
彼女は私の目をまっすぐ見つめ、はっきりと言い切った。
「明日の夜八時、帝都ホテルの“橘の間”の前に行ってみてください。なるべく目立たない格好で」
「……どういうことですか」
「中に入る必要はありません。もうだいぶ察しはついているでしょうが、あの子がどんな人間なのか、あなた自身の目で見たほうが早いでしょう。あなたも、自分の身の回りで何が起きているのかもっとよく知りたいのでは?」
たしかに知りたくないと言えば嘘になる。
まだショックは残っているが、けどこのまま何も知らずに終わるなんてもっと嫌だ。
婚約破棄は恒一の一方的な事情によるもの。なのに、今朝の会社の空気は明らかにそうではないと物語っていた。あれがこの先も続くなんて耐えられない。
でも、やっぱり気になるのは。
「……なぜですか? 恒一さんは、あなたの息子さんですよ?」
「理由については、今は答えられません。ただ、あなたを騙そうなどという気は決してありません。そこだけは安心してください」
「そんなこと、どうやって信じればいいんですか」
「信じられないのはもっともです。ですが、恒一は先に話を作ります。時間が経てば経つほど、あなたの言い分を置く場所がどんどんなくなってしまいます」
彼女は私の手元にあるメールのコピーを見た。
それが証拠だと言わんばかりに。
……どうやら、迷っている暇はないらしい。
「わかりました。とりあえず、これについてはありがたく頂戴いたします。事情についても、今はこれ以上聞く気はありません。ですが、まだ信用したわけでもないですから」
「ええ。それで構いません」
頷く彼女の前で、私は封筒をバッグにしまった。
翌夜、帝都ホテルの宴会フロアは落ち着いたざわめきに満ちていた。
スーツ姿の男女が行き交い、スタッフがトレーを持って廊下を通る。私は柱の陰に立ち、橘の間の入口を見ていた。
黒のジャケットに、目立たないバッグ。髪もいつもより低い位置でまとめた。誰かに気づかれたら、何をしに来たのか説明できない。
しばらくして、指定通りの時間に恒一が現れた。
周囲には知っている顔が二つと知らない顔が一つ。
隣にいるのは彼の父である総一郎さん。さらには瀬名さんと、寄り添っているのは恐らく彼女の父親らしき男性。恒一は背筋を正しながら、慣れた様子で瀬名さんとお父さんをエスコートしていた。
扉が開く。中へ入る直前、総一郎さんの声がこちらまで届いた。
「“前の件”は社内も先方も整理済みです。息子も身辺をきれいにしたところでして」
心臓の奥が、ひとつだけ強く打った。続いて聞こえてきたのは恒一の声。
「はい。ですのでご縁と事業、どちらも良い形で進められれば」
数日前のラウンジでは多少なりとも申し訳なさそうに私へ「悪い」と告げた男が、今は別の家の前で平然と楽しそうに笑っていた。
私は閉められた扉の前へ歩き出しそうになった。今ここで開けてしまえば、何かが終わるかもしれない。大声を出して、全部違うと言えば、誰か一人くらいは振り返るかもしれない。
でも、その先が見えて足を止めた。情緒不安定。私がここで感情のままに動けば、彼の作った言葉に、私自身が証拠を足すことになる。
私は踵を返し、そのままエレベーターへ向かった。ボタンを押す指先が冷たい。扉が開くまでの数秒がひどく鬱陶しいと感じた。
私は一人しかいないエレベーターの中で、スマホを取り出した。
メッセージを送るのは一昨日初めてやりとりした番号。
『あなたを信用します。必要な情報をください』
その直後、すぐに短い返信が届いた。
『承知しました』
***
それから数日後。
私は桐生不動産本社の会議室で、所属する広報室の室長と課長、それから総務部の職員を前にして座っていた。
机の上には瀬名グループとの共同プロジェクトに関する資料が並んでおり、すべての表紙には作成者である『桐生恒一』の名が記されている。
そしてその隣には、ほとんど同一と言っても過言ではない資料がもう一つ。
「――このように、これらの資料はすべて私がプロジェクトから外れる前に予め用意していたものであり、桐生さんが提出したものはそれを名義だけ差し替えたものです」
私は社用のノートパソコンを操作し、スクリーンにとある文書ファイルの一つを映しだした。
それは印刷前の資料の元データであり、その改変履歴を示したもの。変更箇所を示す赤い横線はほとんどなく、中身にはほとんど手を付けられていないことがわかる。
その代わり、表紙の名前だけが「相沢透花→桐生恒一」と綺麗に上書きされていた。
なんでも恒一はこの資料を急に担当を外れた私の代わりに、「こうなった原因の一端は自分にもある」として、他部署の人間ながら善意で仕上げたとして提出していた。
なお、映している資料はPCに差されたUSBに保存されているもの。
出所は彼の母親である冴子さんで、実家住まいの恒一の私用パソコンから秘密裏にコピーを拝借したと言っていた。
「これだけではありません。先日桐生さんが総務部へ提出した転居補助の取り下げについても、事実と異なる記載があったので訂正を求めます」
画面に移したのは、この日の前に総務部へ出向いて受け取っていた部内資料のコピーである。
そこには取り下げ事由の欄があり、『申請者本人から申し出があったため。なお、申請者からは「新婦側の心身疲労による調整遅れが原因」と補足あり』と入力されていた。
まさに喫茶店で冴子さんから見せてもらった、恒一が総務へ送ったメールの内容が反映されてのものだ。
「取り下げ自体は撤回しませんが、この表現に対しては遺憾です。私のメンタルは安定しておりますし、少なくとも仕事に支障を及ぼすほどの異常はありません。念のため外部の精神科を受診し、きちんと診断書もいただいて参りました」
私が一枚の用紙を机の上に差し出すと、参加者の面々が覗き込む。
そこに書かれているのは「精神は健康状態にあり、問題なく業務を遂行できる状態にある」という医師からのお墨付きだった。
それを見て、課長が困ったように口を開く。
「ま、まあまあ相沢さん。言い分はよくわかったよ。けど、そこまで大きくするような話じゃ……」
ねぇ?と話を振ると、総務部の職員も「桐生さんからは、手続きに関してはすべて相沢さんも同意済みであると……」と弱々しい声で頷いた。
私はそれらの反応を無視し、室長を見た。
「業務を円滑に進める上で必要だと仰るなら、私をプロジェクトから外すことも受け入れます。ですが、それならせめて正当な理由でお願いします。身に覚えのない不調が原因でということでは、さすがに納得できません」
室長はすぐに答えなかった。だが、その表情は困ったふうでも、怒っている様子もなく落ち着いていた。
感覚で仕事をする課長とは違い、私の知る限り室長は理論派で冷静な人だ。
室長は資料を改めて一通り確認したあと、私の目を見て言った。
「承知しました。この件はいったん私が預かります。それまで、相沢さんのプロジェクトに関する人員交代の件は白紙に戻します」
さらに課長へと向き直る。
「その上で、配布済みの資料は先方にも謝罪して引き戻してください。それとシステム部に連絡して、社内データの更新履歴も確認を。あと相沢さんの共有フォルダ権限も戻すようにと」
「……わかりました」
課長が渋い顔をしながらも頷く。
私は席を立ち、室長に向かって頭を下げた。
「ありがとうございます」
その後、今後の調整についてもう少し話し合いをするという室長たちを残し、私は一足先に会議室を退室した。
よし、これでまず一つ。
だがそう思って外に出て顔を上げたところで、廊下の壁に背を預けていた恒一と出くわした。きっと待っていたのだろう。
私が扉を閉めると、彼は周囲に人がいないことを確認してから、低い声で言った。
「お前さ、そこまでやる必要あるか」
私は答えず、通り過ぎようとした。
恒一は隣に並んで歩き出す。
「気持ちが変わったんだよ。栞と再会して、やっぱりお前とは違うんじゃないかと思った。お前だって少しは違和感があったろ? だから終わらせた。それだけだ。よくあることだろ」
「だとしても、どうして私の仕事まで消したの」
恒一の足音が、半拍だけ遅れた。
「穏便に済ませたかっただけだ」
すぐに付け足す。
「先方もいるし、栞は取引相手の社員だし。それどころか向こうの社長の娘だぞ。変な揉め方はしたくない。お前だって会議とかで顔を合わせたら気まずいだろ」
私はエレベーターのボタンを押した。
「穏便にしたかったのは、あなたの評判でしょ」
恒一の顔から薄い笑みが消えた。
エレベーターが到着する。
扉が開く直前、恒一が言った。
「なあ、頼むから栞だけは巻き込まないでくれ」
私は中へ入り、一呼吸置いてから振り返った。
「巻き込んだのはそっちよ」
扉が閉まる。
恒一の顔が、銀色の隙間に切れて消えた。
やがて目的の階で降りると、今度は別の人物がすぐ目の前で足を止めた。
「あ……相沢さん、お疲れ様です」
瀬名さんだった。淡い色のスーツに、細いネックレス。プロジェクトの打ち合わせで何度か顔を合わせたことがある。個人的に話したことはほとんどない。
「……お疲れさまです」
微妙な間が落ちる。
瀬名さんは少し迷ってから、言いづらそうに口を開いた。
「あの、相沢さん、大丈夫ですか? 体調を崩されて担当を外れたと聞いていましたが」
私は彼女を見た。目は泳いでいない。勝ち誇ったような色もない。ただ、本当に気まずそうにしているだけだった。
……そうか、この人は本当に何も知らないんだな。
「外れたんじゃなくて、外されたんです」
「え……そ、そうだったんですか」
瀬名さんは目を見開き、それきり言葉を失った。
私はそれ以上何も言わなかった。彼女も聞き返してこなかった。
「失礼します」
「あ、はい。失礼します……」
瀬名さんは小さく会釈して、反対方向へと歩いていった。
きっと彼女はあくまで、恒一が私との関係をきちんと清算した上で自分と付き合っていると考えているのだろう。恒一からの説明を真に受けて。
このまま何事もなければ、この人もまたいつか自分と同じように恒一に捨てられるのかもしれない。
そう想像したら、私は少しだけ彼女に同情できた。
……もっとも、だからと言って何も緩めるつもりはないが。
その後、恒一からは定期的に何度か連絡が来た。内容は基本的に同じ。
『これ以上は大人しくしていろ』
『社会人として常識的な判断をすべきだ』
『お前の立場だって悪くなるぞ』
私はどれにも返信せず、ただスクショだけ残して画面を閉じた。
***
その数日後の夜。
桐生家のダイニングには、総一郎と恒一、冴子が食卓についていた。
総一郎はグラスを置き、向かいの恒一へ視線を向ける。
「ところで恒一、例の件は大丈夫か。この前、社内で少し揉めたと聞いたぞ。分かっていると思うが、相手は瀬名家のお嬢さんだ。変にこじれさせるなよ」
「大丈夫だよ」
恒一は箸を置かずに答えた。
「ちょっと事後処理の手続きで不備があっただけ。式場とか家のことも、こっちで筋は通してあるし」
「ならいい」
総一郎は短く言い、グラスに口を付けた。
少し間を置いて、冴子が口を開く。
「……もし相沢さんが浮気の件を外部に漏らして騒ぎになったら、どうするのです」
総一郎はすぐに返した。
「そうならないように手を回しているのだろう」
そして恒一を見やる。
「お前も万が一、誰かに何か聞かれても余計なことは言うなよ」
「ああ、わかってるよ」
恒一は軽く頷いた。
それだけだった。
二人はそのまま、何事もなかったように食事を続ける。瀬名家との次の会食の日程はいつにするか、お披露目のパーティーはどこでやるか、そんな話へ自然に移っていく。
冴子は席を立ち、静かにダイニングを出ていく。皿の上にはほとんど手つかずの料理が残っていた。
それでも二人は見向きもせず、それどころか冴子がいなくなったことにすらしばらく気づいていないようだった。
***
翌日の夕方、駅前ホテル一階の喫茶室で、私は冴子さんを待っていた。
前に座ったのと同じ窓際の席。しばらくすると、冴子さんが店に入ってきた。今日も姿勢はまっすぐで、表情はほとんど変わらない。
「お待たせしました」
「いえ」
私は鞄からUSBを取り出し、テーブルの上に置いた。
「先日はありがとうございました」
冴子さんはそれを受け取ると、代わりのように新しい封筒を差し出した。
「これも、あなたに渡しておきます」
中には、手帳のコピーらしき紙が何枚か入っていた。恒一の字だ。社内向け、式場向け、親族向け。誰に何をどう説明するか、時系列に齟齬が出ないように簡単な文言が並べられている。
基本的には私の体調不良を謳ったもので、すでに見慣れた表現ばかりだった。
「あの家の中で集められるものは、今回のこれで最後です」
「ありがとうございます。ここまでしていただいて」
言葉にすると、少し妙だった。感謝していい相手なのかどうかもまだわからない。けれど、受け取ったものは確かに私の役に立っている。
「……ただ、本当にこれでよかったんですか? 場合によっては恒一さんだけじゃなく、桐生家自体にも影響が出るかもしれませんよ。瀬名さんとの縁談の件とか」
無論、それは私が気にするべきことでもない。
けれど念を押さずにはいられなかった。
「ええ。覚悟はできています」
冴子さんは一度、カップの縁に指を添えた。
「……いえ。昨夜、固まりました」
昨夜――。
いったいどういう意味だろう? 昨日の夜になにかあったのだろうか?
相変わらず疑問は湧くけれど、私はやはりあえて何も聞かない。
そうして、運命の日は静かにやって来た。
桐生不動産本社の第一会議室には、私と恒一、広報室長、課長、総務部長、それから関係する部署の人たちが集められていた。机の上には、この前私が提出した資料一式と、総務部で確認された書類が並んでいる。
最初に口を開いたのは、広報室長だった。
「先日の相沢さんからの申し出を受けて、こちらでも改めて内部資料を精査しました」
室長は手元の資料に目を落とし、それから私の方を見た。
「その結果、相沢さんの仰っていた内容は事実であり、申し出にも正当性があると判断しました。不備のあった書類の記載については、訂正させていただきます」
その言葉のあと、室長は静かに頭を下げた。
「この度は申し訳ございませんでした」
続いて、課長や総務部長もそれぞれ頭を下げる。深さはまちまちだったけれど、少なくとも、この場で私の言い分は正式に認められた。
ただ一人、恒一だけは椅子に座ったまま動かなかった。
「ちょっと待ってください。どういうことですか、これは。私はプロジェクトの件で話があるからと呼ばれたはずなのですが」
恒一は明らかに不服そうな顔で室長を見た。
「人事の件も納得いきません。こんな風にころころと短期間に何度も人を出したり戻したりすれば、先方にも迷惑でしょう。書類にしても、婚約がなくなれば不要になる申請もある。それ自体は事実です。理由がどうとかなんて、そこまで気にする問題でもないと思います」
その意見に、室長は表情を変えずに答える。
「ですが少なくとも、本人都合として処理した根拠は崩れました。婚姻関係が解消され完全に他人となるのであれば、なおのことその辺りの線引きは必要では?」
室長が発言を促すようにこちらを見る。私は膝の上で握っていた手をほどき、顔を上げた。
「私は自分から仕事を降りたいと思ったことはありません。私の精神が不安定だという話も、桐生さんの説明によって作られたものです」
恒一の鋭い視線が飛んでくる。瞳は黙れと言っていた。けれど私は続ける。
「なにより、婚約破棄の原因は私ではありません。恒一さんの不貞と、恒一さん自身の意思によるものです」
会議室がざわついた。恒一が椅子を鳴らして立ち上がる。
「馬鹿なことを言うな!」
大きな声だった。
「すみません、みなさん。彼女は今、感情的になっているんです。婚約の件と仕事の件をごちゃ混ぜにして、あることないことを――」
その言葉を、室長が片手を上げて制する。
「桐生さん、この件はこれで決定です。それに私からすれば、現状はあなたの方がいささか感情的になり過ぎているように見受けられます」
「そ、それは……」
「今日のところはいったん解散にしましょう。もしそれでも決定に不服であるようならば、また別途機会を設けますのでそのときに」
恒一は何も言えなかった。
周りが誰も自分の味方をする気配がないことを悟ったらしい。
その代わり、彼は会議室を出るとすぐさま背後から私を呼び止めた。
「おい、待てよ透花」
その声は先ほどよりは落ち着いていたが、明らかに苛立ちがにじみ出ていた。
「俺は認めないぞ。今日の結論なんて、いくらでもひっくり返せる」
私も足を止める。ただし、振り向きはしない。
「だいたいお前、ここが誰の会社だと思ってるんだ? 最終的に周りがどっちを信じるかなんて、結局は俺が決めることなんだよ」
勝ち誇ったように言葉を紡ぐ恒一。
そのとき、廊下の角から足音がした。
現れた人影を見て、恒一の声が止まる。
「……か、母さん?」
まるで亡霊でも見たかのように恒一は呟いた。
「なんだよ、なんでこんなところに……?」
「私も桐生家の人間ですから。社内に入るくらいはできます」
そこで恒一は、何かを察したように私と冴子さんを見比べた。
「まさか……お前ら」
「第三者がどちらを信じるか、それはあなたが決めることではありません」
冴子さんの声音は、いつも話すのと同じくらい穏やかなものだった。けれど、逃げ場を塞ぐような響きがあった。
「なにをした……?」
「私はただ、あなたが自分で作った物語のプロットを、そのまま外へ出しただけです」
恒一の顔色が変わる。
「あんた……こんなことして、父さんが黙ってないぞ」
「どうぞご自由に。私にはもう関係のないことですから」
「!?」
これまで彼らの家の中で冴子さんがどんな立場にいたのか、私は知らない。
でも恒一の顔を見ればわかった。彼はたぶん、こんなふうに母親から言い返されたことがなかったのだろう。
なにより、あくまで他人である私と違って身内が敵に回るとなれば、もっとたくさんの知られたくない情報が世に出回る可能性がある。そのことに考えが巡ったのも大きい。
私はそこで初めて振り向いた。
「最後に一つだけ。あなたが踏みつぶしたのは婚約だけじゃない。私の立場や仕事、顔……全部よ」
恒一の視線が私に戻る。明らかに目が泳いでいた。
「そこまで壊しておいて、自分だけ何事もなかったみたいに次へ行けると思わないで」
恒一は口を開いたが、しかし最後まで何の言葉も出てこなかった。さっきまでの強気はどこへやら、視線だけが宙をさまよい、喉が小さく鳴る。
私もそれ以上は口にせず、冴子さんの横を通って歩き出す。
廊下には立ち尽くした恒一だけが残った。
***
その数週間後の午後、もはやお決まりとなった駅前ホテルの喫茶室で、私は冴子さんと向かい合って座っていた。
最初に頭を下げたのは私の方だった。
「ありがとうございました。恒一とのことも、仕事のことも、私ひとりじゃあの場にまでは辿り着けませんでした」
冴子さんは小さく頷いた。
「会社では恒一さんの処分が正式に決まったそうね。家の方も、もう前みたいには隠し通せないわ。私が預けたものが、もう動いているから」
「預けたもの?」
「実はね、家での会話をこっそり録音していたの」
私は思わず彼女を見る。
「そこにはあの人と恒一さんが、あなたとの問題をどう揉み消すか話していた声も残っている。他にも、昔の書類や記録も少しずつ集めていたわ」
冴子さんは、窓の外へ目を向けた。
「あの人たち、私が何もしないと思っていたから。……いいえ、そもそも私がそこにいることすら気に留めていなかったのでしょうね」
淡々とした口調。怒りよりも、長く置きっぱなしにされていたものをようやく片づけるような響きだった。
「そして、それらは弁護士と必要な相手に渡しました。しばらくは総一郎も、株主や関係先への説明対応に追われる毎日を送ることになるでしょう」
桐生総一郎。恒一の父親。あの夜、帝都ホテルで笑っていた人。前の件は整理済みだと、当然のように言っていた人。
たぶん、彼らにとって私は片づけた書類の一枚みたいなものだったのだろう。でも、その書類の端は燃え尽きていなかった。
「最後に聞いてもいいですか」
私が言うと、冴子さんはこちらに視線を戻した。
「どうして、私に協力してくれたんですか?」
冴子さんはすぐには答えなかった。しばらくカップの縁に視線を落としたまま、やがて静かに口を開いた。
「……若い頃、私は総一郎の部下だったの」
それは、ひどく淡々とした語り出しだった。
彼女が言うには、その立場は秘書に近い補佐役。けれど実際には、夜通し資料を作ったり、取引先との調整をしたり、ときには本人の代わりに頭を下げることもあったらしい。
それでも外に残る名前は、いつも総一郎さんのものだった。
「最初はね、『どうせ夫婦になるんだから同じことだ』って言われたの」
彼女は続ける。
「それだけじゃなく、『女が表に出ない方がうまくいく』とも」
なお、そのことに冴子さんが異を唱えると、周囲には予め「彼女は結婚前で少し不安定になっている」と説明されており、次第に腫れ物扱いされるようになったのだとか。
そして気づいたときには仕事から外されており、それについても周囲には本人が家庭に入ることを望んだのだと伝わっていたという。
ただ、時代的にも結婚を機に退職するのは普通の風潮だったし、ここで騒げば一緒に働いていた人たちにも迷惑がかかるかもしれない。
だから、その場では飲み込んだ。これから夫と穏やかな家庭を築ければ、それでいいのだと。
――そのあとで。
「あの人は、ある日突然、不倫相手との間にできた子どもを養子として迎え入れたの」
それが恒一。
ちなみに、その事実はほとんど誰にも知られていない。ごく限られた身内だけで隠され、外には一切出されなかった。私ももちろん初耳だ。
すべては総一郎さんの世間体のため。冴子さん自身も、親戚一同から強く説得されて受け入れるしかなかったという。
なにより経緯がどうあれ、赤ん坊には罪がないと考えたそうだ。
けれど今回、その息子は父とほぼ同罪のことを繰り返した。
そうならないように気を付けて育てたはずなのに。社長の息子という不自由のない立場がそうさせたのか、あるいは血は争えないということなのか。
冴子さんは、ほんの少しだけ息を吐いた。
「ともあれ、私は自分の人生の意味が見いだせなくなりました」
だがしかし、いくら後悔したところでもう遅い。
いくら願っても過去に戻ってやり直すことなどできない。
「ですが、私と違ってあなたにはまだ取り返せるものがあった」
そこでようやく、私は「なぜ冴子さんが最初に会った際、私へ協力する理由を伏せたのか」――その意図がわかった気がした。
それはたぶん、もしあの時点で私が今された話を聞いていたら、きっと彼女に対する見る目を大きく変えていたからだろう。
同情し、もしかしたら怒りの矛先そのものが恒一から総一郎さんや桐生家全体へ移っていたかもしれない。
でも、彼女はそれを望まなかった。
恐らく冴子さんは、私の姿に在りし日の自分を重ねていたのだ。
あのとき総一郎さんの不倫を許さず、逆らっていたらどうなっていただろう。そんなもしもの未来をずっと思い描き、なぜそうしなかったのかずっと後悔していたからだ。
だからこそ、今回の一件は“私”のための反抗でなければならなかった。
そして、それは無事に完遂された。
「さっき離婚届も出してきたの。あの家に残してきたのは、名字だけ。これ以上は誰の尻ぬぐいをする気もないわ」
冴子さんは清々しそうに言った。
「もう、あなたとも会うことはないのでしょうね」
「そうですね」
私は頷いた。
でも、すぐに言葉を付け足した。
「婚約者のお母様としては、ですけど」
冴子さんがわずかに目を見開く。それから、ほんの少しだけ笑った。
思えばこの人の笑顔を見たのはこれが初めてかもしれない。
「……そうね」
会話はそこで終わった。
それ以上は互いに何もしゃべらず、私たちはそろって席を立った。
そして自動ドアを抜けて店の外に出たところで、冴子さんは通りを右へ、私は左へ歩き出した。
別に示し合わせたわけじゃない。
ただ、それぞれが自分の足で好きな方向へ向かっただけのことだった。
最後まで読んでいただきありがとうございます。
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①【長編/ハイファンタジー】追放された雑用令嬢ですが、実は唯一無二の料理スキルで最強ギルドを支えてました~なお、その価値に気づいた隣国の辺境伯様だけが私を溺愛して離しません
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②【短編/異世界(恋愛)】断罪は嫌なのでヒロイン側を炎上させます
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