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こうして私の初恋は砕け散った

作者: 宮田花壇
掲載日:2026/05/25

 夜会の音楽は、厚い扉を隔てるとずいぶん遠く聞こえた。


 今、この控えの間にいるのは、私と”彼”の二人だけ。


 机の上には、彼が用意した契約書が置かれている。署名欄の横には封蝋とインク壺があり、私のために用意された羽根ペンも並んでいた。


「エレナ。これで、君の家を守る手が打てる」


 彼は、いつもと変わらない穏やかな声で言った。


「王宮の調査が本格化してからでは遅い。ヴァルト家の権益と取引記録の一部をいったんこちらで預かる形にしておけば、粛清派の彼らの目を逸らすことができる。すでに君の父上にも大筋は説明し、きちんと了承は受けている」

「……はい」


 そう頷いた私の名は、侯爵令嬢エレナ・ヴァルト。


 ――ここだけの話、私は同じ人生をやり直している。


 一度目の人生は……正直思い出したくない。ひとことで言うなら、地獄だった。


 他国を侵略して大陸全土を治めようとする“粛清派”と、それを良しとしない私たち“穏健派”。我が家はその王宮内の権勢争いに敗れ、反逆罪を着せられて潰された。

 父は連行され、屋敷は封鎖され、親しい者たちは一晩で姿を消した。私自身も王宮から逃げる途中で、何度も追手の足音を聞いた。


 そして最後に、夜の外れで手を差し伸べてくれたのが目の前の彼――クラウス・アイゼン様だった。

 あの夜から、私はこの人にずっと恋をしている。


 あのとき、すべては遅すぎた。


 けれど今は違う。私は我が家が辿る破滅を知っているし、この先何が起きるかも、誰が牙を剥いてくるかも、まだ間に合ううちに対処できる。


 だからこそ私はこの場において、彼の家と公式に協力関係を結ぶための契約を結ぼうとしている。


 一度目では遅すぎた救いの手を、今度こそ最初から掴むためにも――。


「不安かい?」


 クラウス様が少し身をかがめる。


「いいえ。……信じていますから」


 そう答えると、彼はほっとしたように微笑んだ。


 私は羽根ペンを取った。


 これは、ただの保護契約ではない。ヴァルト家を守るための署名であり、両家の持つ様々な利権を併合することで、敵が簡単にはこちらに手出しできなくするための強固な楔となるものだ。


 ……これで救われる。私も……私の家も。そして、今度こそ私はクラウス様と――。


 ペン先をインクに浸し、署名欄へ近づける。


 その直前、扉が開いた。


 音楽が一瞬だけ近くなり、すぐにまた遠ざかる。入ってきた青年を見て、私は指先に力を込めた。


「……レナード・ベルク」


 ベルク家。


 王宮地下区画の管理に関わる家であり、一度目では私たち穏健派を追い詰めた粛清派に属していた家。そしてレナードは、そのベルク家の嫡男だった。


 クラウス様が救い手なら、彼は破滅の側にいた男だ。


 私は羽根ペンを握ったまま、扉の外へ意識を向けた。彼はいったいなぜここへ来たのだろう。


 もしやこの密約を嗅ぎつけて牽制しに来た? いえ、あるいは実力行使で止めに来たのかも。

 だとするともう誰かへ知らせて応援を呼んだ後かもしれない。それか、すでに部屋の外で兵が待機している可能性だって……。


 いろいろな想像が一気に脳内を駆け巡る。


「……ベルク家の方が、なぜこちらに?」


 声が硬くなったのは、自分でもわかった。


 レナードは私を見たあと、すぐにクラウス様へ視線を移した。


「夜会警備と地下区画の確認で、アイゼン卿に用がある」


「今でなくてはならない用か?」


 クラウス様の声から、わずかに温度が消えた。


「用件なら後にしてくれ。見ての通り、こちらは取り込み中だ」


「長くは取らせない」


 レナードは短く答え、クラウス様の方へ歩み寄った。


 ――それがきっかけだった。


 移動の途中、机のそばに置かれていた燭台にレナードの手が触れる。ほんの少し位置がずれ、炎が揺れて、光の角度が変わった。


 契約書の紙面が照り返し、私は思わず目を細めた。署名欄に向かっていた視線が外れ、そのまま下段へ落ちる。


 そこに、細かな文字で条項が記されていた。


 その内容を要約すると、『ヴァルト家の取引記録、および一部関係書類について、アイゼン家側が代理提出を行う権限を有する』というもの。


 ペン先から、インクが小さく落ちた。


 たしかに、パッと見はさほどおかしな内容ではない。むしろ保護のためには必要な手続きと読める。


 この先大きく身動きの取れなくなる可能性のあるヴァルト家に代わり、王宮へ出す書類をクラウス様側が預かって提出する。そのための権限だと言われれば、筋は通っていた。


 けれどあえて穿った見方をするなら、それはヴァルト家の名で出される書類をアイゼン家が自由に扱えるという意味にも取れる。

 もしくは、ヴァルト家の名前でアイゼン家が好き放題できる――とも。


「あの、クラウス様。これは……」


 私が顔を上げると、クラウス様はすぐに意図を理解したように微笑んだ。


「ん? ああ、そこかい。なに、形式上の処理だよ。君の家を守るためには、こちらで動ける範囲を広げておく必要がある。もちろん悪いようにはしないさ」


「形式上、ですか」


「そうとも。君と君の家を守るために必要なことだよ、エレナ」


 その声は変わらずとても優しかった。


 私は一度頷きかけた。

 けれど、どうしてかペンを持つ手に力が入らなかった。


 一度目の破滅は、剣だけで起きたわけではない。


 署名。提出記録。受領印。


 私たちが何も知らないところで偽りの悪事の書類は積み上がり、ある朝、それらは反逆の証拠として読み上げられた。父が何を言っても、母がどれだけ否定しても、封を押された書類は動かなかった。


 ――本当に私を救った人なら、これを単なる形式上の処理だと言うだろうか。


 そんな考えが浮かんで、すぐに打ち消そうとした。


 クラウス様は、あの夜、私に手を差し伸べてくれた人だ。


 王宮の外れで、息もできないほど走り続けたあと、暗がりの向こうから彼の手が伸びた。私はその手を見て、ようやく助かったのだと思った。


 だから好きになった。


 あの手を、ずっと救いだと思ってきた。でも。


「そういえば……」


 ……そもそも私は、どうやってあそこまで辿り着いたのだろう。


 追手を避け、閉ざされた王宮を抜け、外へ出るまでの道。私は物陰を縫って庭を走ったわけでも、ましてや窓から飛び降りたわけでもない。


 濡れた石の匂い。

 低い天井。

 足元を流れる水音。


 あのとき、私が使ったのは――。


「まさか……」


 顔を上げた瞬間、レナードと目が合った。


 彼は何も言葉を発さない。ただ代わりに、ほんのわずかに口元へ指を立てた。


 ――何も言うな。


 そう示された気がして、喉まで出かけた言葉を飲み込む。


 鼓動が一つ、遅れて鳴った。


 でも、だからといってこのまま何も確認しないわけにはいかない。

 そうしないと、私はまた、知らず知らずのうちに全てを失ってしまうかもしれないのだから。


「あの……急に申し訳ございません。お二人に少々お聞きしたいことがあるのですが、よろしいでしょうか?」


 私は羽根ペンを机に置かず、まだ指先に挟んだまま問いかけた。


「なにかな?」


 クラウス様は柔らかく首を傾げる。


「…………」


 一方のレナードは何も答えず、ただこちらをじっと見ていた。


 私はそんな彼らに対し、なるべく何気ない様子で尋ねた。


「……もし、もしもです。例えば今夜、この王宮に何者かが襲撃してきたら……お二人は、どのようにしてそれから逃れますか」


 クラウス様は少し笑った。


「はは、襲撃か。まあ王宮の警備は万全だから、さすがにそんなことはないだろうけど」


 それから、なだめるような口調で続ける。


「まずは北門に向かうかな。あそこなら正門とは反対側だし、僕の名を出せば緊急時でも通れるはずだろうしね」


 その答えは、一見すると真っ当で手堅い手段だった。北門を出た先にはクラウス側の領地があり、逃げ込むにも都合がいい。


 ……でも違う。それは一度目の夜とは噛み合わない。


 あの夜、正門どころか北門も、すべての門は粛清派により固く閉ざされていた。

 何人たりとも近づけば捕まる。貴族の名は身を守る札ではなく、誰を捕らえるべきか示す印だった。


 レナードを見る。

 彼は少しだけ間を置いて、短く答えた。


「……“地下水路”を使う」


 それだけで、私は確信した。


 水音。

 濡れた石。

 低い天井。


 あの夜、私が走った道。


「……わかりました」


「エレナ?」


 クラウス様が私の名を呼ぶ。しかし私は答えなかった。


 署名欄には、まだ私の名はない。インクの小さな染みだけが、書かれるはずだった文字の横に残っている。


 さっきまで未来への入口に見えていた紙が、今はひどく薄く、頼りなく見えた。


「待ってくれ。エレナ、君はなにか誤解している」


 クラウス様が一歩近づく。


「僕は本当に君を守るつもりだ。その条項も、そのために必要なだけで――」


「ええ」


 私は彼を見た。


 その事実まで、嘘にしたくはなかった。


「あなたは私に手を差し伸べてくださいました。()()()――最後に立っていたのは、間違いなくクラウス様でした」


「あの夜……?」


 クラウス様の表情がかすかに緩む。


 その顔を見て、胸の奥が鈍く痛んだ。


「ですが……」


 ――私がそこまで辿り着いた道を作ったのは、あなたではなかった。


 私は羽根ペンを置き、契約書から手を離した。


「エレナ! なんなんだ急に! いったいどうしてしまったと言うんだ!」


「すみません、クラウス様。この書類には署名できません」


「なっ……!?」


 そのまま私は出口へ向かう。


 背後ではクラウス様がまだ何か叫んでいた。たぶん、私を引き留めるような言葉だったと思う。


 けれど私は振り返らなかった。

 夜会の音楽が扉の向こうでまた近づいてくる。



 こうして、私の初恋は砕け散った。




 ……しかし同時に、私は得ることができた。


 あの夜に見落としていた真実と、今度こそ自分で選ぶための出口を。


最後まで読んでいただきありがとうございます。

ちなみにレナードについてはいろいろ設定を考えたのですが、この場で明かすのはどれも適切じゃないと考えて書きませんでした。ひとことで言うと、”粛清派に潜り込んでいたスパイ”とでも考えてもらえれば……。


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