第一話 『翡翠荘の殺人』 出題編(三)
密室と消失
「どういうこと……?」
一通り部屋の捜索が終わって、私は呆然と呟いた。
部屋の中に犯人はいなかった。理子先輩の死体もなかった。ひどい出血があったことを示す、乾きかけた血痕だけが残っていた。血痕を観察していた私はあることに気がついた。
「この血痕、扉から窓に向かって引き摺ってるように見えます」
私の言葉に皆が床の血痕に注目した。
「確かに。すると、犯人は死体を窓から落としたと考えるのが自然かな。ひょっとしたら、犯人自身も窓から逃げたのかもしれない。ここは二階だが、飛び降りるのが不可能というわけでもないだろう」
瑠璃部長は窓を開けて下を見る。
「少なくとも、今は死体も犯人も落ちていないね。雨のせいで痕跡も残っていなさそうだ」
「あの」
文香ちゃんが緊張した面持ちで瑠璃部長に話しかける。
「今、窓の鍵ってどうなってました?」
「鍵かい?」
少しの沈黙の後に部長が答えた。
「……施錠されていたよ」
「ですよね。私も確認したので知ってます。その鍵、構造的に外側からは施錠できませんよね」
部長は怪訝そうに文香ちゃんを見つめた。文香ちゃんは淡々と続ける。
「すると、おかしなことになりますね。黒瀬先輩は窓が施錠されていたのを知っていました。なのに、『犯人は窓から逃げた』と言いました。これはおかしいです」
文香ちゃんの指摘に瑠璃部長は眉ひとつ動かさなかった。
「ふむ。桐生君の指摘はもっともだ。私は思い違いをしていたよ。発言を訂正しよう。犯人が窓から逃げたとは考えにくい。これでいいかい?」
「いいえ。率直に言います。私は、黒瀬先輩が私たちの議論を誘導しているんじゃないかって思っています」
部長が意味ありげに笑みを浮かべた。
「ほう。それは私を買いかぶりすぎじゃないかな。誰だって間違いはするものさ。それとも、桐生君は私こそが犯人であると疑っているのかな。私は嫌いだね。犯人の迂闊な失言から真相が明らかになるミステリは」
「ちょっとちょっと。二人とも落ち着いて。ここで言い争ってもしょうがないでしょ」
口論がエスカレートする気配を察知した茜先輩が割って入った。
「わけわかんない状況なのはわかるよ。でも、理子を殺した犯人は部屋にいなかった。これだけは確かじゃん。あたしらが次にしなきゃならないのは、口論なんかじゃなくて籠城の準備。最低限の食べ物と飲み物を集めなきゃいけないし、安全な部屋も探さなきゃいけない。違う?」
私も茜先輩に続く。
「茜先輩に賛成です。文香ちゃん、仲間割れはダメだよ」
文香ちゃんを叱る私を制止して、瑠璃部長が弁解するように言った。
「いや、いいんだ。桐生君の疑いは合理的な根拠がある。誤解を解く責任は私にあるんだ。だが、それは最低限の安全が確保されてからでも遅くはないだろう。わかってくれるね?」
「……はい」
文香ちゃんは渋々頷いた。
密室討論
一階の客室に移動した私たちは、まるで円卓に座るかのように互いに向かい合った。瑠璃部長は窓際の机と椅子を陣取って足を組んで座った。茜先輩は壁に消防斧を立て掛けて自分も寄りかかった。私はベッドに腰を下ろした。文香ちゃんは私と部長の間に割って入るようにベッドに座った。
雨はまだ降り続いていて止む気配がない。窓を叩く雨粒の音が静寂の代わりに部屋を満たしていた。
「さて」
茜先輩は髪を掻き上げて切り出した。
「状況を整理しよっか。まずは鍵と錠について。扉は内側がサムターン錠でつまみを回せば施錠も解錠もできる。外側はシリンダー錠だから鍵が必要。窓は内側からしか施錠と解錠はできない。この構造はどの客室でも一緒だね。理子の部屋の鍵は一本だけで、これはまだ見つかっていない」
茜先輩は人差し指を立てる。
「次に、時系列で起こったことをまとめるね。
一、早朝、くるみは理子の部屋を訪れ、部屋の中から理子の声と不審な物音を聞いた。
二、くるみは扉の下から血が流れ出たのを目撃し、気を失った。
三、理子の部屋の前に、文香、瑠璃、私の順番で駆けつけた。
四、扉が施錠されていること、呼びかけに対して応答がないことを確認した。
五、扉の施錠確認から斧で破るまでの間、瑠璃が扉を見張っていた。
六、理子の部屋の扉を斧で破ると、中には理子も犯人もいなかった。
七、部屋の窓は施錠され、扉と窓の他に出入り口は見つからなかった」
茜先輩は立てた七本の指を閉じたり開いたりした。
「この七つの事実から素直に導かれるストーリーはこうなる。理子は鍵のかかった部屋の中で殺されて、犯人と理子の死体は消えてしまった。つまり、密室殺人と死体消失、だね」
茜先輩の整理する状況の中で、理子先輩が殺されたと改めて聞いて私の胸が痛んだ。
「言うまでもなく、私たちはミス研部員だ。大なり小なりミステリ小説を愛好している」
瑠璃部長が口を開いた。
「だから、実際の事件を前にして、どうしても状況をミステリ的に解釈しようとしてしまう。こればかりは仕方ないことだが、そのことを自覚していなければならないと私は思っている」
「瑠璃。まどろっこしい言い方してる。悪い癖だよ」
茜先輩がたしなめる。
「すまない。そうだね、端的に言おう。綾野君が悲鳴を上げてから桐生君が駆けつけるまでの間、扉が完全に自由になる時間がある。その間に犯人は死体とともに脱出した、というのが真相ではないかな。より正確に言えば、真壁君の死体を窓から落として自分は扉から脱出して死体を回収する、といったところだろうか。ミステリ的には退屈極まりないが、現実の事件なんてそんなものだろう。はじめから密室殺人も死体消失もない、というわけだ」
部長は肩をすくめて私たちの反応を伺った。確かに部長の言う通り、この事件はそもそも密室ではない。私たちが勝手に難しく考えすぎていただけなのかもしれない。
少しして、文香ちゃんが小さく、それでも力強く手を挙げた。
「あの、いいですか」
「無論、構わないよ」
「私はそもそも、皆さんほどミステリに詳しくありません。はじめから現実的に考えているつもりです。その上で、黒瀬先輩の仮説にはいくつか疑問点があると思うんです。
第一に、時間の問題です。確かにくるみが悲鳴を上げてから私が駆けつけるまで、扉はフリーになります。でも、それはほんの五分ほどのことです。その間に犯人が死体を窓から落として脱出することは現実的にありえるでしょうか?
第二に、心理の問題です。犯人の立場で考えましょう。扉の向こうでくるみが悲鳴を上げたのは聞こえるでしょうが、気を失ったことはわからないはずです。つまり、犯人の目線では、扉の向こうにはくるみが待ち構えていることになります。そのような状況下で、犯人は扉からの脱出を五分以内に決断できるでしょうか? 扉からの脱出は、物理的には可能ですが、心理的には不自然です。
第三に、鍵の問題です。私たちが扉を破ったとき、扉も窓も施錠されていました。これはなぜでしょうか? 犯人は死体を窓から落とすために窓の鍵を開け、脱出のために扉の鍵を開けています。犯人にとって扉と窓を施錠し直すメリットはないはずです。
第四に、足跡の問題です。扉の外の血痕の様子からは、たとえば犯人が逃げた足跡のようなものは見受けられませんでした。血痕は大きく、踏まないように部屋を脱出することは難しかったはずです。また、わざわざ足跡を残さないようにしたのはなぜでしょうか?
以上の四点が解決されない限り、黒瀬先輩の仮説は現実的とは言えないと思います」
茜先輩は感心したように頷いた。
「説得力のある指摘だね」
茜先輩はちらりと瑠璃部長を見た。部長は静かに何か考え込んでいる様子だった。
「あたしが思ったこともちょっと言わせてもらおっかな。まず、鍵の問題はそんなに気にしなくてもいいんじゃないかな。確かに、扉や窓を施錠し直すことに大したメリットはないけど、大したデメリットもない。なんとなく、で説明できちゃうと思うんだよね。犯人が几帳面な性格ってだけかもしれないし」
「まあ、そうかもしれませんね」
文香ちゃんは微妙な表情で頷いた。
「次に、足跡の問題。たとえば、こういうのはどうかな。犯人は靴で血痕の上を歩いて、血痕から出るときに靴を脱いだ。こうすれば足跡は残らないよね。そこまでして足跡を残したくなかった理由は知らないけど」
「物理的には、可能ですね」
やはり文香ちゃんは微妙な表情だった。私は納得できてしまったのだけど、こういうところが「ミステリ的」なのかもしれない。
「あたしが思ったのはこんなものかな。なんか枝葉の話になっちゃったね。文香の言う通り、心理的に扉から脱出できないというのは、あたしも全面的に同意。瑠璃の説はちょっと弱いかな、って今は思ってる。瑠璃からは、何かない?」
瑠璃部長はしばらく沈黙していた。雨音がやけに大きく聞こえる。やがて、部長は重い口を開いた。
「……特にないね。確かに、私の仮説にはいくらか未解決の問題があるのかもしれない。しかし、これを否定するということは、密室殺人と死体消失を認めるということだ。秘密の隠し通路でもあるというなら話は早いのだが」
議論が一段落したタイミングで、私はずっと気になっていたことを切り出してみた。
「あの、静香先輩はどうしているんでしょうか?」
静香先輩の部屋を調査したのは茜先輩だったはずだ。皆の視線が茜先輩に集中する。
「静香のことはあたしにもわかんなかった。扉には鍵がかかっていて呼びかけても返事はなかった。静香の部屋は一階だったから外に回って窓からも確認してみたけど、やっぱ鍵がかかっていたし、カーテンも締め切られてて中の様子は見えなかった」
「静香先輩、大丈夫なんでしょうか?」
部屋がしんと静まる。誰もその問いの答えをもっていなかった。
おもむろに茜先輩が壁に立てかけていた斧を手に取った。浅く溜息をつく。
「ごめん、静香のことはあたしが無責任だった。いっぱいいっぱいでそこまで気が回らなかった。今思えばもっと早く行動しなきゃいけなかったね。私は、静香の部屋に行く。皆はここに残っていていいよ」
私は少しでも助けになりたくて、手を挙げた。
「私も行きます。一人じゃ危ないです」
文香ちゃんも手を挙げる。
「私も行きます」
「二人とも、ありがとう。 ……瑠璃はどうする?」
瑠璃部長は憔悴した様子で手を振った。
「申し訳ないが、佐々木君のことは君たちに任せよう。私は少し疲れたよ」
文香ちゃんが鋭い目つきで部長を睨む。茜先輩が不安そうに尋ねる。
「瑠璃、一人でこの部屋に残るつもり?」
「危険だと思うかい? まあ、大丈夫だろう。戸締まりはちゃんとするし、この部屋の鍵はここにある一本だけだ。犯人が茜みたいに斧を振り回さなければ平気さ」
瑠璃部長はそう言って茜先輩に鍵を渡した。




