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ミステリ的にフェアじゃない!  作者: nilgirl


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第一話 『翡翠荘の殺人』 出題編(一)

薄明

 薄明、売ってます。二百円。

 素っ気ない文句の看板に惹かれて、くるみは教室に入った。西校舎の三階。文化祭の喧騒から遠く離れたこの教室で、一人の少女が窓辺に佇んでいた。机の上に積み上げられている冊子が『薄明』なのだろうか、とくるみは思案する。窓辺の少女はゆっくりと手許の冊子のページをめくっている。窓が開いているのか、微かな風がそっとカーテンを揺らした。穏やかな陽の光が差す。

 ふと彼女は顔を上げて、くるみを認めると微笑んだ。

「ようこそ、ミス研へ。部誌、どうですか。一冊二百円です」

 夏の冷たい炭酸水のように透き通った声だった。小さな泡が胸の奥で弾けて、そのいちばん柔らかなところをくすぐった。

「ミス研って、何をする部活なんですか?」

「ミステリ研究部。ミステリを読んだり、書いたりする部活だよ」

「ミステリって、何ですか?」

 流れるような動作で彼女は口許に手をあてた。少しの間考えるように沈黙して、そして答える。

「謎が提示され、解答が明らかになる構造をもつ物語、かな。推理小説や探偵小説とも呼ばれるけど、ここではミステリで通ってる」

「この部誌、あなたの書いた作品も載ってるんですか?」

「うん。一応、ね」

 彼女ははにかんで、目次のページにあるタイトルのひとつを指差した。『名古屋モーニングの謎』。作者の名前は――真壁理子。その名前の響きを確かめるようにくるみの唇が小さく動いた。

「私、買います」

「ありがとう」

 くるみはお金を支払って『薄明』を受け取り、大事そうに抱える。理子は頬杖をついてくるみを見つめていた。

「ねえ、君って中学生?」

「はい! 明倫高校は志望校なんです」

「そっか。それじゃ、未来の後輩だね」

 理子先輩の後輩。その響きにくるみの胸は高鳴った。

「私、絶対合格して、この部活に入りますね!」

「うん。待ってるね」


登場人物

- 綾野くるみ:一年生。ミステリ歴半年、何を読んでも楽しい時期。特に密室ものがお気に入り。好きなミステリ小説は『黄色い部屋の秘密』(ガストン・ルルー)。

- 真壁理子 :二年生。くるみの憧れの先輩。推理の鮮やかな作品を好む。好きなミステリ小説は『Yの悲劇』(エラリー・クイーン)。

- 桐生文香 :一年生。くるみの幼なじみ。読書家だがミステリはあまり読まない。好きなミステリ小説は『大いなる眠り』(レイモンド・チャンドラー)。

- 黒瀬瑠璃 :三年生。ミス研のミステリアスな部長。ミステリもホラーも好む。好きなミステリ小説は『火刑法廷』(ジョン・ディクスン・カー)。

- 橘茜   :三年生。ミス研の元気な副部長。瑠璃とは腐れ縁。日常の謎を好む。好きなミステリ小説は『愚者のエンドロール』(米沢穂信)。

- 佐々木静香:二年生。不定期参加の帰宅部。あちこちの活動に顔を出しているらしい。好きなミステリ小説は『ドグラ・マグラ』(夢野久作)。


『翡翠荘の殺人』

 ――だめだ。全然思いつかないや。ミステリを書くのって難しい。

 私は椅子から立ち上がって伸びをする。壁に掛けられたレインコートが目に入った。そろそろ乾いたかな、と思って触れるとまだ湿っていた。昼間よりも勢いを増した雨粒が不規則に窓ガラスを叩く音が室内を満たしている。

 明倫高校に入学して初めてのゴールデンウィーク。私たちはミス研の春合宿で瑠璃部長の親戚が所有するY県H市の山奥の別荘に来ていた。一時間に一本しか電車がないような無人駅から、さらに徒歩一時間。パラパラと降る小雨の中、キャリーケースを引きずってうんざりするような山道を歩いた。特に、静香先輩は細い腕に不釣り合いなほど大きな荷物で、見てるこっちが心配になるほどだった。

 やがて現れた別荘の名前は――翡翠荘。森の緑に溶け込むような翡翠色に塗られた外観からそう呼ばれているらしい。

「なんだか、秘密基地みたいな建物ですね」

 思わずそう口にすると、瑠璃部長は意味ありげに笑った。

「鋭いじゃないか。実は、翡翠荘はもともと危険な反政府組織の隠れ家のひとつだったんだ。人目を避けて潜伏するためにこの色に塗ったらしい。しかし、それも何十年も前の話だ。今ではその反政府組織も解散し、持て余した翡翠荘は売りに出された。それを好事家の叔父が喜んで買い取ったというわけさ」

 合宿の名目はミステリ小説の執筆。今夜は二泊三日の合宿の最初の夜。明後日の朝までに一万字の小説を完成させて、提出しないといけない。レトロなマホガニーの机の上にパステルピンクのノートパソコンを置いて、文字通り夜を徹して執筆に取り組んでいた。

「薄明、とは言えないかな」

 いつの間にか窓の外がぼんやりと明るくなっていた。空は分厚い雲に覆われていて雨は弱まる気配がない。原稿はちっとも進んでいないのに時間だけは容赦なく過ぎていく。

 理子先輩、起きてるかな。相談してみようかな。

 私は探偵が密室殺人の謎を解くシーンを書くのに苦戦していた。推理の流れがどうしても不自然になってしまうのだ。ミステリの推理は数学の証明と似ているようでちょっと違う。推理は証明のような正しさをある程度備えていなくちゃいけない。でも、それだけで十分とは言えない。

 犯人は条件XYZを満たす人物である。 AはXを満たす。 AはYを満たす。 AはZを満たさない。よって、Aは犯人ではない。 BはXを満たす。 BはYを満たさない。よって、Bは犯人ではない。 CはXを満たさない。よって、Cは犯人ではない…………。こんな推理が面白いとは思えない。

 改めて書きかけの推理を読んでみる。少しの飛躍はあるけど、それほど間違った論理の展開にはなっていないと思う。でも、退屈だ。私も理子先輩のように鮮やかな推理が書けるようになりたい。

 私は理子先輩にメッセージを送ろうとスマホを探した。そういえば、執筆に集中するために皆のスマホを静香先輩が持ってきたタイムロッキングコンテナに封印したんだった。タイムロッキングコンテナは、タイマー付きの金庫みたいなもので、一定時間が経過するまで開けることができない箱だ。特に瑠璃部長と静香先輩が率先して皆のスマホを封印して回った。だから、三日目の朝になるまで誰もスマホを使うことはできない。

 仕方ない。私は意を決して部屋を出た。まだ早朝だけど、理子先輩もみんなも徹夜して書くと話していたから、きっと起きているはず。雨音で満たされた翡翠荘にパタパタとスリッパの音が加わる。

 理子先輩の部屋の前に立った私は、遠慮がちに扉をノックした。

「あの、理子先輩。起きてますか?」

 返事はない。部屋の中からぼそぼそとくぐもった声が聞こえた。誰かと会話している? 話の内容までは聞き取れない。私は自然と耳を澄ませていた。

「――お願い。それをしまって。怖いの。 ……やめて、来ないで!」

 理子先輩が悲痛な声を上げた。激しい物音が伝わる。私は思わず体を震わせた。中では一体何が? 首筋に嫌な汗が流れる。私は扉を強く叩いて呼びかけた。

「先輩! 理子先輩! どうしたんですか!?」

「くるみなの? 助けて――きゃっ!」

 理子先輩の言葉が途中で途切れた。呻くような声。重くて硬いものが地面に衝突したような音。ただならないことが起こっていることがわかって、私は思いっきり扉に向かって体当たりをした。肩に痛みが走る。私の体重くらいでは扉はびくともしなかった。

「理子先輩! 大丈夫ですか!?」

 返事はない。私は扉を叩き続ける。

 ぴちゃり。スリッパが何か液体を踏みつけた。水でないことはわかった。もっと粘ついている。恐る恐る視線を落とす。扉の隙間から黒い影のようなものが染み出して広がりつつあった。

 ……血? そう認識した瞬間、視界がぐにゃりと歪んだ。体がふわりと浮く感覚。誰かが悲鳴を上げている。尾を引く長い悲鳴。

 これは、私の声だ。

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