第48話 一方その頃⑥ 王の激怒と静かな決断
アルマティア王国・王城。
結界国家の中枢にして、王権の象徴たる城は、夜明け前の時間帯にあった。
国王の執務室は、王城の奥深くに設えられている。厚い扉は閉ざされ、外からの物音は遮断されていた。
「こんな朝方に報告書とは……だが差出人がアイツであるかぎり、読まんわけにはいかぬか」
部屋にいるのは、国王ただひとり。書机の前に立ったまま、国王は微動だにしなかった。豪奢な椅子に腰を下ろすこともなく、ただ一通の書面を両手で掴み、真剣な表情で視線を走らせている。
夜明け前、緊急の報告として届けられた正式報告書。
提出者は、近衛騎士団筆頭――ルシアン・ヴェイル。
「なっ!? こ、これは……」
その筆致は簡潔だった。
感情を排し、事実のみを列挙する、あまりに冷静な文章。
――だからこそ。
一行、一行が、容赦なく突き刺さる。
「辺境伯は現在、生死不明。屋敷は事実上、機能停止状態。その妻と娘は、マール王女を冷遇。食事の未提供、医療の放棄、使用人以下の扱い。挙句の果てに、魔の森方面へ放置……だと?」
そして現在、王女マールは行方不明とある。
報告書を持つ国王の手が、わずかに震えた。
読み進めるにつれ、顔色から血の気が失われていく。
口元が引き結ばれ、呼吸が浅くなる。
最後の行を読み終えた、その瞬間だった。
――ドンッ!!
重い音が、執務室に響いた。
国王の拳が、書机を叩きつけていた。
硬い木材が軋み、置かれていた書類が跳ねる。
「陛下! どうされたのですか!」
控えの間にいた側近たちが駆けつける。扉が開かれ、張り詰めた空気が室内に流れ込んだ。
「……許さん」
国王は顔を伏せたまま、低く、短く吐き捨てるように言った。
「近衛騎士団を招集しろ。魔の森へ向かう。私が先頭に立つ」
側近たちの間に、明確な動揺が走る。
「へ、陛下……!」
「お待ちください、それは――」
言葉を遮るように、国王は執務室を歩き出した。
「準備に時間をかける余裕はない。今も、あの森のどこかに――」
言葉が、途中で切れる。
握りしめた拳が、わずかに震えた。
側近のひとりが、覚悟を決めたように前へ出る。
「陛下。どうか、お考え直しを」
それは進言だった。
王を諫めるための、職務としての言葉。
「以前も申し上げましたが、国王自らが前線に立つなど、前例がございません」
続けて、宰相が一歩前に出た。
「陛下のお気持ちは、理解しております。ですが――」
「我が子はきっと、助けを求めておる。父が行かずしてどうする」
一瞬、誰も言葉を失った。
王としてではなく。
そこにいたのは、ただ一人の父親だった。
沈黙が、重く落ちる。
そのときだった。
――ばさり。
執務室の高窓に、伝令鳩が舞い降りる。
それはルシアンからの二通目の報せだった。
『マール様は必ず生きておられます! マール様を愛する陛下に代わり、このルシアンが必ずや連れて帰ります!!』
国王の表情が、わずかに揺れた。
安堵と、呆れと、感謝。
それらが一瞬で交錯する。
「……あいつらしい」
王は、深く息を吐いた。
「まったく。自分より暴走している者を見ると冷静になる、というのは本当だな」
その言葉とともに、国王の背筋が伸びた。
声の調子が変わる。
先ほどまで滲んでいた怒りの感情は引き、そこに残ったのは、判断を下す者の冷静さだけだった。
「――ここからは、王として命じる」
短い宣言。
それだけで、執務室の空気が切り替わる。
側近たちは自然と背を正し、国王へと視線を集めた。
「辺境および魔の森周辺について、即時対応を開始せよ」
国王は指を折り、淡々と告げる。
「第一。軍を動かし、森周辺の監視を強化する。街道、補給路、周辺集落――すべてだ」
「第二。災害級魔獣の動向を洗い出せ。過去の記録も含め、異変があれば即時報告」
「第三。隣国リヴィア龍帝国へ、慎重に情報収集を行う。こちらから踏み込みすぎるな。目的は“異常の有無の確認”に限る」
簡潔で、無駄がない。
そこに反論の入り込む余地はなかった。
「以上だ。各自、持ち場へ戻れ」
命令が下ると同時に、側近たちは一斉に動き出す。
返答は短く、迷いはない。
「はっ」
執務室に、再び静けさが戻った。
その中で、控えていた王太子が、静かに一歩前へ出た。
年の頃は二十半ば。
若さは残るが、軽率さはない。王城で育ち、学び、国政の場にも同席してきた男だった。
「……父上」
退室していく配下を見送っていた王の視線が、彼へと向かう。
「そもそも、魔の森とは何なのでしょうか。なぜ、あのような土地が存在しているのですか」
無知から出た問いではない。文献をいくら紐解いても、魔の森は古来よりの禁足地と記されるのみで、その成り立ちや正体については、意図的に語られてこなかったのである。
一瞬、沈黙が落ちる。
「……そうだな」
短く息を吐く。
「お前にも、そろそろ話しておくべきかもしれぬ」
国王はゆっくりと窓へ視線を向け、静かに続けた。
「これは各国の王族と、そのごく一部にのみ伝えられてきた逸話だ。聞けば、お前も“古から続く呪い”に巻き込まれることになる。それでも――聞く覚悟はあるか?」
ゴクリと、王太子が唾を飲み込む音が執務室に響く。
窓の外では、夜明けの光が差し始めている。
その向こう――魔の森の方角には、低く雲が垂れ込めていた。




