第35話 告解
マールたちが拠点へ戻る、ほんの少し前のこと。龍帝国軍の登場で静まり返っていたカルデサックだが、昼前にはいつもと変わらぬ喧騒が戻っていた。
行き交う人々の声、商人の呼び込み、石畳を踏む足音。だがその流れの中を、街とはどこか噛み合わない存在が歩いている。
ブリュンヒルデだった。
龍帝国軍の軍服を身にまとい、姿勢正しく歩く姿は軍人として一分の隙もない。だが、その表情には微かな疲労が滲んでいた。
(……ここか)
足を止めた先は、街外れにある一軒の古い家だった。手元のメモには、街の住人から聞いた家の住所と特徴が書かれている。黄色い屋根の小さな家。それと猫。ハンナ婆さんの家だ。
(……よし)
一瞬だけ、呼吸を整える。そして、扉をノックした。
「突然申し訳ない。私はブリュンヒルデ。龍帝国軍中尉です。本日よりヒュドラの調査任務のため、この街へ赴任してまいりました」
扉を開けて現れた老婆に、ブリュンヒルデは礼儀正しくあいさつを交わす。名も、階級も、立場も隠さない。それが誠意だと信じているからだ。
「知っとるよ。広場で騒ぎになっとったからね」
対するハンナ婆さんの声は、冷え切っていた。その視線が、鋭くこちらを射抜く。
それでもブリュンヒルデは怯まず、一歩前に出て、意を決したように口を開いた。
「レグルスという男について、お尋ねしたいんです」
声は、必要以上に強くならないよう抑えている。だが冷静沈着な彼女にしては、若干緊張した声色だった。
「アンタのことはレグルスから聞いとるよ」
「本当ですか? 良かった、ここに来れば会えると聞いて――」
「随分と、あの子を傷つけたそうじゃないか」
その一言で、ブリュンヒルデの喉が詰まる。
「そ、それは」
続く言葉が、出てこない。
ハンナ婆さんは、強く床を踏みしめた。
「レグルスはね、あたしにとっちゃ息子みたいなもんなんだよ」
皺だらけの指が、ぶるりと震える。
「アンタみたいな人を、あの子に会わせるつもりはない」
視線が、はっきりと拒絶を帯びる。
「帰っとくれ」
それ以上、言葉はない。
扉の前に、短い沈黙が落ちた。
「そう、ですか」
ブリュンヒルデは、唇を噛みしめる。
弁明はできた。
立場を語ることも、事情を説明することも。
だが――それをしなかった。
「前触れもなく突然訪れた無礼、大変申し訳ありませんでした」
ただ一度、深く。
心からの謝罪を込めるように、頭を下げる。
そして、何も言わずに踵を返した。
背中に残るのは、拒絶の視線と――自分が犯した過去の過ちという、重たい実感だけだった。
◆
その場に、居合わせてしまっていた。
曲がり角の向こう。
拠点へ戻る途中の、ほんの偶然。
マールとレティシアは、思わず足を止めていた。
ハンナ婆さんの家の前。
重たい空気の中で、ブリュンヒルデが頭を下げ、踵を返すところだった。
――そして。
扉が、静かに閉まる。
ハンナ婆さんは何も言わず、そのまま家の奥へと引っ込んでいった。残されたのは、ブリュンヒルデ一人。
彼女は数歩だけ歩いて、すぐに立ち止まってしまった。背筋は伸びたままだが、まるで行き先を失ったかのように、足だけが止まっている。
「……ざまぁみなさい」
マールの隣で吐き捨てるように、レティシアが言った。
「あれだけレグルスを見下すような態度を取っておいて、自業自得でしょ。拒絶されて当然だし、手を出されなかっただけ、むしろ甘いくらいよ」
「でもそれは、あの偉そうな男の人がしたことだよ? 別にこの人じゃ……」
「この女も後ろで聞いてたのに、否定もしなかったじゃない! アタシからしたら同罪よ!」
実際には相手が上官だったがゆえに、ブリュンヒルデも口を挟めなかっただけだろう。だが、レティシアは納得がいかないらしく、腕を組んだままぷいと顔を背けた。
その横で、マールは視界の先に居るブリュンヒルデをじっと見つめていた。
広場で見たときの、凛とした軍人の姿。
誰にも隙を見せず、淡々と指示を飛ばしていたあの背中。
今は――少しだけ、違って見えた。
「……ちょっと、どうしたのよ」
気づいたレティシアが、怪訝そうに声をかける。
「マール……お話してくる」
次の瞬間だった。
マールが、ふっと一歩、前に出る。
「って、ちょっと!?」
慌てて声を上げるレティシアを置き去りにして、マールは小走りにブリュンヒルデのほうへ向かった。
「あの……」
かけた声に、ブリュンヒルデが振り返る。
「君たちはたしか……レグルスと一緒にいた子たちか」
視線が二人を捉え、わずかに目を見開いた。
「……すまない」
低く、短い声。
「こんなところを、見せるつもりはなかった」
追いついてきたレティシアが、ぴくりと眉を動かす。
「別に。アタシたちは偶然、近くを通りがかっただけだし」
突き放すような言い方だった。
ブリュンヒルデは否定も弁解もしない。ただ一度、小さく頷いた。
それから、ほんのわずか逡巡して口を開く。
「……突然こんなことを言うのも変だと思うのだが。もし時間があるのなら、少し話をさせてもらえないだろうか」
二人の顔を、順に見る。
「君たちが無理だと言うなら、それでいい」
それは命令でも、要請でもなかった。ただの、正直な申し出だった。
「は? なんでアンタなんかと――」
レティシアが即座に反発しかけた、その言葉を――
「……いいよ」
マールが、遮った。
小さく、けれど迷いのない頷き。
「ちょっと、マール!?」
思わず振り返るレティシアをよそに、マールはブリュンヒルデを見上げた。
「ごはん、ご馳走してくれるなら……」
「え……」
まさかの申し出に、ポカンとするブリュンヒルデ。
「はぁ……アンタねぇ」
「でもレティシアちゃんだって行きたいでしょ?」
「え? そ、それはそうだけど……」
それまでの緊張感が一気に和やかになると、ブリュンヒルデは一瞬だけ目を伏せてから、
「……感謝する」
と少しだけ頬を緩めた。
こうして三人は、カルデサックの街へと歩き出す。
◇
三人が入ったのは、街路から少し外れた場所にある食事処だった。木造の古い建物で、派手さはないが、長年この街で続いてきたのだろう。床も机も丁寧に手入れされ、静かで居心地のいい店だった。
ちなみにマールはステーキ食べ放題のお店を提案したのだが、さすがに空気を読んだレティシアによってこの店に変更された。
「やっぱりそういうところ、レティシアちゃんはしっかりしてるよね」
「しっ。いいからアンタは黙ってなさいよ」
席に着き、注文を済ませても。
ブリュンヒルデは、すぐには口を開かなかった。
背筋を伸ばしたまま、卓上の木目に視線を落とし、何度か唇を開きかけては閉じる。マールは、その横顔をじっと見つめてから、小さく息を吸う。
「……事情を、聞きたいです」
静かな声だった。
「隊のお兄さんたちから、昔お仕事で色々あったことは聞いています。でも……詳しくは、教えてくれなくて」
ブリュンヒルデの肩が、ほんのわずかに揺れた。
「あぁ……フリッツたちか」
懐かしむように、名前を口にする。
「懐かしいな。あんなことがなければ……アイツらとも、酒でも飲みながら語り合いたかったが」
そこで、ふっと自嘲するように息を吐く。
レティシアが、腕を組んだまま口を挟んだ。
「アタシも、パパから詳しくは聞いてないのよね。『昔の話だ』って、それだけ」
ブリュンヒルデは、はっとしたように顔を上げる。
「……今更だが、どうしてレティシア王女殿下がここに?」
その問いに、レティシアは眉を吊り上げた。
「別にどうでもいいでしょ。アンタに理由を説明する義理なんて無いわよ」
冷たい声。
空気が、ぴんと張る。
その間に、マールはブリュンヒルデを見上げた。
「レグルスおじさんのこと、教えてください」
迷いのない声。
「マール……ちゃんと、知りたい」
ブリュンヒルデは、視線を落とした。
しばらくの沈黙。
「……面白い話じゃない」
低く、静かな声。
「特に、これは“大人の悪いところ”の話だ。君たちの気分を、悪くするかもしれない」
言葉を選ぶように、一つずつ区切る。
しかしそれでもマールは、間髪入れずに答えた。
「大丈夫」
短く、それだけ。
逃げも、怯えもなかった。
再び、短い沈黙が落ちる。
やがて、ブリュンヒルデはゆっくりと息を吐いた。
「……そうか」
顔を上げる。
そこにあったのは、軍人としての仮面ではなく、一人の大人としての覚悟だった。
「ならば……話そう」
それは、これまで胸の奥に封じてきた記憶への扉を開く言葉だった。
レグルスが、何を失い。
何を背負わされ。
そして、なぜ軍を去ることになったのか。
その過去は、ここから語られていく。




