episode.38 #甘味
結局、マルクスは元々の予定通りに村へ帰った。
アルノルトに最後の挨拶をする時に、「姉さんを、よろしくお願いします」なんてカッコつけて頭を下げていた。
さあ、また今日からここでアルノルトとの生活が始まる。
以前と変わった事はただ一つ。
「…………な…なん、ですか…?」
ニコニコと何やらご機嫌なアルノルトによって壁際に追い詰められているエルザ。
仮面が無ければ間違えて触れてしまいそうな距離だ。
「これ、早く外してくれない?」
「い……なんでですか…」
「なんでって、これがあると君の顔が見えないし唇に触れられない」
まだ昼間だと言うのにアルノルトの声は甘くその瞳は熱を孕んでいる。
「おっ…お昼、まだでしたよね。何か作りましょうか」
「そうだね、折角だし一緒に用意しようか。キスの後で」
「……………」
「ねぇ、エルザ。どうか僕の気持ちを受け取って」
ぐぬぬ、とエルザは奥歯を噛んだ。この男、こうやって猫撫で声で頼めば良いと分かっていてわざとこうしているに違いない。ちくしょう、女の敵だ。
思わず従いそうになってしまう己に喝を入れて、エルザはアルノルトの小脇をするりと抜けた。
「私を他の人と同じにしないでください。そんなものじゃ騙されませーーっ!!」
「っ………」
最後まで言い切る前にエルザは簡単に捕まり、その唇を守っていた仮面兵は優秀な騎士であるアルノルトには歯も立たず全面降伏していた。
アルノルトの熱が、何も隔てる事なく直接伝わってくる。
触れたまま満足そうにアルノルトが微笑むのを感じ、エルザは顔を紅く染めていた。
「こんなに自分の過去の行いを悔いたのは初めてだよ。僕は君を何より特別に扱っているのに、それが伝わっていないなんてね。ねぇ、どうしたら伝わるか、試してみようか?」
「ひっ……………」
精一杯の力でアルノルトを押し返してみてもびくともしないどころか、まるで負荷を感じていないかのように再び顔が寄せられ、熱に当てられて目が回りそうになったその時…
ぎゅろろろろろろ…………。
「……………」
「……………」
アルノルトはピタリと動きを止め、暫くして大笑いした。
腹の虫が鳴いたのはエルザの方だ。それはそれで恥ずかしい。
「あっははっ……!マルクスが帰って邪魔は入らないと思っていたけど、僕の誤算だった」
「……………」
し、仕方ないじゃないか、お昼なんだもの。生きているんだから腹は減る。
「お昼にしようか、急ぐ事は無いもんね。だって君の心はもう僕のものでしょう?」
「う………」
否定出来ないのが悔しい。満足そうに目を細めるアルノルトをせめてと睨み返すエルザだったが、全くその攻撃が効いているとは思えない。
なんと言うか………
「甘い」
寝ても覚めても甘い。誤解のないように言っておくが、寝室はもちろん別々である。
だがエルザの心はどこで何をしていようとアルノルトに支配されてしまっている。
良くない………。
「え?甘いものがいい?」
「いえ、肉がいいです」
因みに、誠に残念ながら、料理の腕はアルノルトの方が上である。
そして言わずもがなエルザは掃除が嫌いだ。
自分の事ながら、こんなやつのどこが良いのかと疑問である。この命が尽きるまでにその答えを出せると良いのだが、かなりの難題だ。
とは言え料理に関してはアルノルトの方が手際がいいと言うだけで、エルザもする。
2人でいる時は2人でやった方がはやい。何しろこの家のキッチンは2人並んでも余裕だ。
言い換えると1人だと広すぎる。
「君は見た目の割に良く食べる方だと思うけど、どうしてこんなに細いんだろうね」
………前言撤回。
2人でやるとアルノルトが邪魔をしてくるので作業効率は格段に下がる。
今もこうして左腕を拘束されてしまっては全く進まない。
これならアルノルトが1人でやった方が格段に早い。
「男女の違いじゃないですか?」
「そうかな?」
何も気にしていない風を装っているが、アルノルトの服の袖から覗く筋肉質でがっちりした手首は結構魅力的だ。
アルノルトはゴリゴリのマッチョというわけでは無いが、騎士と言うだけあって良く引き締まった体をしている。
………と思う。
実際に見た事は無いけれど、抱きしめられたりした時に…そう、感じる………。
アルノルトの事だから見せてと言えば見せてくれそうだが、果たしてその刺激に自分が耐えられるか自信が無い。
未だエルザの左手を弄ぶアルノルトをエルザは真顔で見つめていた。
ふと、それに気づいたアルノルトはふわっと笑みをこぼす。
「キス?」
「違います離してください」
危ない。全くもって油断できたものでは無い。
「あはは、折れそ」
事あるごとに腕を折ろうとするのをやめて欲しい。その気になられたら本当に折られそうだ。
「大体こんなものじゃないですか。それとも、これまでのお相手は裕福でしたでしょうから肉付きが良かったんですかね」
皮肉を言えば自分も傷つくと分かってはいるのだが、どうしてか、こう……時々言ってしまう。
その度にアルノルトは悲しそうに、申し訳なさそうに微笑む。
「………怒っている?」
「怒ってはいません」
自分だけが慣れていなくてドキドキしているようで、それが嫌だなんて、言えるはずはない。
「ごめんね。…過去はあげられないけど、僕の未来を全部君にあげるから、それで許してくれない?」
「……………………やっぱり怒りました」
この男、やはりわざととしか思えない。
締めつけられる胸の痛みを悟られないように真顔を貫くと、アルノルトは「え?え?」と困惑の声を漏らしていた。




