表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
6/6

おまけ:分別と恋情

 






 


 四年とちょっと前。

 おれの幼馴染とも言える由衣ちゃんが、芸能界に復帰した。


 あまりに派手な復帰だったからかメディアが大々的に取り上げて、一瞬は由衣ちゃんブームにまでなったそうだ。その衝撃は興奮状態の兄さんや母さんから聞いていたから、テレビや携帯なんてものを見ないおれにも充分伝わった。

 ああ、元気にやっているんだなと。そうやって安心したのを覚えている。



 カタカタ、とやかんの音が変わる。見れば、吐き出す蒸気もない。水がすべて蒸発したのだと気づいて、特に焦る事もなくそれを持ち上げた。

 気休めのような暖を提供してくれていたストーブの上に置いている、乾燥防止のやかん。意外と大きな役割を担っているそいつに再び頑張ってもらわなければと、水を入れるために外へと踏み出した。


 温度はさほど変わらない。けれど確実に、寒さによる痛みは増した。

 雪が降っていたようだ。しんしんと降り続く雪は、少し積もっている。なるほどこれでは寒いはずだと、空を見上げて息を吐いた。

 広がる曇天。そこから不似合いな白が散るのは、どこか幻想的にも思える。

 とはいえ寒いのには変わらないために、早々にやかんに水を補給して室内へと戻った。



 ――由衣ちゃんと再び会わなくなって、もう五度目の冬。

 連絡も取らないし、由衣ちゃんも会いに来る事はない。結局そんなものだよな、なんて、最初の頃は拗ねていた。

 だけど思うのだ。由衣ちゃんが弱った時に思い出すのがおれならば、それはものすごく喜ばしい事なのではないかと。

 

 キャンバスの前に座って、ペインティングナイフを持つ。慎重に色を乗せて、そこにだけ集中していた。

 この時間が好きだ。何も考えなくていい。ただひたすらに、自身の気持ちを絵にぶつけるだけの時間。誰にも邪魔されずに感情を開放出来るこのひと時が、昔からかけがえのないものとしておれの中にある。


 

「雅臣ー」

 ガラリと、戸が開く。視線を向けなくても声で誰か分かったために、作業の手は止めなかった。

「なに」

「おっ。油絵か、いいな」

 何の用か、と聞いたつもりだったのだけど……どうやら兄さんには通じなかったらしい。ずかずかと入ってきて、おれと同じ目線でキャンバスを見つめる。

「ふむふむ、安定してんな」

「……近い。というか、なに、また見合い?」

「見合いといえばおまえ、この間のやつも断ったんだって? 今度こそ好みだと思ったのに……ちょっとは兄ちゃんの顔立てようとか思えよ」

「関係ない。そもそも兄さんが勝手に話持ってきてるだけだろ。おれは要らないって言ってるのに」

「もう二十六歳なんだからさー、結婚しようとか思わんのかね」

「思わない」


 由衣ちゃんと最後に一緒に東京に行ったあの時。会わせたい人がいる、と言われていたために、神矢と由衣ちゃんを会わせている隙にそちらに向かった。

 の、だけど。

 相手はなんとおれの絵を気に入ってくれている人で、しかも目的は明らかにその人の娘とおれを会わせる事だったために、まったく辟易とさせられたものだ。

 二度とやめてくれと言ったはずなのに、兄さんはどういうつもりなのか、それからも複数の女性とおれを無理矢理引き合せる。曰く、恋愛をすべきだ、ということらしいが、興味がないのだからどうにもならない。

 これはもう兄さんとおれの根比べである。


「あの絵があるからだろ」

 呆れたように、兄さんが言葉を吐いた。

 あの絵。それに心当たりがあって、一瞬だけ手が止まる。

「あれがある限り、おまえは恋愛なんかしないんだろうな」

「なんの話」

「誤魔化すな。……俺はさ、おまえに期待してるんだ。これからもっと飛躍する。それが出来る。そのきっかけに恋愛というツールが使えるなら、使ってほしいと思ってる」

 立っていた兄さんは、かつて由衣ちゃんがよく座っていた椅子に腰掛けた。それをちらりと確認して、すぐにキャンバスに視線を戻す。

「兄さんが勝手に言ってるだけだ。それも、おれには関係ない」

「…………ああ、そうだな。関係がない。だけど、おまえの『幸せ』に関しては、家族として俺には関係がある」

「……なにが言いたいの?」

 手を止めた。いい加減、遠回りが過ぎて集中出来そうにない。



「あの絵、欲しい人が居てな。売ることにした」



 一瞬。本当に一瞬だけ、何を言われたのかが分からなかった。

 だけど次には体が動いて、近くにあった濁った水の入ったバケツを兄さんに投げつけていた。

 水浸しになることも考えられなかった。ただ、衝動のままに動いたのだ。

「つめてっ! 寒いだろうが!」

「勝手な事するな」

「もう決まった事だ。覆せないからな」

「買い戻して」

「ダメだ」

「買い戻せって言ってんだよ!」

 さっきまで使っていたペインティングナイフを、製作途中のキャンバスに突き立てた。

 中心部分に、ざっくりと穴が空く。兄さんはただ、目を丸くして驚いていた。

「見合いも、取材も……これまでの『勝手』は黙認出来た。それが許せる範囲の事だったからだ。……でも、それだけは許さない。倍額出してでも買い戻せよ」

 あの絵は。あの、二枚だけは、おれの大切なものだ。

 どちらを売ったのかは分からない。もしかしたら、両方かもしれない。それを思えば、あとからあとから怒りが溢れる。

 おれがどれだけあの絵を大切にしてきたかを知っているはずなのに、それを簡単に売却してしまった兄さんが、今は憎らしくてたまらなかった。


 あの絵は、切り離したおれの心だ。閉じ込めた気持ちは深い。だからこそ、兄さんのギャラリーに置く事も嫌だったのに。

 最初から兄さんは、おれのためだと言っては勝手な事ばかりをする。




 沈黙が続いていた。永遠に終わらないのではないかとも思える静寂の中、睨みつけるおれを静かに見つめる兄さんは何を思っているのか――――少しして、やたらと長いため息を吐き出す。


「…………五年経っても変わらずか。俺の負けだな、これは」


 そう言って濡れたスーツを「さみい!」と言いながらも脱ぐと、しわにならないように水気を抜き始めた。しかし、絞る事も出来ないためにあまり意味をなしていない。

「……なに、負け?」

「実は、絵を買い取った人が来てるんだ。値段交渉にな」

「売れませんって言って帰して。目障り」

「言うなら直接言ってくれ。……おーい、待たせて悪かったな。聞いてたろ、入ってこいよ」

 外に言葉を投げかけると、兄さんは帰ろうと扉へと歩みだす。

 なんでおれがわざわざ直接言わないといけないんだよ、と。言葉が喉を通過する直前。

 おずおずと顔を出したその人を見て、呼吸さえ止まった。



「久しぶり、マサオくん」



 あの頃と何も変わらない由衣ちゃんだ。

 いや、五年前よりもうんと綺麗になった。もう三十になったはずだけど、そんな事を思わせない若さは芸能界に居るからなのだろうか。

 今なお最前線を走る有名人は、すべてが段違いだった。

 容姿も。オーラも。輝きも。眩しいくらいに突き刺さる。


 本当にどうしようもない。ひと目見ただけで、動けなくなるのだから。

 絵に閉じ込めたはずのあの日の気持ちは、なんとも簡単によみがえる。



「……俺は実家に行くからな。誰かさんにクソ寒い中水ぶっかけられて瀕死だからな!」

 吐き捨てて、兄さんは出て行った。

 そうなれば当然、室内にはおれと由衣ちゃんが取り残される。とはいえ特に何かがあるわけでもない。ひとまず、キャンバスに突き立てたナイフを引っこ抜いて戻した。

「……あの絵、欲しいんだけど……」

「だめ。由衣ちゃんでもあげない」

「言い値で買う」

「くどいよ」

 あの絵は、おれの気持ちを詰め込んだのだ。それを由衣ちゃんが持つとは言語道断である。

 由衣ちゃんだからこそあげられない、というのが本当のところだ。

「……そもそも、なんであの絵がそんなに欲しいの。由衣ちゃんはおれの絵に興味なんかないだろ」

 穴が空いてしまったものの、ひとまず作品は仕上げようかと。再びキャンバスに色を乗せた。

「……理由を話したらくれる?」

「そんなこと言うなら聞かない。……帰って」

 由衣ちゃんにとってここは、通過点だ。

 何かにへこたれた時に来る避難所。ここで元気になって、戻った時には何事も無かったような活躍を見せる。


 由衣ちゃんにとって。

 おれは、ただの「都合のいい男」である。


(……会いたくなかった)

 おれはまた踏み台にされると、そんなことを思いたくなかったのに。



「……五年前、ハルオくんと約束したの」


 聞かない、と言ったのに、勝手に語るらしい。

 これほど残酷な事はないなと、聞いていないふりをして作業を続ける。

「私が島に来なくなった、マサオくんを一人ぼっちにした五年間を取り戻せたら、マサオくんをくれるって」

 ピタリと、手が止まる。

「だからこの五年、マサオくんに会えなかった。忘れてたわけじゃない。五年の間に東京で開かれた個展には全部行ったよ。画集も持ってる。何回も見返したからもうボロボロだし、ギャラリーにも定期的に通ってた。それに…………ハルオくんから女の子を紹介されてたのも知ってる。……ハルオくんは、中途半端ならマサオくんには近づかないでくれって、私からマサオくんを引き離す事に必死だったの」

 五年を、取り戻す――?

 そういえば、由衣ちゃんと会わなくなって五年が経つ。兄さんもやたらと「結婚しろ」と言って相手を紹介することに躍起になっていたし、さっきは「負け」だと言っていた。

「私頑張ったんだよ。五年前、感謝も何も知らない子どもだったんだって気づいてから、今まで。マサオくんの隣に立っても恥ずかしくない人になろうって」

 なんで。どうして由衣ちゃんが、そんなことのために「頑張る」必要があるの。

 そんなふうに思うのに、どうしてか口からは出てこない。

「……マサオくんが呼んでくれて、神矢さんと話した時ね、ギャラリーで初めてあの絵を見たの。ハルオくんから、あの二枚だけはマサオくんは絶対に手放さないんだって聞いて……――何度も『私はどうしたいんだろう』って自問した。何度聞いても出なかった答えが、それでもあの時、うっすらだけど見つかった気がしたんだよ」

 由衣ちゃんが一歩踏み出した。それについ、びくりと大げさな反応を見せてしまう。

「一年後にははっきり分かった。二年後には、しっかり色づいた。……だから五年頑張れたの」

 目の前までやってきて。キラキラと輝くその瞳は、吸い込まれそうなほどにまっすぐおれを見上げている。

「あの絵が欲しい。……マサオくんの、気持ちが欲しいよ」

「…………なんで」


 どうして、そんなにも迷いなく向かってくる。おれが踏みとどまった一歩を、どうしても越えられなかった壁を、簡単に壊して。

 どうして、なんてことのないように、垣根をなくしてしまえるのか。


「私には、マサオくんが必要なんだよ」


 五年間、今度は私が追いかけたと。由衣ちゃんは手を伸ばした。

 両手を広げて、おれの答えを待っている。


 おれではなく。由衣ちゃんが、おれを待っているのだ。


「……おれが心変わりしてたら、どうしてたの」

「奪い返すつもりだった。だって私は、最低なんだから」

 五年前に、八つ当たりのように由衣ちゃんに言った言葉だ。もしかしたら根に持っていたのかもしれない。それを繰り返されて、ほんの少し気まずさが過ぎるものの……由衣ちゃんは何故か得意げで、特に傷ついた様子もない。

 むしろそれを武器にしているのか、どこか勝気に笑っていた。

「……おれは、島に引きこもってるような男だよ」

「だからこそ大切な事を知ってるんだよ。マサオくんの言葉はまっすぐで、間違った事は言わなかった」

「口下手で、面白みもない」

「マサオくんの事は絵を見れば分かるし、マサオくんの側は落ち着く。面白みなんて必要ない」

「……取り柄も、ないし」

「それはマサオくんが決めることじゃないでしょ。私は、マサオくんの良いところいっぱい知ってる」

「だけど、」

 マサオくん。少しだけ強く呼ばれて、改めて由衣ちゃんを見下ろす。



「もう。寒いよ。……いつまで私は、こうして待ってればいいの?」



 一歩。小さく踏み出して、ゆっくりと抱きしめた。

 ずっとずっと欲しかった感触だった。もう何度も夢に見て、同じ程に諦めたものである。

「おれのセリフだから」

 もう何十年、待たされたと思っているのか。

 おれの背に回った細い腕が、きゅっと締まる。

 そんなことで、ああこれは現実なのかと。涙が出そうになるような切ない感覚に、心が震えた。

「私も追いかけたからおあいこ」

「質が違う。由衣ちゃんには恋人が居た」

「む……そうだけど……」

 ぎゅうぎゅうと、甘えるように由衣ちゃんが抱きついてくる。

 小さな頃から焦がれていた存在が今、おれの腕の中に居て、おれを求めている。その事実が、未だに脳をふわふわとさせている。

「……マサオくん」

「なに?」

 ぐ、と押し返されるままに距離を取ると、少しだけ背伸びをした由衣ちゃんが掠めるように唇を重ねた。

 本当に一瞬の出来事だ。なにが起きたのかと思っている間に、もう一度同じように重なる。

「由衣ちゃん……?」

「マサオくんだって、あの時勝手にキスしたじゃん」

「……そう、だけど」

 一度目は、恋人の事なんて忘れてしまえばいいのにと、衝動のままに。二度目は、最後の思い出にと、自分勝手な気持ちを込めて。

「それに……もう恋人なんだから、キスくらいするようになるよ」

「恋人……?」

「そう。だからあの絵も私のものだし、これから描くものも全部私にちょうだい」

 ずっと自分のために描いてと、きっとそう言われている。

 これからのおれの感情はすべて自分に向けろと。おれは今、可愛いおねだりをされているのだろう。


 我が儘ですぐに調子に乗って、昔からお姫様みたいに持て囃されて育った最低な女の子だ。けれどどうしようもなく可愛くて、どうしようもなく愛しくて、どこまでもおれを翻弄している。


「……うん。いいよ。おれの全部をあげる。これまでも、これからも。……全部、由衣ちゃんのものだよ」

 喜びのままに再び腕の中に閉じ込めると、由衣ちゃんもぎゅうと応えてくれた。

 


 一人ぼっちで物悲しい乱雑なアトリエ。肌寒さが痛みにも感じるそこが、一番落ち着く場所で、一番のお気に入りだった。

 だけどもう寒くない。きっとこれからも、寒さなんて感じないのだろう。

 


 由衣ちゃんが笑った。

 五年前の事を「美しい思い出だったよね」と、いつかの言葉をなぞるように言って。それだけで、おれには充分だった。


 


 

 

読了ありがとうございました。


去年冒頭(三千字程度)だけを書いていたものが、なぜか今年になってスラスラと完結出来ました。何があるか分からないので、執筆中は残しておくものですね。。

そしてお気づきだとは思いますが、私、絶対に復縁させないマンです。なのでいつか、復縁ものに挑戦したいですね。。したことのない事をしてみたい……勉強します……。


それでは、秋が忘れ去られたかのような気候になりつつありますが、流行り病等には充分にお気をつけてお過ごしください。

数ある作品の中から読んで下さり、ありがとうございました。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
[良い点] 面白くて一気に読めましたよ(≧∇≦)b良いお話でした(*´▽`)
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ