かぐや姫
―episode 7: かぐや姫 ―
道往く人達から多数向けられる不審そうな―半ば好奇の混じった―視線を振り払うようにひたすら早足で歩く。
きっと僕は今酷い顔をしているのだろう。
けれど、そんなことはどうでも良い。
あんなことを言うつもりではなかった。
皆にあんな顔をさせるつもりもなかった。
あれは確かに、僕の本音に近い部分ではあったが、決して人に言うべき類のものではない。
後悔と、申し訳なさと、自己嫌悪で潰れそうになる心を叱咤し、気を抜けば零れそうになる涙を気力で封じ込める。
本当に泣きたいのは、僕ではなく皆の方だ。
だから、僕が被害者ぶって涙を流すのは間違っている。
強引に人混みを縫って歩いている所為で肩をぶつけてしまった会社員に小さく謝罪の言葉を掛けながら、何かに追い立てられるように歩を進める。
頼んでもいないのにこちらを眩く照らすネオンと、突き刺さる人目と煩わしい雑踏を嫌って抜けた先で出た、人通りも街頭もない裏道を何も考えずに突っ切り、
右から迫り来る閃光に目を灼かれた。
反射的に目を閉じる。
轟、と巻き起こる風、
身を引き裂くようなクラクション、
耳障りなブレーキの音、
目を見張る運転手の顔。
何も出来ず、ただ脚が竦んだ。
瞬間、強く引かれる左腕。
バランスを崩し、半回転して勢い良く倒れ込む僕の後頭部スレスレを轟音と共に通り抜けるトラック。
引き千切られるように突風で舞った髪がふわり、と重力に従って落ちる。
辺りに闇と静寂が戻ったせいで、恐怖で荒くなった息遣いがやけに耳につく。
数瞬遅れで脳が事態を正しく理解するにつれ、死と隣り合わせだったという実感で身体が震えた。
僕の腕を痛いほど強く握ったまま、倒れ込んだ僕を庇うように下敷きになっている『命の恩人』が、同じように荒げた息遣いを整えるように長く息を吐いた。
「間に合った…良かった……っ」
未だ言葉を発せずにいる僕の背に手を回して引き寄せると、掴んでいた腕を放してあやすように頭を撫でる。
「…震えてるね。もう大丈夫。怖くないよ。」
僕の頬が接している胸が打つ鼓動と、背中に回された腕の震えが、僕を宥めようとしてくれているその言動とは裏腹に彼自身の恐怖を真っ直ぐに伝えてきて、少し戸惑う。
「なんっ…で、君…が、ここに…」
「…はいはい、まだ無理に喋らないの。とりあえずゆっくり深呼吸して。」
言われるがままに深く息を吸って、吐いて、を何度か繰り返す内に、少しずつ落ち着きを取り戻す。
5回ほど繰り返した辺りで、ようやく平常心を取り戻し、自分の体勢を改めて冷静に認識して、
思いっ切り、勢い良く、飛び退いた。
「わ、そんなに急に動くと危ないよ?」
「〜〜〜〜〜〜っっ!!」
恥ずかしさとか、みっともなさとか、その他色々の複雑な感情が混ざって声にならない叫びを上げる僕を、体を起こして心配そうな顔で覗き込む翡翠。
「ち、近い、近いって!覗き込むな!」
君のパーソナルエリアは一体どうなっているんだ!
いやいや待て、そんなことよりまず先に言わなければいけないことがあるだろう。
「え?あ、近かった?ごめん…」
「いや、違う、間違えた、僕はそんなことを言おうとした訳ではなくて、」
居住まいを正し、深く、地に額が付きそうなほどまで頭を下げる。
「…助けてくれて、有難う…っ」
「あぁぁぁ、頭上げて上げて!別に当たり前のことしただけだし、そんなお礼言われなくても大丈夫だから!」
「当たり前なものか。一歩間違えれば君も巻き添えを喰っていたかもしれないし、何より…君がいなければ僕は間違いなく死んでいたんだ。命の恩人に礼を言わずに、一体誰に言うんだ。」
「あーあー、えーっと…じゃあ、その『命の恩人』のお願いです!女の子にこんな地面に這いつくばるような真似をさせたって知られたら、俺の世間体とか色んなものが地に落ちるってことで、…とにかく、俺の面子を潰さないためにも頭を上げて下さい!」
余りにも必死なその声音と口調に、可笑しくなって頭を上げた。
笑うのは失礼だと思いながらも緩む頬を隠すように、両手で顔を覆う。
が、堪えようとすればするほど震える肩だけは如何ともし難い。
「えっ、あれっ、泣いちゃった?」
全く逆の方向に勘違いされている。
えー、とか、うー、とか困ったように呻いた後、暫くガサゴソと何かを漁っているらしい音が聞こえる。
「あ、あった!」
嬉しそうに言って、僕の様子を窺うように覗き込んだ。
「はい、口開けてー?」
何だろう、と顔を出した僕の口に、何か丸いものが突っ込まれる。
一拍置いて、じわりと広がる甘さ。
「あれ、泣いてない…?」
「僕は簡単に人前で泣いたりしないよ。…それより翡翠、何で君は棒付きの飴なんか持ち歩いているんだ。」
「何だろう、癖、かな?」
「何の癖だ…。それに、小さな子供じゃあるまいし、高校生にもなって飴で機嫌が直るわけがないだろう。………いや、まぁ…この味は良いと思うけれど。」
しゅん、とうなだれた翡翠にフォローを付け足すと、また嬉しそうに微笑む。
「やっぱり?俺、それお気に入りなんだよね、苺ミルク味。美味しくない?」
「あぁ、美味しい。それは認める。だが翡翠、間違っても他の人にこんなことをするんじゃないぞ。君は何かにつけ他人への距離の取り方が近すぎる。」
「そう?でも他の人には言われたこと…あぁ、そうか。もしかしたら俺、紫杏さんにだけ妙に馴れ馴れしいのかもしれない。ほら、何か紫杏さんってさ、妹っぽいから。背も小さいし…っ、」
身長のことに触れた瞬間、全力で鳩尾に右ストレートを決めてやった。
それは触れてはいけない所なんだ。
特に、僕みたいに150cmあるかないかぐらいの低身長の奴には。
完全にダウンしている翡翠を横目に、スカートについた砂を払いつつ立ち上がった。
「…もう帰る。」
「あ、待って、危ないから送っていくよ!」
「いらない。一人で帰れる。」
「え、ねぇ何で怒ってるの?もしかして小さいって言ったか」
最後まで言う前に、立ち上がった翡翠の鳩尾に先程より強めのストレートを再度決めておく。
「い…意外と力強いんだね、紫杏さん…」
「か弱く見られていたなら心外だ。僕は女子の中ならそれなりに力があるほうだと思うよ。」
「へ、へぇ…っていうか待ってってば!」
スタスタと一人で先に歩き出す僕の肩に、後ろから自分のカーディガンを掛ける。
「僕は薄着だが、別に寒くはないぞ?むしろ今は少し暑い。」
夜になって少し冷えたとはいえ、もう6月になろうとしているので、気温的にはかなり過ごしやすい。
「あぁ、いや…膝とか色々結構大変なことになってるから、それ羽織ってた方がいいと思うな。」
言われて自分の足を見下ろすと、確かに大惨事だった。
ストッキングのあらゆる所が地面との摩擦で伝線したり穴が開いたりしている。
翡翠のカーディガンは丁度僕の膝下くらいまでの長さなので、前のボタンを留めれば確かに多少は目立たないだろう。
「………何から何まで…。済まない、洗濯して明後日学校に持って行くよ。」
「え?いいよ別に、洗わなくてもそのままで。」
「もう、僕が洗うと言っているんだから、君は黙って待ってくれればいいんだ!少しぐらい僕にも何かさせてくれないと、立つ瀬がないじゃないか!」
振り返ってどん、と翡翠の胸を押すと、何故か笑い出されて憤慨する。
「……………もう君なんて知らない!」
「ごめんごめん、違うんだ、馬鹿にしてる訳じゃなくて、ただ…可愛いなって。」
笑いを引っ込めて、慈しむような目でこちらを見る翡翠の瞳が吸い込まれるように美しくて、『君はまたそんなことばかり言って』とか、『どうせ妹みたいで可愛いってことだろう』とか、色々言おうとした言葉が迷子になってしまう。
散々リリィが騒いでいたから、美形だと重々承知してはいたが、改めてこう間近で見ると…月を背負って立つ彼の姿は、まるで一枚の絵画のように完成された美しさを放っている。
儚げで浮き世離れした風貌が、今にも月明かりに溶けて消えてしまいそうなほど幻想的で、
「……かぐや姫みたいだ。」
うっかり口にした言葉のが耳に届き、慌てて口を噤むが時既に遅し。
「かぐや姫?俺が?」
「何でもない、忘れてくれ…」
柄にもないことを言った所為できっと真っ赤になっているだろう顔を背けて言うと、苦笑が返ってくる。
「初めて言われたなぁ。俺そんなに女顔かなぁ?それともこの髪が駄目なのかな…」
「だから忘れてくれと言っただろう!」
「忘れないよ。…でも、もし俺がかぐや姫だったら、いつか月に帰らなきゃいけないんだよね。」
そう言って月を見上げる姿が言葉に出来ないほど綺麗で、本当に月に帰ってしまいそうな気までしてくる。
そんな馬鹿な妄想で無性に不安になって、引き留めるように服の袖を掴んだ。
「…どうかした?」
「……早く帰ろう。」
うん、と小さく頷いて微笑む翡翠の袖を掴んだまま、僕は再び歩き出した。
【Continued.】