海津長髄
冬の雨は、好きじゃない。
眺めるだけなら良いものの、打たれる分には、寒すぎるからだ。
寒風と雨水に体を震わせながら、私は車通りもほとんど無い道を行く。
氷雨の降り頻る中に歩みを進めるのには、もちろん理由がある。
...率直に言えば、まあ、いつものように仕事である訳だ。
「ああ、どうも。こんな雨の中、御足労頂きありがとうございます。」
この街の、更に辺鄙な場所に立つ駐在所に入ると、男がそんな言葉で労をねぎらってくれた。
他に人気のない、この小さな建物にいる彼は、言うまでもなく警察官である。
「すみませんね。急にお呼び立てしてしまって。」
「...いや、別に。いつもの事だ。」
新香の方から話が回ってきた時、相当ゴネた事は内緒にしておく。
確かにいつもの事ではあるのだが、当日いきなりに仕事を入れてくるのは勘弁してほしいものだ。
私の言葉を聞いた警官は、人当たりの良さそうな笑みを浮かべた。
自然と、その顔から視線を逸らしてしまう。
...私は、どうにもこの男が苦手だった。
“王子”という、背負い込むには些か重そうな苗字の彼は、それに名前負けしない程の容姿を備えている。
しかし、その顔に浮かぶ笑顔が、どうにも信用ならなく思えるのだ。
(まあ、随分と世話になってるのは事実なんだが...。)
何故なら、この王子という警官は、心霊関係に詳しいからである。
普通、警察という公的機関は、そうであるが故に、心霊的なものを認めはしない。
そんな中で、王子は極めて特異な存在と言っていいかも知れない。
私達の扱う怪異はどうしても、世間的には事件として公に成らざるを得ない事が度々起こる。
魔邪猿の一件、九十九神と化した信楽の狸による盗難事件など、警察が動いてしまう案件が少なくない。
当然そのような事件は警察では手に余る。
代わりに解決するのが、私たちのような民間の怪異専門業者なのだが…それだけでは世間的には未解決事件、ということになりかねない。
そこで出てくるのが、一介の巡査に過ぎない王子だ。
例えば事件が起これば、私たちが主犯格の怪異についてと、その事件の真相を調査する。
その後、それらを書類にまとめて彼に渡す。
すると、大体それだけで警察的にも事件は解決したものとなるのだから、有り難いことこの上ない訳だ。
(一体、どんな手を使っているのやら。)
受け取った書類を改竄して、辻褄を合わせているのか。
それとも、私が知らないだけで、警察に“心霊課”なるものが存在しているのか。
いずれにせよ、その得体の知れない手口が、私にとって彼を信用ならなくさせているのかも知れない。
とにかく、この街はおろか、県全体の怪異による事件を一手に引き受けているのが、この王子警官なのだ。
「どうかされましたか?原江さん。」
私が何事か考え事をしているのが、気になったようだった。
笑顔はそのままに、私の顔を覗き込んでくる。
「...いんや、何も。とにかく、用件は何なんだい。」
暗に仕事をさっさと済ませたい、ということを仄めかすと、王子もそれ以上は詮索をしては来なかった。
居住まいを正し、どこからか紙とペンを取り出すと、こちらを見据えて言う。
「原江さんは、先日の漁船転覆事故はご存知ですか?」
「...ああ、まあ。」
つい最近、小型漁船が突然に転覆し、船員が海に放り出される事件があったとニュースで見た記憶がある。
付近の他の漁船が、懸命の救助活動を行なったお陰で、全員無事ではあった。
大事にはならなかったため、それ以降の報道は聞いていないが…。
「では...転覆した船の船員と、救助を行なった船の船員の証言は知ってますか?」
「いや、ニュースなんかじゃあ、その辺の話は無かったな。」
でしょうね、と言った風の王子。
私はそれで、なんとなくの事情を察した。
その船員の証言が、あまりに非現実的であったのだろう。
そのせいで、テレビなどの報道ではそれらが出て来ないのだ。
警察の方も、その様な発表を、おいそれと行うわけにはいかないのだ。
「なんだ、舟幽霊でも出たってのか?」
「まあ、手だけが出て来た、と言う点では一緒かも知れませんけどね。ただ、その手が巨大だったそうなんですよ。つまりは巨人ですか。その手に船をひっくり返されたと、皆口々に。」
巨人...。
もはや説明不要な程に有名な存在である。
世界各地の神話や伝承に登場しており、日本にも“だいだらぼっち”という巨人の一種が伝わっている。
世間では、過去に実際いただのいなかっただのと議論しているらしいが、私のスタンスは“幽霊妖怪がいるのだから、巨人がいる(いた)としてもおかしくないのではないか”というものだ。
「原江さんは、東北の海に巨人がいる、という話を聞いた事がありますか?」
「...。」
聞いたことはある。
しかし、この話を言うべきかどうか。
悩みつつとりあえず腕を組み、黙り込むと、王子は畳み掛けるように言った。
「ご存知なんですね?」
「...お前は知らないのか。」
「知らないから、こうして原江さんにお話を伺っているのですよ。もっとも、南極の深海に人型の怪物が潜んでいる、という噂くらいなら聞いたことはありますが。」
また、にっこりと笑顔を作る王子。
正直、自分の業界でもほぼ知られていない話をしても良いものかどうか悩んでいたのであるが...。
まあ、他に海の巨人の話は知らないし、とりあえず話せば、それで解放されるかもしれない。
「...海津長髄という、話はある。」
「意味は、海の長髄...。長髄彦にまつわる話ですか。」
流石にこういうところ、話が早くて助かる。
長髄彦とは、日本神話に登場する人物の一人だ。
神武の東征において、大和地方...今の奈良県の豪族の長として、神武天皇と戦った、と記紀はいう。
「しかし、長髄彦は敗北。その時に殺されたとも、失意のうちに死去したとも言いますが...。」
「まあ、それはそうなんだがな。この長髄彦の“長髄”...これの意味を“脛の長い”と解釈する説があるんだ。」
つまりは、その名は脛が長い男を意味する事になる。
さらに噛み砕いていうならば、巨人の男。
ただし、記紀には無論その様な解説は無く、長髄とは邑、すなわち彼の治める集落の名前である、とだけ記されている。
「つまり、長髄とは巨人の一族の住んでいた集落であり、長髄彦はその王であったと?」
肯定の意味を込めて、私は頷く。
「しかし、それが今回の件と何の関係が?」
「まあ、そう結論を急ぐな。ここで話は少し変わるが、新井白石の著した書物に、“采覧異言”というものがある。そこに巴太温という国が日本の更に東に存在する、と書かれているんだ。」
「ハユタラス...?」
このことは、王子は初耳であったらしい。
ただ、首を捻ってばかりいる。
だがそれも無理はあるまい。
巴太温などという名前は、それこそその本くらいにしか出てこない。
「巴太温はどうやら、巨人の国だったと言われていたらしい。そして当時、この奥州の海岸には時々、巴太温の住人のものと思われる長大な人骨が流れ着いたのだそうだ。しかし...。」
しかし、現代。
ハユタラスなどという国は勿論どこにもなく、巨人族なども、どこにもいない。
それならば、その骨は一体どこから流れ着いたのだろうか?
「采覧異言には、長髄彦は巴太温出身の巨人である、という説も載っているが...そこは逆なんじゃないか、という考え方が、海津長髄の話の肝だ。」
「逆とは?」
「日本から追い出された長髄の民が、巴太温を作った。そういう解釈だよ。」
つまり、海津長髄とは。
神武天皇との戦いに敗れた長髄の民は、追われ追われて奥州に辿り着く。
しかし、そこにもすぐに朝廷の軍は送られ、陸地に逃げ場を失った彼らは、奥州の海に逃げた。
采覧異言にある、奥州沿岸に流れ着いた人骨は、海中より浮かび上がって来たものであり、いわゆる巴太温とは、深海に存在するのではないか。
そういう説だった。
「なるほど。海の巨人は長髄の一族である、と。それなら確かに、船を襲った理由もわかる。今の日本人は言うなれば、自分らを海に追いやった国の民ですからね。」
そう。彼らにすれば、私たちは敵なのだ。
しかも昔に比べ、海上に出る船は増え、潜水艦なるものまで海を行く今現在。
それを見た彼らは、こう思ったのかも知れない。
“自分たちを討つ為に、海の中まで追って来たのだ”と。
「となると、困りましたね…。今後も同様の事件が起こる可能性があるということですか。事が事だけに、死者が出る事態にもなりかねない。」
「…私も流石に、説得できる自信はないぞ。」
この説があっているにせよそうでないにせよ、巨人が故意に船を襲ったのは明らかであるから、敵意があるのは間違いないのだ。
そういう相手は、大抵話は通じない。
まあ、そもそも深海にいる時点でどうしようもないのだが。
思った以上に深刻な案件に、私は頭を抱えたくなる気分だった。
「…まあ、後の事は私が何とか考えておきますよ。ここから先は、私の仕事。とりあえず今日のところは、これで大丈夫です。」
しかし、帰ってきたのはそんな能天気な答え。
あまりに楽観的な彼に、私は呆れてしまう。
「お前が良いならそれで良いけど…言っとくが海津長髄はとんでも説みたいなもんだぞ?」
「いえいえ、とても参考になりました。流石に原江さんは、怪異にお詳しい。自分の浅学さをつくづく思い知りましたよ。」
にこにこ顔で、妙に褒めちぎってくる王子。
これも、私は苦手だった。
この男はいつもそう。
怪異関係の事件を解決すると、決まって必要以上に褒めるのだ。
「どうです?まだ雨も降ってますし、ここでお茶でも飲んで行かれては。宜しければ、原江さんの怪異についての話を聴きたいのですが。」
そして、これもお決まり。
用件が済んでからも、何かと引きとめようとしてくる。
勉強熱心なのは称賛に値するのだが、他人と駄弁るよりも、雨を眺めながら紫煙を燻らす方が好きな私には、然程魅力的な提案ではない。
「悪い、ちょっと他にもやる事があるんだわ。」
そう断ると、そうですか、とどこか気落ちした声音で王子は答えた。
少し罪悪感に苛まれたものの、仕事の結果報告とか、夕飯の準備とかやらなければならないことも確かにあるし。
それらの、別に急を要さない用事で自分の行いを正当化し、私は駐在所を出る。
どうやら話し込んでいる間に氷雨は霧雨と化し、視界は霞みがかって遠景が朧気になっていた。
駐在所近くの山間から垣間見える海には、船1つ見当たらない。
転覆事件があったから、皆自粛しているのだろうか。
(海津長髄、ねえ。)
道すがら、先ほどの話を思い出す。
この話のことなど、自分以外に誰が知っているのだろうか。
…精々、尾白さんくらいのものか。
これを唱え始めたのは、私の祖父さんだった。
ある日、海に巨人を見たらしく、それが切っ掛けで自分で調べ始めてその様に結論付けたのだそうだ。
それをまとめた書物は火事のときに焼けてしまったため、今はもうない。
私がそれを知っている理由は、まだ小さかった頃、海にいくと必ずこの話をされ、自然と覚えてしまったからなのだが…。
(信じたくは無かったんだけどな。)
自分の好きなこの海に、悪意を持った巨人が潜む。
その事が少しショックなのは、否めない。
自然と海から視線を反らし、私は足元を見つめる。
道の窪みに出来た水溜まりが、私の顔を写していた。
(先祖が作った罪や恨みで祟りを被るのは、いつだってその子孫なんだ。)
ふと、夕の事を思う。
つくづく、あいつも気の毒なやつだ。
まだ子供だというのに、その小さな体に背負った十字架は、あまりに大きい。
…いや、あいつだけではない。
その他にも、苦しんでいる人はたくさんいるのだ。
この国のどこにでも、祟りに苦しみ喘ぐ人はいる。
(せめて、今の代で祟りを終わらせてやるってのが、私に出来ることなんだろうな。)
だからこそ、私は祖父さんの後を継いで、今この仕事をしている。
それが、この世界に入った理由ではなかったか。
ふと顔を上げ、再び海に視線を戻す。
その、視線の先に──
はるかな海上、水平線の彼方に、幽かな人の影のようなものが動いていた。




