魔邪猿
酷く、寒い朝だった。
吐息が白くなり、手も悴みそうな程で、寒いのが苦手な私には辛い季節だ。
学校に向かおうと玄関の戸を開け、“行ってきます”、と声を出す。
冬は嫌いでも、冬の空は好きだった。
気温が低いことで、塵や埃の拡散が抑えられるから。
乾燥しているため、空気中の水分子が少なくなるから。
それらの理由が合わさって、澄み渡って見えるこの空が好きなのだ。
例によって何時もの如く、私は空を眺めつつ学校への道を辿る。
「……?」
その時、ふと視界に何かの影が入り込んだ。
最初は小鳥かとも思ったが、思い直せば到底鳥の影ではない。
空を主に、きょろきょろと辺りを見回してみる。
するとまたもや、何かが視界の隅を横切った。
逃がさぬように直ぐにそちらを追う。
屋根だ。
屋根から屋根へと飛び移り、移動しているのだ。
そう理解してからは視界に捉え続けることも難しくも無く、それが身軽に飛び回る姿をしばし眺める。
すると、私の視線に気付いたのだろうか。
それは逃げるように、私から素早く遠ざかって行く。
屋根から飛び移る際、山と山との合間から漏れる光に一瞬その姿が照らされた。
毛むくじゃらで、どこか老人を思わせる風貌。
人に近い姿をした動物。
「猿…?」
そう気づき、無意識のうちに呟く。
その時にはもう、その姿は山の中へと消え去っていた。
「絶対、何かの怪異だよ!」
人影も疎らとなった放課後の教室に、美琴のそんな声が響く。
彼女の手には、ある新聞の記事の切り抜きが握られていた。
それは、一ヶ月ほど前の事件のもの。
ある女子高生が失踪後数日で白骨となって見つかった、猟奇的事件だ。
今更その話題を持ち出してきたのは、テストやら何やらの忙しさから漸く抜け出せたからだろう。
「まあ、異常な犯行だからなァ。ネットとかでも結構そういう意見は多いみたいだぜ。」
隆斗がそう同調する。
私も何となく心の中では人間の仕業では無いだろうと思っていたから、無言のままに頷く。
今まで幾度と怪異に接してきた私達は、直ぐにそっちの方へ話を持っていってしまうのだ。
それが良いことなのかどうかは解らないけれど…。
「ねえ夕子ちゃん。原江さんは何て言ってるの?」
「うーん…前に聞いた時は何とも言えないみたいな事を言ってたけど…。」
「前ってことは、今はどうかわからないってことだよね。じゃあさ…」
そのまま盛り上がる三人をよそに、私は一人帰り支度を進める。
すると、それを美琴が見咎めた。
「あれ?椎名帰るの?」
「…まあ、ちょっと私用があるのよ。」
「…。」
すると隆斗が無言のままに近付き、じっと私の顔を見詰めてくる。
「…何?」
「いや、何か最近お前さ、元気無いだろ?」
この中の誰よりとも付き合いが長いせいか、隆斗はこういう事に聡い。
私はそう思ったが、敢えて何食わぬ風を装い、鞄を背負った。
「…何かあるのか?」
「だから、私用があるって。」
「いやそうじゃなくてさ…。」
何か不安でも有るのだろう、とは気付いても、それを言葉に上手く表せられないのが隆斗だった。
決まりが悪そうにただ視線を泳がせながら言い淀んでいる。
「じゃあ、忙しいから…また明日。」
その間に素っ気なく、私はそう言い捨てて教室から出る。
隆斗は何か言いたそうであったけれど、結局深入りはしてこなかった。
「……。」
昇降口から外に出た私は、警戒するかのように辺りを見回す。
いや、警戒するかのように、というのは些か語弊がある。
事実、私は警戒をしていた。
最近、何かの視線を感じるのだ。
常に誰かに見つめられているかのような、不快な視線だ。
それは、早朝に顕著だった。
かといって誰かいるのかと注意して見ても、何も見当たらない。
そんな事が幾数日続けば、警戒もする。
気のせい、と言われればそうなのかもしれない。
けれども幽霊だの怪異だのが身近に在ることを知ったこの頃の私は、人ならざるものの仕業なのではないか、と思ってしまうのだ。
そしてそう感じた後の私の行動は、我ながら早かった。
何しろ、知り合いに専門家がいるのだから。
自分の家に向かうでもなく、私は教えられたとおりに道を進み、無骨な佇まいのビルの中に入る。
そして階段を登り、その途中にある扉を開いた。
「…失礼、します。」
恐る恐る、顔だけを覗かせる。
まず目に飛び込んできたのは、膨大な量の書物だ。
所狭しと並ぶ本の背表紙が、私を圧倒する。
そこから更に視線を移動させると、見知った人の顔があった。
「おう、長束サン。学校は終わったのかイ。お疲れさん。」
机の上に行儀悪く足を乗せ、何かの本を開いたまま、目だけを此方に向けて原江さんは挨拶をしてきた。
それに応えて私も挨拶をすると、原江さんは一方を指差した。
「長束サンは初めてだろうから紹介するけど。あれがここの所長。私の上司の尾白サンな。」
「…人に指を差すな。あと“あれ”とはなんだ。」
仕草と言葉を咎めるように、その先にいた人物は原江さんを睨む。
原江さんは悪ふざけが過ぎたか、と少し舌を出すと“相済みません”と謝る。
そして姿勢を正して本を置くと、本題を語り始める。
「…まあ、そんな事は置いといてだ。学校帰りに疲れてるところを呼んで悪かったな。」
「…いえ、依頼をしたのは此方ですし。」
「…まだ感じるのか?その視線ってやつ。」
「…。」
私は黙ったまま頷く。
かれこれもう、二週間近くは続いている。
毎朝決まって登校時に、その犯人は私を監視してくる。
勿論、今朝もだ。
「そうか。大変だったな。」
原江さんは私の苦労をその一言で労うと、さっきの本を開いて此方に差し出す。
「?」
「読んでみろ。この頁だ。」
促されるままに手に取ると、そこには少し厳つい漢字が並んでいた。
“魔邪猿”
禍々しい字面のそれが直ぐに読めず、私は一瞬戸惑う。
「ま…まじゃ…?」
「マヤザル、だよ。ここ東北に出る、厄介な妖魔だ。」
猿。
私が前に見かけた、あれのことか。
こんな田舎では猿が出てもまあ当たり前か、位にしか思っていなかったが…。
思えば、あれを見かけてからこの被監視生活が始まったような気もする。
凶悪な風貌の猿の挿し絵を見ながら、私はそう思った。
「…長束と言ったか。些か酷な事だと思うが、はっきりと言うとしよう。今、お前は命の危機に晒されている。」
初老の男性…尾白さんは表情ひとつ変えず、そんな事を言った。
当然ながら、それは私にとっては衝撃的な一言だった。
僅か14才にして死に直面する、なんてそう想像できはしないだろう。
「冗談…ではないんですよね?」
「あれが冗談言うような人間の顔に見えるか?」
普通なら“冗談でそんな事を言うと思うか?”とか言うところを、原江さんはそう諭した。
それに思わず尾白さんの方を見、しかもそれが丁度原江さんを睨んだ瞬間であったから、私はこう確信した。
この人は冗談を嫌うタイプの人間である、と。
「まあ、長束サンが信じられないのも無理はないけどな。」
「…いえ。それで、その魔邪猿とやらはどういう妖魔なんです?」
「猿ってのはさ、元々神聖視されるような動物な訳よ。人間の姿に似ていることもそれに拍車をかけててな。山の神の使いだの、神そのものだと見られることもあったんだ。」
「まあ…そうだな。所謂山王信仰、庚申信仰と言われるアレだ。」
入れ替わる形で、話し手が原江さんから尾白さんになる。
それに従い、私の目線も移動する。
「山岳の多い日本には、当然そういう信仰のあるところが多くてな。勿論、この日諸もだ。」
「…その魔邪猿も、元は奉られていた猿神であったと?」
結論を尾白さんが述べる前に、私はそう呟く。
すると、正解だとでも言うように笑みを浮かべた。
「でも、曲がりなりにも神様なら、なんで私を狙うんです?」
「長束サンなら知ってるかもだが、何も人を助けてくれるから奉る訳じゃないのよ。…荒御魂、と言えば分かるか?」
荒御魂。
それは、神の荒々しい側面を表した言葉だ。
荒御魂の神は天変地異や疫病などの災厄をもたらし、それを鎮める為に人々は供物を捧げ、信仰してきた。
「つまり、魔邪猿は…?」
「そうだ。霊験あらたか故に奉られていたわけではない。寧ろ危険であったが故に信仰されていた節のある神なのだ。」
「今じゃアそういう民間信仰ってのは、余程有名じゃない限りは殆ど消えちまってる訳だがな。要するに、信仰することで大人しくして貰ってたのが、その枷が外れちまってるってことさ。」
「古書を見る限り、かなりの荒くれだ。良く今まで、大人しくしていてくれたと言いたいくらいにな。」
漸く、私は自分の置かれた状況を呑み込んだ。
詰まるところ私は今、エサの与えられなくなった猛獣に目をつけられている状態な訳だ。
「…それでだ。如何に元神とはいえ、そのような狼藉を看過する事は出来ん。よって、明日の明け方前に原江をお前の家に派遣する。」
「え?明日の明け方前に?」
妙に中途半端な時間指定に、私は疑問を抱く。
その時間に来ることにした理由を聞こうとすると、
「まあ、詳しくは長束サンの家でな。」
と言うだけだった。
そうされると、私としては現状引き下がることしか出来ない。
取り合えずそこでの話しはそれで終わり、私は自分の家に帰ることになった。
当然そんな状況下で何時ものような生活など出来るはずもなく、夕食も喉を通らぬまま、私は早めに眠りに就く。
一応、早朝に来客のあることは、親には伝えてあった。
家族には最近、私が何者かに監視されている事は当然告げてある。
登下校に同行してくれたり、車で送り迎えをしてくれたりしていたが、特に何事も無いので半信半疑になっている矢先の事だ。
少し驚いていたが、事が事なのであっさりと了承してくれた。
…後は、原江さんが来るのを待つだけ。
不安がない、と言えば嘘になる。
当たり前か。自分の命が狙われているのだから。
でも、今まで何度も原江さんがこういうのを解決して来たところをこの目で見てきたのも事実。
ここはあの人の力を信じよう。
そう自分に言い聞かせ、私は束の間の安らぎの中へと落ちていった。
私がお母さんに起こされたのは、午前四時半を少し回った時だった。
眠い目を擦りながら降りていくと、玄関のところに原江さんが立っていた。
寝起きの私の顔を見たからか、少し笑っている。
私は寝癖で跳ねた髪を抑えつつ、口を尖らす。
「…仕方ないじゃないですか。こういう時間に起きるのは慣れてないんですから。」
「まだ、何も言ってないじゃないか。」
「…顔が笑ってましたもん。」
「いやさ、夕も寝起きはそんな感じだからさ。ずっとしっかりしてる長束サンでもそうなんだなあって思ったんだよ。」
言いながらお母さんに一礼をしつつ、家の中に上がる。
前から話で出しているから、原江さんがどんな人で何をしている人かはお母さんは知っている。
何より同級の親友の保護者であるから、一回りくらい原江さんの方が若いものの、そういう関係として扱っているようだった。
「すみません。何かうちの子の事でこんな朝早くに来て頂いたみたいで…。」
「いえ、時間指定をしたのは此方ですし、仕事柄慣れてますから。寧ろこんな時間にお邪魔してしまって、此方こそすみません。」
そんなやりとりを交わした後に、私は原江さんと自分の部屋に入る。
お母さんも一緒に行こうとしたが、原江さんが「お母さんは入らないようにしてください」と言ったので、一階に居ることとなった。
「…。」
しかし、良く良く考えれば今までになかった状況だった。
いつもは夕子ちゃんがいたけれど、今は原江さんと二人きり。
そのせいか、何となく少し気不味く感じる。
とりあえずこの気持ちを打破しようと、私から話を持ち出す。
「…そういえば、夕子ちゃんは来なかったんですね。何だかんだ、付いてくると思ってました。」
「ま、仕事だしな。親友と言えど客の情報はおいそれと漏らさんよ。そもそも、あいつがこの時間に起きれるとも思えんが。」
「…こんな早朝にした理由、今なら教えてくれます?」
詳しくは私の家で、と言っていたことを思いだし、私はそう返した。
原江さんはまだ日が出ておらず、月だけの浮かんだ空を窓越しに眺めながら
「今宵は弦月。下弦の月だからな。」
とだけ言った。
「え?」
あまりの脈絡のない言葉に、私はきょとんとする。
その様子が可笑しかったのか、原江さんは笑った。
「はは、流石に長束サンでも解らんか。つまりだな、今日から朝方、月と太陽が同時に空に浮かぶのよ。件の魔邪猿が出るのは、恐らくはその時なのさ。」
「それを聞いてすら、私には何の事かわからないんですけど。」
「…そうだな。先月の事件、知ってるよな?失踪した女子高生が僅か数日で白骨で見つかったやつだ。その女子高生が消えたのは、下弦の月の浮く日の早朝だったそうだ。」
私は息を飲む。
「まさか…今私を狙ってるその魔邪猿が、その事件の犯人なんですか?」
「…確証はない。が、長束サンをつけ回すその猿が主に早朝に出てきて、且つ下弦の日が近いとなれば…。」
犯人、と見てもいいのかもしれない。
そうだとすれば、相手はもう人を一人殺しているのだ。
自分も下手をすれば同様の目に遭うかもしれない、と思うと嫌な汗が体を伝う。
「…原江さんは、仮にその魔邪猿が来たとして…どうするんですか?」
不安が募った私は、ついそんなことを聞いた。
安心がしたくて、対応策を尋ねたのだ。
原江さんは人差し指の爪の先でこめかみの辺りを弄りながら
「私は、話し合うしか能が無いからな。来たとして、説得するだけさ。」
と言う。
そんな、人を殺しているかもしれない相手が言葉で引き下がるだろうか?
逆に不安が大きくなる。
「…。」
「心配しなさんな。長束サンには手出しはさせない。それだけは、信じててくれや。」
無言で俯いた私の頭を、原江さんは二回優しく触れた。
この人は、なんの根拠もなくこういうことを言う人じゃない。
まだ一年にも満たない付き合いだが、それくらいは分かる。
きっと何か、秘策があるのだろう。
私はそう思い直し、顔を上げる。
「分かりました。原江さんを信じます。」
迷いと不安を振り切る様にそう言うと、原江さんは子供のような笑顔を返してくれた。
それから、一時間程が過ぎた。
時計を見ると、5時50分程を指している。
外も大分白みかかり、日は昇ってきた様だ。
「…。」
原江さんはいつの間にか目を閉じ、黙り混んでいる。
まさか寝ているわけでは無いだろうが…一体何をしているのだろう。
「あの…。」
話しかけようとすると、原江さんはゆっくりと人差し指を唇に当てる。
「…静かに。長束サンも耳を済ましてみ。」
どうやら、音を聞こうとしていたらしい。
言われたとおり、私も聴覚の方に意識を集中させてみる。
すると──じゃらん、というような、何かの金属音が聞こえてきた。
そしてそれは一度切りではなく、何度も何度も、遠くから響いてくる。
「朝の王の、お出ましだ。」
その言葉の表す意味は解らない。
だがそれは、何かの合図であるらしい。
暫く遠くからじゃらじゃらと金属音が鳴り響いていたが、次の瞬間、突然頭上から、どん、とでも言うような重い音がした。
それに私はびくんと体を飛び上がらせる。
対して原江さんは落ち着いたもので、天井をゆっくりと見上げるに留まる。
「…。」
私も天井を見る。
すると、今度はドタドタと何かが走り回るような音がし始めた。
足音からしてかなりの巨体で、丁度私の部屋の上を円を描くように聞こえてくる。
「…こっちもこっちで、おいでなすった。」
口の端を少し上げて、原江さんは言った。
まさか…魔邪猿?
私をここ最近つけ回していた元凶。
一ヶ月前に女子高生を殺した犯人。
今、私たちは天井一枚を挟んで、それと対峙している…?
「…さて始めるかね。話の通じる相手なら良いが。」
原江さんはそう言うと立ち上がり、正座している私の前にまた胡座をかいて座る。
その正面には、この部屋唯一の窓があった。
そこをじっと見詰めながら、原江さんは語りかけ始める。
「…日諸の猿神よ。遙々ここへ良く来たものだな。何しに来た?…と問うのは愚問かね?」
ガラスの向こうの世界から、返答の代わりに唸り声が聞こえてくる。
まるで地の底から響くような、恐ろしい声だ。
それに臆する様子もなく、原江さんは続ける。
「一時でも神として崇められていたから、私もあんたを神として遇する。契約だ。ここは引いて貰いたい。今後一切、人に危害を加えないで貰いたい。その代わり、あんたの望みを此方も聞こう。無論、生け贄等以外でだ。」
今度の言葉に、向こうは直ぐに反応しなかった。
大分明るくなった外の様子が見えるだけ。
けれども突然窓に何かが叩きつけられ、大きな音を出した。
見ると、腕だった。
上の方から、大木の枝のように太く、毛むくじゃらの腕がぶら下がっている。
その指先に付いた鋭く長い爪が、ガラスに傷をつけていた。
まるで此方への不満と敵意を表しているかのように。
「…切れたいのはこっちの方さ猿神。あんたは既に、一人手に掛けている。それでも尚、私はあんたを神として見、穏便に事を済ませようとしてるんだ。破格の処遇だとは思わんか?」
原江さんの声が低くなった。
どうやら原江さんも、相当腹に据えかねているらしい。
「引き下がれ。それが互いのためだ。あんたらの世界にも、暗黙の了解はあるだろう。それを破ったあんたは、只では済むまい?」
畳み掛けるように、原江さんは言葉を重ねる。
「もう露見てるんだ。あんたが香々多知の出現に合わせて人を襲ったこと位。もう諦めろ。ここは大人しく夜の世界に帰るがいい。」
原江さんの言葉が途切れてから、辺りはしいんと静まり返る。
窓を見ると、先程の手も無い。
原江さんの言葉と、その迫力に圧されて大人しく帰ったのだろうか──?
そう、思ったときだった。
「ちっ…所詮は荒くれもののエテ公か。」
原江さんの舌打ちと、呆れたかのような、そんな呟き。
そのすぐ後に、部屋の中にガラスの割れるがしゃん、という派手な音が響き渡った。
「ッ…!?」
飛んできたガラス片から身を守るべく、反射的に腕で顔を覆う姿勢を取りつつも、私は見た。
ガラスの無くなった窓から、素早く身を滑り込ませる様にして何かが入ってくるのを。
そしてそれは、巨体を持った、老猿であるのを。
血走った目と、鋭く光る爪や牙を此方へと向けながら、原江さんに飛びかかる。
私は恐怖のあまり目を固く瞑った。
その時だった。
耳をつんざくような、おぞましい悲鳴が聞こえた。
それは、私のものでもなく、勿論、原江さんのものでもなく──
…。
……。
………なら、誰のものなのだろう?
こんな状況下で悠長にそんな疑問を抱いた私は、閉じた目を開いた。
すると──そこに先程の老猿の姿は無かった。
「…あれ?」
まさか、幻だったのか?
恐怖のあまりに見た幻覚──。
いや、確かに窓ガラスは割れ、その残骸が部屋中に散らばっているからそれはない。
なら、一体何処に行って──?
「なーにそんな狐につままれたみたいな顔してんだ?」
私の前に座り込んでいる原江さんが顔だけ此方に向けてそう言った。
まだ訳のわからない私は、素直にその事を伝える。
「いえ、その…魔邪猿は…?」
「………ふん、馬鹿な奴さ。せめて引き下がっていれば、こうはならなかっただろうによ。」
複雑そうな表情で、右耳を小指で弄りながら、原江さんは吐き捨てるように言う。
その口振りから、先程の悲鳴が魔邪猿のものなのではないか、と漸く悟った。
「まさか…原江さんが倒したんですか?」
「阿呆。言ったろ私には話し合いしか出来ないって。…今回はな、保険を掛けておいたんだ。」
「保険?」
「…オオオヌさ。ここに来る前に、奴に話つけといたんだよ。長束サンも知ってるだろ?」
オオオヌ。
それは数ヵ月前に私の家に来た異形の名前だった。
人と異形の境界を守る者で、図らずも連れてきてしまった怨霊から守ってくれた、あの──。
「魔邪猿が私の話を聞かずに動いたら、オオオヌがすかさず止めに入る。そういう手筈だったのさ。人の味を知っちまってるから、抑えられるか分からなかったしな。まあ、香々多知から離れてこっちに来てくれる様に説得するのは、随分と骨だったがな…。」
「…私は、またオオオヌに助けられたんですね。」
人を助けるために彼は動いている訳ではない。
飽くまで、異形なりに筋を通そうとしているだけである。
前に原江さんはそう言ってはいたが、二度も命を助けられたのだ。
届くかどうかは解らないが、私は心の中で感謝の言葉を思う。
「オオオヌの事だ。魔邪猿はもう二度と出てこれやしないだろう。長束サンももう何の心配することはないさ。」
「…魔邪猿は、どうなったんですか?」
別に心配しているわけではない。
人を一人殺している上、私も狙っていたのだ。当然の報いだとすら思っている。
ただ単純に、気になったのだ。
「…さァな。流石にそこまで向こうの世界の事は解らんよ。でもまあ、あのオオオヌが奴を無事に済ますたァ思えないってだけさ。」
原江さんはそう言うと、すっくと立ち上がる。
そして大きく伸びと欠伸をした。
「ああ、疲れた。今日はもう、帰って寝るとするかナ。…長束サンはどうするんだ?」
「え…?」
「学校だよ。こんなことがあった後に、いく気になるのか?」
まあ、勉強に遅れが出ると困るし…。
確かにとんでもないことのあった後だが、別に体調が悪いわけではないから、休む理由にはならない。
「真面目だね。その意気、夕にも見習ってほしいもんだ。」
くすりと笑うと原江さんは部屋から出、階段を降りていく。
もう、家に帰るつもりなのだろう。私も急いでその後に続く。
下で待機していたお母さんに事の済んだことを伝ると、さっさと寝たいのか原江さんはそそくさと家から出ていった。
その際、お金に関しては、割れたガラスの事もあるから、少しまけるとか言っていた。
原江さんの上司…尾白さんに話を通さずにそんな事を決めてしまって良いのだろうか、と思わなくもない。
部屋に戻り、時計を見ると七時前だった。
眠気はあるが、もう準備をしないといけない。
先ずはお風呂に入って眠気を覚まし、お母さんの用意してくれた朝食を食べる。
そして歯磨きと洗顔を済ませ、今日の時間割りを見て荷物をまとめる。
…これで学校へ行く準備は整った。
鞄を背負い、行ってきますと声掛けをして家の前の大通りに出る。
もう、視線も何も感じない。
久しぶりに感じる、この安心感。
当たり前だけれど、暫く忘れていたもの。
私はそれだけで無性に嬉しくなり、軽やかな足取りのまま、学校へと駆けていった。




