夜之坊
「ああ、やべえ…まじどうしよう。」
朝からずっと、美琴ちゃんはその調子だった。
口を開けばやばい、やばいと呟くだけ。
理由はもうすぐに迫ってきているテスト。
どうやら親に、今度のテストの点数が悪かったら部活は禁止だと言い渡されたらしい。
放課後や休日にあちこち行っているせいで 、成績が良くないと判断されたのだ。
「そんなボーゼンとしてないで、勉強しなよ美琴。」
椎名さんが頬杖を付きながら言った。
彼女は結構、頭がよい。
毎回学年で十番代には入っている。
いつもの面子の成績順は
椎名さん>>>美琴ちゃん>私≧隆斗くん
である。
…そう、やばいと言っている美琴ちゃんよりも、私は成績が悪い。
運動部に精を出していて、勉強は疎かにしている隆斗くんとほぼ同等。
宮比さんに成績表を見せた時、「中学ん時の私よりひでェな。」と思わず言わせてしまう程だ。
宮比さんはそこら辺、とやかく言わない質だけれど…流石に何とかしなくては、と思わずにはいられない。
「ねえ、椎名。勉強教えてよ。」
「ゴメン私、人に教えるの苦手なんだ。」
ばっさりと切り捨てられ、美琴ちゃんは再び頭を抱える。
「ああー!ほんっとにどうしよう…。」
「じゃあヤッコに聞けば?今丁度、彼処にいるし。」
椎名さんの示す方向にいたのは、重金八子さんだ。
大人しい性格で地味な子ではあるが、大変頭が良く、毎回学年トップの成績を修めている。
この中学始まって以来の秀才とまで言われていた。
ヤッコはあだ名であるが、本人はあまり気に入っていないらしい。
理由は奴に思えるから、だそうだ。
「そうか!ヤッコがいたんじゃん!よーし、早速聞いてこよう。」
「あ、私も…。」
私もそれに便乗して、八子さんの元へと向かう。
私はまだ、八子さんとあまり絡んだ事がない。
だから、私から教えてと乞うのは、少し気が引けてたのだけれど…美琴ちゃんと一緒なら、なんとかなるだろう。
「おうい、ヤッコー。ちょい頼みたいことがあるんだけどさぁ。」
「あ、堀野さん…どうしたの…?」
此方に向けられた八子さんの表情は、どこか優れない。
伏し目がちで、声も元気がない感じだ。
「ん?ヤッコ、いつもより元気なくない?」
「…うん、ちょっと最近、嫌なことが続いてて。」
「ああ、そういえばヤッコの三番目のお兄さん、交通事故で入院したんだっけ…?」
その名前が示す通り、彼女の家は大家族だ。
八子さんは八番目の末っ子。
この少子化の時代に珍しい。
「ううん、入院したのは四番目…。でもそれだけじゃなくて、泥棒に入られたりもしたし、細かいのになるともう数えきれなくて…。」
八子さんの落ち込みようは、最近の不運続きにあるようだ。
こうなると、「勉強を教えて」なんて切り出すのは難しい。
見るからに、本人はそれどころではない風だ。
「お父さんもお母さんも参っちゃってて、挙げ句に厄払いだとかに頼ったりもしててね…。そのうちつけこまれて、高いもの買わされそうで…。」
神仏にすがりたい程に、追い込まれてしまっているのだろう。
でも確かに、不運の一環として詐欺にあってもおかしくはない状況だ。
「そうだったんだ…。いきなり不運になった、って感じなの?」
「…うん。その、交通事故を皮切りとして、一気にって感じで…。ねえ、堀野さんってこう言うの調べたりしてるんでしょ?もし良かったら、不運の原因を調べたりしてもらえない…かな?」
詰め寄るようにして、八子さんが美琴ちゃんにそう頼み込む。
頼み事をしようとしていたのに逆にされて、美琴ちゃんは面食らったような顔をした。
「ええ!?いや、そうしたいのは山々だけど…今私も家庭の事情で色々複雑で…」
「え…堀野さんも大変なの…?」
いや、ただ今までのツケが回ってきただけなんですけどね。
八子さんの家よりずっと気楽な家庭の事情である。
「そ、そう、大変なのよウチも…。それにそう言うことなら、もっと適任な人を紹介してあげるよ。」
そう言いながら、私の背中をばしんと叩く。
…ひょっとしなくても、そう言うことなんだろうな。
学校が終わった後、私は八子さんの家の前に来ていた。
無論、その同行者に宮比さんがいる。
「えっと…ここでいいのか?」
「あ、はい。ここが重金さんの家で間違いありません。」
八子さんの家は、町から少し離れた、山沿いにあった。
人家は少なく、夜になれば辺りは真っ暗になりそうだ。
呼び鈴をならすと、中から男の人が顔を出した。
なんだか少し、やつれているように見える。
「あ…えっと、八子のお友だちという…?」
「はい、五木場夕子です。で、こっちが…」
「原江宮比です。お宅の娘さんから、ウチの夕子が相談されたとかで…。」
宮比さんには、事の次第を説明してはある。
まだ不運の原因が怪異にあるのか、それともただの偶然であるのかはわからないけれど…。
宮比さんは話を聞いたあと、直ぐに出ることを決めていたから、何かあるとは感じた。
「ああ、すみません。身近にそういうことに詳しい方がいて、助かりました。どうぞ、御上がり下さい。」
家の中は、しんとしていた。
空気もとても重く、少し息苦しく感じる。
大家族と聞いていたから、さぞ賑やかなのだろうと勝手な想像をしていたのだが…。
どうやら今、この家には八子さんの両親しかいないらしい。
子供たちは皆、祖父母の家に行っているとの事だった。
流石にこの家の雰囲気の悪さを嫌い、一時避難をしているとの事だった。。
和室に通され座布団に座ると、今度は女性が出てきた。
そして先ほどの男性の隣に座る。
八子さんのお母さんだろう。
「それで…話の方ですが。」
「いえ、それならもう聞いてあります。不運の原因を突き止めて欲しい、との事で…。」
「ああ、いえその…そちらではなくて、ですね…。」
何だか言いにくそうにして口を閉ざす。
八子さんのお父さんの代わりに、お母さんが先を続けた。
「お恥ずかしい話ながら、今我が家にはお金がなくて…。息子の治療費に加え、泥棒に入られたお陰で家計は火の車でして、その、代金の方が…。」
「ああ、そんなことですか。別に、構いませんよ。正規に依頼された仕事でも無し、同じクラスの誼と言うことで、無料にしときますわ。」
あっさりとそう言い放った宮比さんを、二人は呆然と見る。
「え?いや、ええと…。流石に無料というのは、その…こちらが申し訳ない、と言いますか…。」
「ではこういたしましょう。報酬は、お宅の娘さんがウチの夕子に勉強を教える。それで十分ですよ。」
これは、事前に決めていたことだった。
私が八子さんの家庭の話をしたところ、宮比さんがそう言い出したのだ。
お前のお陰でタダ働きだよ、と笑った宮比さんは、何だか格好よく思えた。
「あ…ありがとうございます。何と、何とお礼を言ったら良いか…。」
「いえ、お礼はまだ早いですよ。まずはその、不運の原因を取り除かないことには…。この家には、常に暗い部屋とかは有りますか?」
「常に暗い…?ああ、廊下奥の納戸とか、殆ど使わないのでそんな感じになっておりますが。」
それを聞いた宮比さんは、即座に立ち上がる。
「あの、どこへ?」
「その納戸ですよ。恐らくは元凶は、そこにいます。」
私と八子さんの両親は、訳もわからぬまま宮比さんの後を追う。
廊下奥の納戸。
埃が溜まり、確かに暫く使われていないようだった。
宮比さんは扉に手を掛けたところで、何事かを思い出したかのように此方に振り返る。
「ここ、電球点きますか?」
「暫く使っていないのでなんとも…。大丈夫だとは思いますが。」
「まぁ…点かなかったら、懐中電灯を代用すれば大丈夫かな。兎に角、開けますよ。」
宮比さんが手を引く。
ぎい、と軋むような音がして、扉が開く。
その先の部屋は──闇だった。
光の一切無い、漆黒の世界。
幾ら時間帯が夜中で電気の点いていない部屋でも、ここまでは暗くならないだろう。
その異常さに、八子さんの両親は驚いたように後退る。
そして、宮比さんは呟いた。
「…やっぱりお前か、“夜之坊”。」
よるのぼう。
それが、この闇の名前なのだろう。
怯えたようにして震えながら、八子さんのお母さんが言う。
「よる…?な、何なんですかこれは?」
「まあ…夜の住人と言いますか。こいつが家に入り込むと、そこに住む人の運気が下がる。下手をすると死人も出る位にね。」
死人と聞いて、益々二人は震え上がった。
まだこの家の人たちに降りかかった不幸は、ましな方だったのだ。
「ど、どうすれば出ていくんです?」
「先程言いました通り、夜之坊は夜の住人。光を嫌いますので…まあ、私に任せてください。」
そう言い、宮比さんは廊下に繋がる部屋の灯りを全て点けていく。
そして玄関を開いてから廊下の灯りを消すと、再び戻ってきた。
まるで納戸から、光の道ならぬ闇の道が伸びているように見える。
「まあ、これでいいかな。後は、この部屋の灯りが点くかどうか、だが…。お二人と夕は避けてた方が良いから、何処かの部屋にでも入ってて下さい。」
そう言われて、私たち三人は先ほどの和室に入る。
廊下が見えるように、障子は開けっぱなしだ。
「では、点けますよ。」
点灯を知らせる宮比さんの言葉。
かちり、とスイッチを押す音。
それと同時に宮比さんも直近の部屋へ身を滑り込ませるように入る。
その時。
私たち三人の目の前を、どす黒い塊のようなものが目にも止まらぬ速さで横切っていった。
私たちが呆然としている間に、再び廊下の灯りが灯される。
これも宮比さんが点けたのだろう。
納戸に目をやると、闇は消え、ただ煌々と灯りが点っていた。
「…ちゃんと点いてくれたか。取り敢えず、夜之坊は家から出ていきました。」
「…私たちには、何が何やらさっぱり…。」
でも、宮比さんの言う通り、家の中の重い空気は無くなっているように感じた。
私は開け放たれたままの玄関に目をやる。
ただ、闇が広がっていた。
それは夜の闇なのか。
いや、恐らくは──
「お、解るか夕。まだ夜之坊がそこにいることが。」
ぽん、と私の頭に手を乗せて宮比さんが言った。
その言葉に、八子さんの両親は飛び上がらんばかりに驚く。
「ええ!?ま、まだそこにいるんですか?」
「玄関のすぐ外にいますよ。夜之坊は人気に寄る習性が有りますからね。また灯りを消したら、入ってくるでしょうな。」
それでは、根本的な解決にはなっていないじゃないか。
一体、宮比さんはどうするのだろうか──。
宮比さんの口から出た言葉は、私の予想の斜め上を行くようなものだった。
「このまま私たちは帰らせて頂きます。そうすれば、夜之坊は私たちに付いてくるでしょう。そうすれば、結果としてこの家から離れていくことになります。」
それを聞いて、二人は更に驚いた様子だった。
「し、しかしそれでは、今度は貴女たちが…。」
「心配には及びませんよ。今の時代、光は何処にでも溢れている。いざとなれば夜之坊を引き離すことくらい、訳ありません。それに夜之坊は人自体を襲う、という訳でもないですから。…それじゃ、帰るぞ夕。」
そう言って、宮比さんは玄関に向かって歩き出す。
私は遅れないように、慌てて後に続く。
「出来るのなら、夜は暗い道を通らずに、街中等を通った方がいいですよ。異形は大抵、光を嫌いますから。また何かあったら、知らせてください。」
出る間際、宮比さんは振り返りそうアドバイスをした。
八子さんの両親は、それに対して只々頭を何度も下げる。
外に出ると、先程の嫌な空気を少し感じた。
恐らく、すぐそこに夜之坊がいるのだろう。
これから家に帰るまで、これが続くのだろうか。
そう考えると、少し憂鬱な気分になった。
帰路。
夜之坊を付いてこさせるためか、宮比さんはわざと暗い道を選んで通っているようだった。
少し吐き気を催す程、嫌な空気だ。
しかし宮比さんはそれを気にも留めていないのか、呑気に紫煙を燻らしている。
「あの…宮比さん、一体何処まで夜之坊を付いてこさせるんですか?」
「ん、そうだな。もう少ししたら街に入るとするか。」
もう少し、がどれくらいなのか。
街をこんなにも恋しく感じたのは、初めてかもしれない。
「何かさっきから吐き気がして…なんでこれはこんなにも重い空気を纏ってるんです?」
気を紛らせるため、私は話を続ける。
そもそもまだ、夜之坊について余り解っていないこともある。
「この前、幽霊なんかは恨みや未練を核として、無理矢理この世に留まってる、なんて話をしたろう?これはあれの続きになるんだが…いかに強い負の感情を持った幽霊でも、この世に永劫留まる、ってのは無理なんだ。」
「はあ…。」
「この世にいる限り、その精神体たる魂は磨耗していく。感情、記憶、理性…そして最後に残るのが、核にされた恨みや未練だ。その状態に至ると、もうそれらは誰に対する恨みで何に対する未練なのかは解らない。ただの恨みや未練だ。そういうのは、無差別に人に悪影響を及ぼす。」
「じゃあ、それらが集まったのが夜之坊、なんですか?」
そこで宮比さんは一息、煙を吐く。
今視界にある光は、煙管に灯された火だけ。
これが消えたら、闇に飲まれてしまうのではないか。
そう、思わずにはいられない。
「少し、違うな。もうその状態になったら、自我なんてない。夜之坊はそれらを食べる存在ってだけだ。まあ、無差別な恨み辛みを取り入れた夜之坊が近くにいたら、そりゃ運気も下がるわな。」
「…そうですか。じゃあ、なんで宮比さんは──。」
一旦、そこで言葉を切る。
聞こうか聞くまいか、少し迷った。
けれども私は、意を決してその言葉を口にする。
「なんで、そう言うのを退治したりしないんですか?」
今まで宮比さんは、一つ足りともそういったものを退治したりしていない。
人に無害なものも多いけれど、有害なものもいた。
虚身の森も、日不見の穴も、この夜之坊も。
隔離するか、逃がすかしかしていないじゃないか。
もしかしたら、退治出来ないのかもしれないけれど…。
直に妖怪の有害性に当てられているせいか、こんなものは無くしてしまえば良い、なんて気持ちが強まっていく。
私のその問いに、宮比さんは黙って立ち止まる。
危うく、その背中にぶつかりそうになった。
「…宮比さん?」
「なあ夕、本当に夜之坊はただ悪い妖怪だと思うか?」
何を今さら。
実際、悪影響を及ぼしているじゃないか。
それを悪と言わないなら、何を悪だと言えばいいのか。
宮比さんが此方をみる。
「…夜之坊は、恨み辛みを食べる。それはつまり、土地を浄化しているってことに他ならない。恨み等が溜まった土地ってのは、忌み地のようになってしまう。現に夜之坊の入れなくなった街に恨みが溜まって、事故等が起こりやすくなった例もあるんだ。」
優しく諭すようにして、宮比さんが言う。
何だか悪いことをしてしまった気がしてきた。
私を見つめるその目が直視できなくて、目を逸らす。
「何が悪いとか、何が良いとかなんて、所詮人間の基準さ。実際はどうか、わからないんだ。だから私は、必要だからこいつらはこの世にいるんだって、思うようにしているんだ。」
はにかむようにして、宮比さんが笑った。
その笑顔は、闇の中でも輝いて見えた。
「そりゃああからさまに人を襲ったりするやつは、退治したりするんだぜ?お呼びがかかったりしてさ。これが危ないのなんのって。まあ、それは別の話だけどな。」
「…。」
「“和を以て貴しと為す”ってな。ご先祖様だって、こいつらと共生してきたんだ。私達だってできるはずさ。なあ、夜之坊?」
宮比さんの問い掛けに、闇が揺れたような気がした。
まるで、呼応したかのように。
気付けば、町の光が前方に見えた。
ちらほらと人影も見える。
「おう、着いたな。こっから先は人間の世界ってな。それじゃあな、夜之坊。もう人の家に無断で上がり込むんじゃねえぞ?」
また、闇が揺れた。
町の光に照らされて、今度ははっきりと見えた。
そしてそれは光を避けるように、段段と遠ざかっていく。
「夜之坊はな、元々人間だったって説があるんだ。人に付いてくるのも、賑やかな家に入ってくるのも、全部人だった頃の記憶を思い出し、懐かしんでやっているんだって言われてる。…そんなやつを退治したりするなんて、流石に可哀想だろ?」
宮比さんの話が終わると同時に、夜之坊は完全に闇に溶けた。
元々は人間であった闇。
そう考えると、別れ際のあの揺れは、手を降っていたように思えて仕方がなかった。




