第二章⑧
豪華客船ヴィヴィアンヌ号が横浜港に入ったのは十月三十日、秋の寒さが感じられるようになった季節だった。
埠頭に接岸するのをケイコと大貫、それからノゾミコとサクラは間近に見ていた。周囲には乗らずともピッドシュレイアから来たという豪華客船を一目見ようと集まった見物人。それからカメラを持った新聞記者たち。皆が皆、口を半開きにして、首を傾けてヴィヴィアンヌ号の巨大な船体を見上げていた。
「よく沈まないね、」ノゾミコが小さく言った。「不思議だわぁ、魔法が編まれているのかしら」
「説明しましょうか?」サクラが無表情で言う。「浮力について」
「いいよ、」ノゾミコは首を振る。「説明されても難しいことは分かんないから」
「難しくありませんよ、魔法よりも全然簡単な公式なんです」
ヴィヴィアンヌ号の色は白く、船底は黒かった。その白と黒の境目に船頭から船尾に掛けて一本の、青、白、赤のトリコロールが走っていた。青、白、赤のトリコロールとはピッドシュレイアの都旗の色だ。ヴィヴィアンヌ号には既に五百人以上の乗客が乗っている。その約半数は、ノゾミコやサクラのように国際博覧会のパビリオンにおける展示品の関係者で、残りは大貫とケイコの二人のように観光目的の人たちだ。ヴィヴィアンヌ号は横浜の前には上海に寄港した。横浜を経由した後はハワイへ向かって出航する予定だった。
搭乗口は二つ、船体の側面にある。それぞれに途中が折れ曲がった階段が続いていて船頭に近い方が一般の乗客の搭乗口のようで、博覧会の関係者の搭乗口は船尾に近い方のようだ。つまり、ケイコと大貫はノゾミコとサクラとは別の搭乗口から船に乗り込むことになる。
「デッキで合流しましょうか?」ケイコはノゾミコに聞く。
「そんな、二人の旅行なんだから、二人きりじゃないと意味がないでしょ?」ノゾミコはニコニコしながら言った。「お邪魔虫にはなりたくないもんね」
ノゾミコは神尾重工の最先端研究の成果である『桜華』を船に運び込む、重大な役目を担うことになっていた。言わば日本代表ってやつである。
ケイコはその話を聞いたときとても驚いた。ノゾミコがそういうことをするからじゃなくて、大貫とケイコが乗る予定の船に一緒に乗ることになったからだ。とても偶然とは思えなかったけれど、とにかくそうなってしまった。
そして少しだけ、ケイコは安心したのだった。大貫と二人だけの旅行に、正直ケイコは戸惑いを残していた。このまま行ってもいいのだろうか、と迷いは小さいにしろ残っていたのだ。だから二人が同じ船に乗ることになると知って安心できたのだ。同じ屋根の下で暮らしていた二人の魔女がいれば、何かあったときに、何とかなりそうだと思うからだ。自分で考えていてよく分からない気持ちなんだけど、安心しているのは確かだった。「そんな気になさらなくてもいいのに」
「いいって、いいって、ケイコがよくっても、大貫さんに怒られちゃうかも」
「いえ、そんなノゾミさん、」大貫は首を横に振る。「僕も別に」
「ノゾミコです、」ノゾミコは笑顔のまま訂正する。「もぉ、大貫さんってば、何度間違ったら気が済むんですか、実は確信犯ですか?」
「いえ、そんなことありませんよ、ノゾミコさん、」大貫は苦笑しながら言う。「もう二度と間違えません」
「本当かぁ?」
ノゾミコは大貫を笑いながら睨み付けた。そしてトランクを縦に置いて、それに腰掛けた。いかにも大事なものが中にある、という風な銀色のトランクだ。その中に『桜華』が入っている。
ノゾミコは今日、豪奢なドレスを身に纏っていた。薄い紫色のフリルの多いドレス姿。確かアイコが以前に阪急百貨店で買ってきたものだと思う。ノゾミコはそういう服を普段は着たがらないけれど、今日は日本の代表だから頑張って着たみたいだ。しかしさすがお姫様。ドレスを完璧に着こなしていた。それからノゾミコに付き添うサクラも以前アイコが阪急百貨店で買ってきたドレスを着ていた。ケイコもアイコが買ってきてくれた黒いシャツに、紅いスカートだった。
それぞれの搭乗口から警備員が降りて来た。そして階段の前で列になっていた人々の入場が始まったようだ。
ノゾミコは立ち上がり、トランクを手に持つ。「それじゃあ、行こうか、サクラ」
「はい、行きましょう」
ノゾミコとサクラは船尾に近い方の搭乗口に向かった。すぐに新聞記者に囲まれて、フラッシュが焚かれた。二人はその中を歩いていく。それまで新聞記者が日本の代表として船に乗り込む二人に近づかなかったのはケイコが風を起こしたり怖い顔で睨みつけたりして遠ざけていたからだ。離れた瞬間にこれだから、ケイコはむっとなって風を起こそうかと思った。
「それじゃ僕たちも行きましょうか?」大貫は言って、ケイコの手を引っ張る。
強く引っ張られた。
ケイコは前にバランスを崩して大貫に寄り添うようになる。
「あ、ごめんね」見上げれば顔が近かった。
「いえ、」大貫はじっと見つめてくる。「すいません」
ケイコもじっと見つめ返した。
体が震えていた。
心臓が揺れている。
二人の顔が近づいて。
ケイコは目をぎゅっと瞑った。
またアイコの顔が浮かんだ。
そして。
大貫は何もしなかった。
何もせずに体を離した。
とても紳士に笑いながら、今度はケイコの手を優しく引いて歩き出す。
「すいません、」大貫は謝り続けた。「すいません」
どうしてそんなに謝るのか、ケイコには不思議で可笑しかった。




