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第4章 第4話 置いていかないで

 相談役の増員案は、悠真が周囲の流れを少しずつ動かしたことで、思ったより早く通った。


 教師は「多様な支え手が必要」と説明したが、その正しさの裏側に、真白は自分への集中を分散させたい意図も見ていた。感謝するのも癪で、文句を言うのも違う。そういう中途半端さが、最近の悠真には増えている。

 増員された相談役の中には、伴走する側の熱意ばかり強い生徒もいた。「絶対に見捨てない」と言い切る口ぶりは、聞いていて少し怖い。


 真白は昼休みの打ち合わせで、その熱心さが別の圧になるのを感じた。

「見捨てないって言い切ると、相手は離れられなくなるわよ」

 つい口にすると、場が少し止まる。

「でも、途中で離れる方がひどくない?」

 誰かが言う。

「離れ方を考えるのと、最初からずっと抱えるのは別でしょう」

 真白は配布資料をめくりながら答えた。正論の形を取らないよう気をつけたつもりだったが、結論へ寄せる力は消せない。数人はそこで黙り、別の数人は納得した顔をする。真白はその変化に気づいて、すぐに口を閉じた。喋れば収まる。でも収まることがそのまま正しいわけではない。


 放課後、結菜が保健室前の廊下で泣いていた。理由は単純だった。昼休みに真白へ相談しようとして、見つけられなかったのだという。

「少し探しただけで、あんな顔しなくてもいいでしょう」

 真白はそう言ったが、結菜は首を振った。

「朝比奈さんがいないと、何を基準にしていいか分からなくなる」

 その言葉は、真白が一番聞きたくない種類の告白だった。支えになってしまっている。しかも本人より早く、相手の中で親みたいな役割が完成している。


 保健室の白いカーテンが揺れていた。養護教諭は席を外していて、廊下には消毒液の匂いだけが薄く残る。

「いない時のために、わたし以外の窓口も決めたでしょう」

「分かってる」

「分かってるなら」

「でも、まず朝比奈さんに聞きたかった」

 結菜は言い切ってから、自分でもそれが甘えだと気づいたらしく、唇を噛んだ。真白は一度目を閉じる。

「結菜」

 名前を呼ぶと、相手はすぐに顔を上げる。その反応が速いこと自体、もう危ない。

「それ、わたしには嬉しくない」

 結菜の目が揺れた。

「ごめんなさい」

「謝る話じゃない。……わたしがいない時に止まる仕組みなら、最初から変えないとだめなの」

 真白はその場で、結菜に今日の行動を書き出させた。誰を探し、どこで止まり、どうして保健室まで来たのか。泣きながらでも書かせたのは、言葉を自分のものに戻したかったからだ。


 その紙を持って生徒会室へ行くと、九条がすぐに反応した。

「制度の失敗じゃなく、成功の副作用だね」

「言い方」

「事実の話。安心が一点に集中すると、離れた時に崩れる」

「分かってる」

「なら、伴走役を固定しない方がいい」

 九条はすでに代替案を考えていた。一人につき一人の固定ではなく、二人ないし三人のゆるい輪で支える方式。合理的だ。合理的すぎて、真白は少し嫌だった。人を守る話なのに、管理表の整い方が先へ出てくる。


 悠真はその案を聞いたあと、しばらく黙っていた。やがて資料の余白に細い線を引きながら言う。

「輪にしても、中心が一人なら意味ない」

「だから複数化するって話だろ」

 九条が返す。

「複数でも、みんなが同じ人を見たら同じ」

 悠真は視線を上げないまま続けた。

「真白にだけ寄ってくる子がいるなら、制度じゃなくて教室側を変えないと」

 それは真白にもよく分かる指摘だった。支援の仕組みではなく、日常の席順、昼休みの居場所、誰に最初の声がかかるか。その外側の空気が変わらない限り、寄り先だけは必ず生まれる。


 翌日、悠真は何人かのクラスメイトにさりげなく声をかけ、昼休みの図書室利用を広げる流れを作った。誰か一人が真白へ向かうのではなく、複数人が同じ場所にいる状況を作る。真白にはそれが分かる。分かるから、帰り道に文句を言った。

「あれ、あんたでしょう」

「何が」

「図書室に人集めた流れ」

「たまたまだよ」

「たまたまであれになるなら、みんな魔法使いよ」

 悠真は否定も肯定もしない。その曖昧さが癪に障る。

「人には危ないって言うくせに」

「真白には効かないから、外を変えた」

「最悪」

「知ってる」

 真白は肩を落とした。結局、悠真もまた言葉で流れを作っている。ただし本人へではなく、その周囲へ。中心を直接動かせないからこそ、外側から変える。そのやり方の卑怯さと優しさを、真白はどちらも理解してしまう。


 その夜、結菜から短いメッセージが届いた。

 〈今日、朝比奈さんがいなくても、図書室に行けました〉

 真白はすぐには返さなかった。窓の外では雨が降り始めている。手を離すことは、見捨てることではない。その言葉を相手へ渡す前に、まず自分の中で何度も確かめる必要がある気がした。


 伴走役の変更希望が、目に見えて増えたのは四月の終わりだった。理由欄には〈合わなかった〉としか書かれていない。だが、実際に聞けばもっと生々しい。毎日連絡が来る。返信が遅いと心配される。放課後の予定を先に聞かれる。善意の頻度が、息苦しさになる。


 その日の放課後、真白は保健室の前で一年の男子に袖をつかまれた。

「朝比奈先輩、今ちょっとだけ」

 振り向くと、顔色の悪い小柄な生徒が立っている。彼は伴走役の上級生と離れたがっていたが、はっきり言えずにいるらしい。

「置いていかないでください」

 小さな声だった。だが、真白にはその一言が予想以上に重く落ちてきた。置いていかないで。支える側に向けられたその言葉は、頼る側の切実さであると同時に、離れられなくする縄でもある。

「今、置いていく話はしてないでしょう」

 真白はできるだけ穏やかに言った。

「でも、替わるって聞いたら」

「替わることと、捨てることは違う」

「違っても、似てます」

 言い返せなかった。似ているのだ。引き継ぎも説明も、置いていかれる側には「自分じゃ足りなかった」の翻訳に見えてしまう。

 真白は廊下の端にあるベンチへ彼を座らせ、自分は少し離れて立った。

「今、ここで何を言っても、たぶん半分しか届かないわ」

「……はい」

「だから、今日はひとつだけ。離れる練習は、見捨てる練習じゃない」

 男子生徒は目を伏せた。納得はしていない。だが泣き出す寸前の硬さだけは少しほどけた。


 その場面を遠くから見ていた九条が、廊下の角を曲がって近づいてくる。

「上手い言い方だ」

「そういう評価で聞かないで」

「事実だよ」

「今いちばん聞きたくない」

 九条はベンチの生徒が保健室へ入ったのを見届けてから、低く言った。

「依存は、切るより薄める方が難しい」

「知ってる」

「でも君は切りたくない」

「切るだけなら簡単だから」

 九条は少しだけ黙った。彼の沈黙は珍しい。分析の先に、正解がすぐには出ない時だけこうなる。


 帰り道、真白は悠真に「置いていかないで」の件を話した。川沿いの道には、部活帰りの生徒たちの声が風にちぎれて飛んでくる。夕方の空は明るいのに、足元だけ冷えた。

「正しい言葉、何もなかった」

 真白が言うと、悠真は少し考えた。

「最初から正しい言葉なんて、ないんじゃない」

「投げやり」

「違う。そういうのって、たぶん、言われた側が後で選ぶんだよ。あの時の言葉を信じるかどうか」

「それ、支える側に優しくない」

「知ってる」

 悠真はポケットの中で鍵を鳴らした。

「でも、そこで“安心させるための正解”を出し始めると、今度はその正解がないと立てなくなる」

 真白は黙る。分かる。分かるから腹が立つ。優しい言葉で今すぐ救えない時がある。むしろ、今すぐ救えたように見える言葉の方が、あとで長く縛ることもある。


 夜、伴走制度の運営会議では、変更希望の増加に対して「相性再マッチングの徹底」が提案された。教師たちは前向きに頷く。だが真白は、その場の前向きさに背筋が寒くなった。合わなかったから替える。替えればいい。そう簡単に回し始めると、人はいつまでも「合う人」を探し続ける。

「代えること自体は必要でしょう」

 真白が言うと、会議室の空気が少し止まる。

「でも、誰かに合うまで預け直すだけなら、結局、自分で立つ準備にならない」

 九条がその続きを引き取った。

「支える相手の交換は、親の交代じゃない。役割を増やしても、依存の形が増えるだけだ」

 教師の一人が、戸惑ったように言う。

「そこまで大げさな話かな」

 大げさではない。けれど、その言葉をすぐに飲み込めるほど、この場はまだ困っていない。困っていない側は、支援を増やせば解決に近づくと思いがちだ。

 真白は会議の途中で窓の外を見た。部室棟の電気が一つずつ消えていく。

 誰かが手を離すのに、明るい合図なんてない。


 帰宅前、真白は空き教室にひとりで入った。机の間を歩きながら、誰もいない教室ほど「置いていかないで」という声が残るのだと思う。昼の男子の声は、もう壁にしみこんでいるみたいだった。助けたいと思う気持ちは本物だ。だから手を離す方が残酷に見える。けれど、いつまでもつないだ手は、いつか「自分では歩けない」の証明にもなる。

 真白は最後の窓を閉め、教室の鍵を回した。誰かを置いていかないことと、いつまでも隣に立ち続けることは違う。その違いを説明できる言葉が、まだ自分には足りなかった。


 翌日、保健室の前で会った男子生徒は、前日より少しだけ落ち着いていた。だが真白を見るなり、安心した顔をしてしまう。その顔に真白は一瞬だけ胸が痛んだ。安心させてしまうこと自体が、次の依存の種になるかもしれないからだ。

「今日は先生と話せた?」

「ちょっとだけ」

「それで十分」

「でも、朝比奈先輩がいたから」

「それは半分」

 真白はそう言って、自分でも驚く。以前なら、そこを否定しきれなかった。今は半分だけ受け取り、半分は返す方が自然だった。


 昼休み、九条は生徒会のホワイトボードに新しい図を書いた。支える側、支えられる側、そのあいだにある“切り離しの恐怖”。矢印は整っているのに、見ているだけで息苦しい図だった。

「これ見せる気?」

 真白が聞くと、九条はマーカーを置いた。

「見せる。見せないと、みんな“優しい話”で終わらせる」

「正しいけど、怖い」

「怖くないと残らない」

 その考え方は九条らしい。真白は反発したいのに、今回は完全には反発できない。離れ方の話は、少し痛い形で示さないと、すぐ美談へ戻される。


 帰り道、悠真は珍しく遠回りをした。商店街を抜け、古い文房具店の前で立ち止まる。

「なんでこっち」

「近道だと、真白が考えすぎる顔のまま帰るから」

「意味分かんない」

「意味はある」

 文房具店のウィンドウには、小学生向けの連絡帳が並んでいた。保護者欄の大きい、あの妙に管理された紙面。真白はそれを見た瞬間、苦く笑う。

「最悪の景色」

「でも、今やってることに近いよね」

「分かってる」

 真白はガラスに映る自分の顔を見た。置いていかないで、と言われた時に揺れたのは、その言葉の切実さだけではない。自分もまた、誰かを置いていく側になるのが怖かったのだ。支えることは、ずっと隣にいる誓いではない。そう言い切るには、まだ少し勇気が足りない。


 家に帰ってからも、真白の耳には「置いていかないで」が残っていた。

 あの言葉を軽くできる理屈はない。支えられる側にとって、離れることはいつだって切り捨てに似る。

 だから離れる側は、自分が悪者になった気がしてしまう。親離れも子離れも、たぶんそこが同じだ。

 嫌われるかもしれない。傷つけるかもしれない。

 それでも、一緒に沈まないために離れ方を選ぶ。

 真白はベッドの上で天井を見ながら、その覚悟だけは、優しい制度では代わってくれないのだと知った。


 翌日の朝、昨日の男子生徒は目を合わせると会釈だけして通り過ぎた。呼び止めてこない。

 真白はそれで少しだけ寂しくなり、すぐに自分で苦く笑う。

 近づかれれば縄になるかもしれないと怖がり、離れれば離れたで寂しい。支える側の矛盾は、たぶんここから始まる。手をつないでいれば安心する。けれど握り続ければ、相手の指はいつまでも自由にならない。

 その当たり前を、心はなかなか認めたがらない。


 翌々日、男子生徒は自分から保健室へ行き、次の面談日を先生とだけ決めた。

 真白に報告はしなかった。あとで保健の先生から聞かされて、真白は少しだけ拍子抜けする。助けた側は、結果を自分の手元へ戻したくなる。ちゃんと動いたか知りたいし、次も必要とされているか確認したい。

 けれどその欲求を我慢するところからしか、子離れめいた支えは始まらないのだろう。真白は保健室前の白いカーテンを見ながら、置いていかないでと言われた時より、報告されなかった今の方が難しいと感じた。


 距離は、近づく時より離れたあとに試される。

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