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第4章 第2話 ありがとうの重さ

 翌週から、伴走制度は試験的に動き始めた。


 放課後の面談、昼休みの相談席、連絡ノートの受け渡し。どれも大げさな仕組みではない。だからこそ、日常の中へするりと入り込む。

 真白の机の中にも、小さな連絡ノートが入れられた。

 表紙に結菜の名前、内側に「気づいたことがあれば」とだけ書かれている。最初の数日は白紙だった。

 結菜は図書室で本を借り、廊下ですれ違うと軽く会釈し、必要以上には近づいてこない。真白はその距離に少し安心した。


 けれど木曜日の昼休み、ノートの最初のページに短い文が入っていた。

 〈進路調査、何て書けばいいか分からない〉

 その下に、真白は数行だけ返した。

 〈分からないなら、そのままでもいい。いま決められることと決められないことを分けてみて〉

 それで終わるはずだった。


 ところが翌日、次のページに、

 〈昨日、そう書いたら先生に詳しく聞かれました。どう返せばいいですか〉

 とある。さらにその次には、

 〈昼休みに図書室へ行ってもいいですか〉

 質問の粒が、少しずつ細かくなっていく。

 真白はノートを閉じた。困っているのは事実だろう。だが、返せば返すほど「次も聞けばいい」に変わっていく気配があった。


 その日の図書室で、結菜はノートを抱えたまま椅子に座っていた。席に着く前から「すみません」を二度言う。真白は鞄を置いてから、わざと時間をかけて椅子を引いた。

「まず、そのすみませんを減らして」

 結菜は困った顔で笑った。

「癖で」

「分かる。でも、謝ると相談の中身が全部そっちへ寄る」

 真白は窓の外の桜を見た。もう盛りを過ぎて、花びらが運動場の端へ寄っている。

「進路調査、どう書いたの」

「興味があることだけ」

「それでいいじゃない」

「でも、先生に“本気度が伝わらない”って」

「本気度って便利な言葉ね」

 真白がそう返すと、結菜は少しだけ笑った。会話がほどける。その瞬間、自分の役割がまた強くなるのを真白は感じた。

「わたしが代わりに考えるのは簡単。でも、代わりに考えたら次もそうなる」

 ノートを開き、真白は空いている欄を指で示した。

「ここに、自分で決めたことだけ書いて。わたしは確認しかしない」

 結菜はペンを持ったまま、しばらく固まっていた。やがて小さな字で、〈好きなことを、好きだと書く〉と記す。

「それで十分」

「朝比奈さんにそう言ってもらえると」

「そこ。そういう言い方はやめて」

 真白は思ったより強い声を出してしまい、自分で少し驚いた。

「わたしが言ったからじゃなくて、自分で納得したからでしょ」

 結菜は目を丸くし、それから小さく頷いた。


 廊下へ出ると、悠真が窓側の掲示板を見ていた。討論交流会の準備日程が張り出されている。真白が近づいても、彼はすぐには振り向かない。

「聞いてた?」

「聞こえる位置だった」

「それ、ほぼ聞いてたって言うのよ」

 悠真はようやく顔を向けた。

「ありがとうって言われると、止まりにくくなるだろ」

 真白は返事をしなかった。その通りだったからだ。助けたと実感する瞬間より、「助かりました」と言われた瞬間の方が危ない。次もやれる気になるからではない。次もやらなければいけない気になるからだ。

「分かってる」

「うん」

「それで終わらせないで」

「終わらせる気はない。まだ戻せるって思ってるだけ」

 そう言うと、悠真は掲示板の紙を指でならした。紙の端が少し浮いていたのを押さえただけの動作なのに、妙に落ち着いて見える。真白はそれが少し腹立たしい。


 放課後、生徒会室では九条が別の問題を片づけていた。伴走制度の相談席に、予想以上の人数が流れ込み、相談役の当番表が崩れているらしい。

 九条は表に細かく印をつけながら、支える側の負担時間を割り出していた。

「結菜が、少しずつ聞くことを増やしてる」

 真白が言うと、九条はペン先を止めた。

「当然だね」

「当然で片づけないで」

「片づけてない。寄る相手を見つけた人間は、距離の測り方をやり直す。問題はそこから先」

「先?」

「君が、必要とされることに慣れるかどうか」

 真白は息を飲んだ。九条の言葉はいつも痛い場所を短く突いてくる。

「慣れない」

「願望」

「感想を返すのやめて」

 九条は肩をすくめた。

「支えられる側は、支えを親みたいに使い始めることがある。支える側は、その役に甘える」

「最悪ね」

「知ってる」

 真白は机の上の当番表に視線を落とした。赤い印が増えた欄ほど、相談が集中している。人気のある相談役、安心される相談役。いい言葉で呼べば呼ぶほど、それは依存と見分けにくくなる。


 その帰り道、結菜から短いメッセージが届いた。

 〈今日は自分で書けました。ありがとうございました〉

 その文面のやさしさが、真白には少しだけ重かった。ありがとうは、返しやすい。返しやすいぶん、次も受け取らなければいけない気にさせる。

 返信はすぐには打たなかった。代わりに、駅前のベンチに座って少し風に当たる。通行人の会話がとぎれとぎれに流れてくる。親らしい女性が、小さな子どもの靴ひもを結び直しているのが見えた。子どもは自分でやると言いながら、結び終わるまでじっとしていた。結ばせることも、結んでもらうことも、どちらも楽なのだろう。

 真白はしばらくしてから、結菜に一行だけ返した。

 〈よかった。次もまず自分で書いてみて〉

 それが冷たいか、ちょうどいいか、自分でも分からない。


 翌日、結菜は教室の前で真白を待っていた。手には進路調査票がある。

「先生に出せました」

「そう」

「ちょっとだけ、自分で決めた感じがしました」

 真白はそこで初めて笑いそうになったが、すぐに笑わなかった。うれしい顔をそのまま見せると、また結菜がそこに寄りかかる気がしたからだ。

「それならよかった」

 あえて平らに言う。結菜は少し物足りなさそうな顔をしたが、何も言わなかった。

 その様子を、教室の後ろから悠真が見ていた。真白は視線だけで「なによ」と返す。悠真は目を逸らさない。その目つきは責めるものではなく、数手先を見ている人間のものだった。

 ありがとうの重さを、真白はその日やっと量として感じた。言われるたびに、手の中へ小さな重りが増える。持てるうちはいい。持てなくなった時、落とした方が悪者になる。それがこの制度のいちばん怖いところなのだと、帰り道の西日が長く伸びる歩道の上で、真白はようやくはっきり理解した。


 翌週、結菜は真白の前に紙袋を差し出してきた。小さな焼き菓子が二つだけ入っている。包装は丁寧だが、店のものではなく手作りらしい不揃いさがあった。

「この前、ありがとうございました」

「ありがとうで済ませるには早くない?」

「でも、何か返さないと落ち着かなくて」

 真白は受け取らずに、まず椅子を引いた。図書準備室の古い机の表面に、蛍光灯の白い光が薄くのっている。

「座って」

 結菜は戸惑いながら腰を下ろした。紙袋は膝の上で小さく鳴る。

「返したいのは分かる。でも、二回話しただけでそれをやると、たぶん次から話しにくくなる」

「でも、お世話になってるし」

「その“お世話”がもう重いの」

 結菜は目を丸くした。怒られたと思ったのだろう。真白は言い過ぎたかと思ったが、やわらかく言い直すより先に、今は止めた方がいいと感じた。

「ありがとうは嬉しいわよ。でも、ありがとうを払うみたいに使うと、あんたが次に困った時、また何か差し出さなきゃって思うでしょう」

「……思うかも」

「それ、面倒くさいわよ」

 結菜は少し考え、やがて紙袋を机の上に置いた。

「じゃあ、これは半分だけ」

「半分?」

「朝比奈さんが一個、私が一個」

 その言い方に、真白は思わず笑ってしまった。誰かに返すための贈り物ではなく、その場を終わらせるための分け方。そういう不器用さの方が、今は信用できる。


 昼休み、真白はその話を悠真にした。購買の袋を机に置き、まだ温かいパンをちぎるとバターの匂いが広がる。

「ありがとうの重さ、ね」

 悠真はパンの包装をたたみながら言った。

「重いわよ。返そうとする方も、受け取る方も」

「助けられたって思った側ほど、そうなる」

「分かってるなら言いなさいよ」

「真白の顔がまだ、言われなくても分かってる顔だったから」

「その言い方きらい」

「知ってる」

 悠真は相変わらず淡々としていたが、机に置いた指先だけが少し強く折れていた。彼はたぶん、自分にも覚えがあるのだ。支えようとした相手に、感謝より先に負担を渡してしまったことが。


 放課後、生徒会室では伴走役の中間報告が開かれた。九条は資料の束を片手に、感謝やお礼の頻度まで数えていた。

「見返りを返そうとする動きが強いほど、依存が固定化しやすい」

「数えたの?」

「数えた」

「嫌な几帳面さ」

「役立つ几帳面さだよ」

 九条はそこで、報告用紙の一枚を真白に差し出した。伴走役の生徒が〈何度断ってもお礼を持ってくるので、受け取らないのも悪い気がして困る〉と書いている。

「ほら。助けた側も逃げ場がなくなる」

「支えられる側ばかり見てると、そこを忘れる」

 真白が言うと、九条は珍しくすぐには返さなかった。窓の外で部活の終了を知らせる放送が鳴り、校庭の端から椅子を片づける音が断続的に聞こえる。

「親が、子どもの“ありがとう”を断れなくなるのと似てる」

 九条がぽつりと言った。

「なに急に」

「比喩として」

「嫌な比喩」

「でも、たぶん近い」

 助けた側は、その感謝を受け取ることで自分の役目を再確認してしまう。受け取った瞬間に、関係はやさしく固定される。真白はその図を思い浮かべて、机の端を指でなぞった。


 帰り道、真白は紙袋の焼き菓子をひとつ持ち帰り、もうひとつは結菜の分として準備室の引き出しにしまった。次に会うまで残っている保証はない。なくてもいい。大事なのは、返さなければ続かない関係にしないことだ。


 家に帰ってから、真白は空になった包装をしばらく捨てられなかった。そこに付いたわずかな甘い匂いが、感謝という言葉のやっかいさを思わせる。受け取ることはうれしい。うれしいからこそ、簡単に鎖になる。そのことを、真白は自分の手の中の軽さで知った。


 次の面談で結菜は、机の上に紙袋を置かず、代わりにノートを一冊持ってきた。表紙の端に小さく折り目がついている。

「今度は何」

「メモです」

「食べ物より健全ね」

「たぶん」

 中を開くと、誰に何を話したかではなく、話したあとでどんな気分になったかだけが短く書かれていた。〈ちょっと疲れた〉〈でも前よりまし〉〈返事を待ちすぎた〉。報告ではなく、自分の感覚を戻すためのメモだとすぐ分かる。

「これ、朝比奈さんに見せなくてもいいやつなんです」

「じゃあ、なんで見せたの」

「見せてもいいと思ったので」

 真白はそこに、前より少し軽い距離を見た。全部を預けるのではなく、一部だけを渡す。感謝も報告も、そうなれば少しだけ関係は楽になる。


 その日の放課後、九条は生徒会室で、支援を受けた生徒の「お礼の頻度」と継続相談の相関を表にしていた。

「本当に数えてたんだ」

「言っただろ」

「そこまでやる?」

「そこまでやる」

 真白は椅子を引き、表の上に指を置く。感謝の多い関係ほど、相談の終了が遅い。数字だけ見れば単純すぎるが、傾向としてははっきりしていた。

「ありがとうって、優しいのに面倒ね」

「優しいから面倒なんだ」

 九条の返しに、真白は小さく息を吐いた。相変わらず言い方は可愛くない。だが今は、その可愛くなさの方が頼りになる。


 夜、真白は母に焼き菓子の話をした。食卓の上には切り分けられたりんごが置かれている。

「受け取ればよかったんじゃない?」

 母はあっさり言った。

「その方が相手も安心したでしょ」

「その安心が次も必要になるのが嫌なの」

 母は一瞬だけ黙り、やがて苦笑した。

「子どもが何か持ってきた時に、断るのって難しいのよね」

「親みたいなこと言う」

「そういう話でしょう、たぶん」

 真白はそこで、焼き菓子を断らなかったら何が起きていたかを考える。結菜は次も何か持ってきたかもしれない。真白は受け取るたびに断りづらくなったかもしれない。優しさは、受け取った瞬間に少しずつ慣習になる。

 窓の外で、近所の子どもを呼ぶ声がした。名前を呼ばれて走って帰る足音は軽い。真白は食卓のりんごをひとつ口に入れ、感謝が軽いまま渡される関係の方が、たぶん長く続くのだと思った。


 翌朝、引き出しにしまっておいたもう一つの焼き菓子を見て、真白は少しだけ安心した。受け取らなかったのではなく、分けた。それくらいの曖昧さが、今の自分にはちょうどいい。関係を完全に拒まず、でも返礼で固定もしない。


 その中間を探すことが、支える側の最初の仕事なのだと、甘い匂いだけが静かに教えていた。

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