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第3章 第1話 善意の席順

 文化祭が終わってから、学校は少しだけ静かになった。


 だが、それは騒ぎが去ったという意味ではなかった。むしろ、騒ぎのあとにだけ残る妙な慎重さが、廊下にも教室にも薄く張りついていた。誰かの前で何を言うか。誰に何を任せるか。どう言えば角が立たないか。そういうことを、みんな以前より少しだけ気にするようになっていた。

 その変化を、真白はよいことだと思っていた。前よりも、言葉に責任が出たからだ。軽率な一言で誰かを押し流すような場面が減るなら、それはたぶん前進だ。そう思っていた。


 だが、その朝のホームルームで、担任が新しい校内連携企画を発表した時、真白は教室の空気がべつの方向へ滑るのを感じた。

「今学期から、対話支援週間っていう取り組みが入る。相談しやすい雰囲気づくり、クラス内の相互理解、学年間の交流促進。簡単に言うと、もっと本音で話せる学校にしていこうってことだ」

 担任は善意そのものみたいな顔で言った。黒板には、柔らかい色のチラシが磁石で留められている。〈本音でつながる一週間〉。〈分かり合える教室へ〉。〈話せることは、救いになる〉。どれも正しいように見えた。正しく見えすぎる、と思ったのは、悠真の表情を見たときだった。

 彼は何も言わなかった。ただ、ほんの少しだけ眉を寄せた。真白はその視線に気づいたが、すぐには意味が分からなかった。だから軽く首を傾げるだけにした。悠真は「べつに」とも言わない。そのままチラシの文面を見ていた。


 昼休み、クラスでは新しい企画に合わせた「対話席替え」の話が持ち上がった。相性のいい友人同士で固まらず、普段あまり話さない人間と組み合わせた方がいい、という学級委員の提案だった。誰かが反対しようとしたが、その理由をうまく言えないまま、場だけがもたついた。

「でも、せっかくなら、話したことない人と座った方が面白くない?」

 真白は配られたプリントを見ながら、何気なくそう言った。説得するつもりはなかった。ただ、早く決まってほしかっただけだ。教室全体が、正しさの方向を向きながら足を止めている感じが、少しだけ面倒だった。

「たしかに」

「まあ、せっかくだし」

「別に一学期ずっとってわけじゃないしね」

 いくつかの声が重なり、反対しかけていた空気は薄まった。学級委員はほっとした顔で、「じゃあ、その方向でいこうか」とまとめる。真白はそれで終わったと思った。けれど横を見ると、悠真だけが無言でこちらを見ていた。責めるでもない、止めるでもない、ただ「またか」とでも言いたげな視線だった。

「なによ」

「……別に」

「その顔、感じ悪い」

「真白の方が気づいてるだろ」

 何に、と聞き返しかけて、真白はやめた。悠真は本当に危ない時しか口を開かない。それ以外では、こういう曖昧な顔だけ寄こす。だから腹が立つより先に、少しだけ引っかかる。


 放課後、真白は職員室前の廊下で、連携企画の実行補佐を頼まれている二年生の女子に呼び止められた。討論交流会の仮担当が足りないのだという。文化祭の時に運営側を手伝っていた人間に、まずは声をかけているらしい。

「朝比奈さん、もしよかったら候補だけでも」

「候補だけって、あとで断りにくくなるやつでしょう」

「それは、まあ……」

「だったら先にそう言って」

「ごめん」

 真白は小さく息を吐いた。断るつもりだった。討論が嫌いなわけではないが、いま学校全体が「話すこと」そのものを善として押し出している空気に、少しだけ距離を置きたかったからだ。


 そこへ、別のクラスの男子が通りかかって、何気なく言った。

「でも朝比奈さん、文化祭の時うまく回してたじゃん」

「回してないわよ。勝手に回っただけ」

「いや、そういうのが向いてるってことじゃない?」

「それ、褒めてる?」

「褒めてるつもり」

 別の女子も口を挟む。

「討論が強い人より、場を荒らさない人がいいって先生も言ってたよ」

「じゃあ余計にわたしじゃないと思うけど」

「でも候補だけなら」

 候補だけ、仮で、名前を載せるだけ。その言葉が何度も重なった。真白はおかしいと思った。誰かが強く押しているわけではないのに、断りにくい流れだけが出来上がっていく。ふと視線を上げると、少し離れた場所に悠真がいた。壁にもたれ、スマホを見ているふりをしている。真白はそれだけで察した。

 あとで文句を言うと決めて、ひとまず名前だけ書いた。


 帰り道、校門を出たところで真白は言った。

「悠真、あれ、あんたでしょう」

「何が」

「討論会。わたしの名前が出る流れ」

「みんながそう思っただけじゃない」

「その、みんながそう思うようにしたのがあんたでしょ」

「真白が断ると思ったから」

「当たり前でしょう」

「だから、直接は言わなかった」

 あまりにも平然と言うので、真白は思わず立ち止まった。

「人には危ないって顔するくせに、自分だってやるのね」

「真白と九条みたいにはやってない」

「九条をそこに混ぜないで」

 名前が出た瞬間、風の温度が変わった気がした。真白はそれをごまかすように歩き出す。悠真は少し遅れて隣に並んだ。

「ぼくのは、真白にはほとんど通じないから」

「通じない前提で話さないで」

「実際そうだろ」

「……それは、そうかもしれないけど」

 答えたあとで、真白は自分で少し驚いた。そんなふうに認めるつもりはなかったのに、悠真の言い方には、いつも余計な飾りがない。腹が立つのに、変なところだけ刺さる。


 翌日、対話支援週間の準備会が開かれた。会場になった視聴覚室には、連携企画に参加する生徒と教員が集まっている。そこに、他校の資料を持って現れた人物を見た時、真白は一瞬だけ呼吸を忘れた。

「久しぶり、朝比奈さん」

「……九条」

 九条絢人は、前と同じように落ち着いた顔で立っていた。笑っているのに、油断できない目をしている。そのくせ以前ほど刺々しくはない。文化祭のあとで、一度何かが終わったはずなのに、終わっていないものだけが整った形で戻ってきたような感じだった。

「今回、別校側の調整に入ってる」

「生徒会の仕事?」

「そういうもの。そっちは仮候補に入ったらしいね」

「仮よ」

「仮から逃がしてもらえない空気もある」

 真白は思わず顔をしかめた。九条はそれを見て、少しだけ笑う。

「言っただろ。美しい言葉ほど、人を逃がさない」

「それを今ここで言う?」

「今だから言う」

 その時、前方で司会役の教員がマイクを入れた。連携企画の理念説明が始まる。〈話せることは救いになる〉〈分かり合いは誤解を減らす〉〈言わないままにしない学校へ〉。どれも正しい。正しいはずなのに、真白は胸の奥に薄いざらつきを覚えた。

 九条も同じものを見ている、と直感で分かった。だが彼の目は、危うさを怖がるより先に、構造として楽しんでいるようにも見えた。それが嫌だった。


 会の終わり際、教員が付け足した。

「なお、今回は互いの理解を深めるため、なるべく率直な発言を歓迎します。遠慮せず、本音で話してください」

 教室のあちこちでうなずく気配がした。真白はその一文が、妙に重く残った。

 率直であること。話すこと。隠さないこと。どれも善意だ。だが善意は、ときどき人の逃げ道を先に埋める。

 視聴覚室を出る時、悠真だけが何も言わなかった。けれど真白は、隣に並んだ彼の沈黙が、ひどくはっきりした警告みたいに感じられた。


 準備会が終わったあと、真白は配布されたチラシをもう一度めくった。色も言葉もやわらかい。やわらかいのに、そこに書かれている文だけが妙に逃げ道を塞いで見える。


 〈話せることは、救いになる〉

 〈言えたあなたを、みんなで支えよう〉

 〈本音は、関係を変える第一歩〉


「関係を変える、ね」


 小さく呟くと、すぐ横から九条が言った。

「嫌いそうな文だ」

「そっちこそ嫌いでしょう」

「嫌いというより、扱いにくい」

「似たようなものでしょ」

「少し違う。嫌いなら距離を取れる。でも、これは正しい顔をしてるから、みんな自分から近づく」

 九条はチラシを持ち上げ、端を軽く叩いた。

「危険なのは、ここに書かれていることが半分は本当だってことだ」

「半分?」

「話せて救われる人はいる。話せなくて壊れる人もいる。その二つを、同じ掲示物でまとめるのが雑なんだ」


 そこへ、実行補佐をしている二年生がまた戻ってきた。

「朝比奈さん、さっきはごめん。候補の件、やっぱり無理なら無理でいいから」

「そう言うなら最初からそう言って」

「いや、その……本当に、文化祭の時は助かったから」

 二年生は少しだけ笑って、でもすぐに困った顔に戻った。

「朝比奈さんに全部任せたいわけじゃないの。ただ、ああいう場を怖がらない人が一人くらいいてくれたら、って」

 真白は返事に迷った。任せたいわけじゃない。その言葉もたぶん本当だ。けれど、任せるつもりがないから無責任になれる時もある。


「怖がらないわけじゃないわよ」

 思わずそう言うと、二年生は少し目を丸くした。

「え、そうなの?」

「そうよ。怖いに決まってるでしょう」

「朝比奈さん、怖がることあるんだ」

「失礼ね」

「いや、なんか安心した」


 そのやり取りを、少し離れたところで悠真が聞いていた。いつものように何も言わない。けれどその視線は、真白が口にした“怖い”という言葉だけを拾い上げたみたいに静かだった。


 帰り道、真白はその視線が気になって、結局自分から口を開いた。

「何よ」

「別に」

「今日はその“別に”多くない?」

「多いかも」

「感じ悪い」

「真白が、自分で怖いって言ったから」

「言ったけど」

「前はそこ、もう少し後でしか言わなかった」

 真白は少しだけ黙った。たしかにそうかもしれない。以前なら、平気な顔を先に作った。今はそれが少しだけ面倒になっている。

「……だからって、何」

「何も。ただ、そういう方がたぶんましだと思う」

「説明が足りない」

「今日はそのくらいでいい」

「ずるい」

「知ってる」


 言い返したいのに、妙に引っかかる。真白は校門のところで足を止め、もう一度だけ校舎を振り返った。柔らかいチラシ。穏やかな教師の声。うなずくクラスメイトたち。どれも善意で出来ているのに、どこかで誰かを追い詰める形に変わりそうな予感があった。

 その晩、真白は机の上に置いた討論交流会の仮資料を閉じたり開いたりしていた。断れば済むはずなのに、紙を閉じるだけで「じゃあ誰がやるの」と誰かの声が聞こえる気がする。実際には誰もそこまで言っていない。けれど、そう言わせる空気だけはもうでき始めていた。


 窓の外では、校庭の端の街灯が白く滲んでいる。スマホにはクラスのグループチャットが流れ、〈対話席替えちょっと楽しみ〉〈普段話さない人と喋るの緊張する〉といった軽い言葉が並ぶ。軽いのに、そこに乗れない人間だけが少しずつ遅れていく感じがした。

 そこへ悠真から短く届く。

 〈断るなら早い方がいい〉

 真白はしばらく迷ってから返した。

 〈そういうことは昼に言いなさいよ〉

 すぐに既読がつく。

 〈昼に言ったら、真白は意地で逆を選ぶ〉

 〈感じ悪い〉

 〈知ってる〉

 そのやり取りだけで、真白は少しだけ肩の力が抜けた。助けられたくない。けれど、一人で決めた顔もしたくない。その中途半端さを、悠真だけは最初から見抜いている。

 翌朝、席替え案のプリントはすでに配られていた。誰も強く反対していない。だから決まったことになっている。その自然さが、真白には少しだけ怖かった。

 自分の一言も、たぶんこの自然さの一部だったのだと思うと、なおさらだ。

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