第2章 第5話 守りたいものは同じ
比較サイトの被害が、とうとう一年にもはっきり降りてきた。
交流討論会の準備に関わる一年の女子生徒が、昼休みに保健室へ運ばれた。倒れたわけではない。泣いて、息が上手くできなくなっただけだと養護教諭は言った。けれど、泣いて息ができなくなるまで追い詰められたなら、それは十分に事件だった。
彼女の名前は水野。受付の名札管理を手伝っていた一年で、候補者ではない。比較サイトに直接名前が出たわけでもなかった。ただ、投稿のコメント欄に「一年の手伝いも露骨」「上に媚びてるだけ」と書かれ、そのスクリーンショットが学年グループに回った。誰か一人の悪意なら、まだ対応しやすい。これは違う。軽口の形で複数人が乗り、だれも主犯にならないまま一人を追い込むタイプの流れだった。
真白は保健室の前で、養護教諭に止められた。
「いまは一人にしてあげて」
「分かってます」
そう答えながらも、足が動かない。中で誰かが小さく咳をする音が聞こえた。たぶん水野だ。たぶん泣くのを止めようとしている。
その音だけで、真白の中の何かが先に決まっていく。
廊下の反対側には九条がいた。首から仮の運営証を下げ、合同運営の準備確認に来た体裁のまま、しかし明らかにこの件を聞きつけている顔だった。
「そちらにも来ましたか」
「似た件がありました」
九条は低く答えた。
「候補者ではない生徒に、周辺から負荷をかける」
「代表本人を潰すより、周辺を崩したほうが効くってこと?」
「そう判断しているのでしょう」
その分析が冷静で正しいほど、真白は苛立った。
「で、どうする」
「止めます」
九条は迷わない。
「水野さんに近づいているアカウント群を先に洗う。いま必要なのは同情ではなく、流れを断つことです」
「わたしもそう思ってる」
「でしょうね」
九条の言葉には、もはや驚きがなかった。真白がそこへ来ると知っている声音だった。
悠真は少し遅れて現れた。保健室の前に立つ真白と九条の顔を見て、それだけで状況のだいたいを飲み込んだらしい。
「中、入れない?」
「いまは無理」
真白が答えると、悠真は頷いた。
「じゃあ先に外を片づけよう」
その言い方は九条と似ているようで、少し違った。片づけるのは、敵ではなく外。人。空気。保健室の前に立ち止まって視線を置いていく生徒たち、聞こえよがしに「大丈夫かな」と言っていく善意、関わっていないふりでスマホだけ見ている目線。悠真はまず、その外側を見ていた。
真白と九条は比較サイトの流れを追った。水野に関するスクリーンショットが最初に出たのは別クラスのグループ。けれど、それが広がった経路には一つ癖があった。直接の悪口ではなく、「あれ、ちょっと可哀想じゃない?」という同情めいた言い回しで広がっている。心配の形を借りて、見に行かせているのだ。
「汚い」
真白が吐き捨てる。
「きれいな汚さですね」
九条が返す。
「最悪」
「同意します」
放課後、真白は保健室から出てきた水野を中庭脇のベンチまで送った。彼女は泣き腫らした目のまま、何度も「すみません」と言った。謝る必要なんてない、と真白は言いかけてやめた。その言葉は正しい。けれど、いまの水野にとっては、自分が迷惑をかけたという感覚のほうが現実だ。正しさだけを置いても足りない。
「水野、聞いて」
真白は真正面から言った。
「いま謝ると、向こうの思う順番になる」
彼女がゆっくり顔を上げる。
「泣いたことも、苦しかったことも、迷惑じゃない。迷惑なのは、そうなるまで放っといたこっち」
「でも……」
「でもじゃない。今日は帰って休んで。明日、来られなくてもいい。その代わり、辞めるとか、手を引くとか、そういうのは今日決めないで」
水野は唇を噛んで、小さく頷いた。
その夜、真白と九条はほとんど口論みたいな速度で対策を詰めた。コメント欄のスクリーンショット、回している中心アカウント、同情の体裁で拡散している文面、学校内でその言い回しを真似している生徒。やるべきことは多いのに、二人の会話は早かった。必要な説明を省いても、次の論点へ進める。それは頼もしかったし、同時に危うかった。
「直接、元の投稿を消させる?」
真白が聞く。
「それだけでは足りません」
「分かってる」
「同情のふりで回している流れも断つ」
「言い換えれば、善人の顔してる人たちも止める」
「そうです」
そこへ悠真が割って入った。
「善人の顔してる人たち、ってまとめると広すぎる」
いつの間にか通話に参加していたらしい。
「本当に心配してるだけの人もいる。そこを雑に切ると、水野がまた真ん中に置かれる」
真白は一瞬だけ黙った。言われてみればその通りだった。九条も否定しない。
「では、どう切り分けますか」
「水野本人に近づく人と、話題だけ広げる人を分ける」
悠真は言う。
「本人の近くには、まず学校側が立つ。話題だけ広げる人には、別の話題を置いて流れを切る」
次の日、三人はほとんど別々の場所で同じ目的のために動いた。真白は水野の周囲にいて、彼女が一人で悪意を受け止めないようにした。九条は中心アカウント群に近い線を辿り、証拠の保全と学校間の連絡を整えた。悠真は水野の学年の会話そのものをずらし、比較サイトの話題が「親切な心配」の形で回らないよう、別の用件を挟み続けた。
夕方、水野は小さな声で真白に言った。
「朝比奈先輩、どうしてそこまでしてくれるんですか」
真白は少し考えてから答えた。
「守りたいものが同じだから」
言ったあとで、自分でも驚いた。きれいな言葉だった。けれど、嘘ではない。
その少し後、合同運営の共有通話で九条がほとんど同じことを言った。会そのものを守る側の声音だった。
「守るべき線は共通しています。まず、場を壊させない」
真白は通話越しに顔をしかめた。嫌になるほど、同じ場所へ着いてしまう。
それを聞いていた悠真だけが、静かに息を吐いた。真白と九条が同じ正義を言葉にし始めたとき、二人は互いを必要としないほど強くなれる。だからこそ危ない。その予感だけが、彼の中で少しずつ形になっていた。
夜遅く、真白が水野へ送ったのは「休んでいい」「でも一人で決めないで」という二行だけだった。長い励ましは送らない。いま必要なのは、元気づけることより、明日の朝まで切れない糸を一本だけ残すことだと分かっていた。




