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第2章 第3話 利害の一致

 比較サイトの投稿が三日止まったあと、四日目の朝にまた動いた。


 今回は順位ではなかった。候補生徒の一人の、過去の発言の断片だった。去年の委員会で、提出期限を守らなかった同級生に向けて言った短い注意の言葉。それだけを切り取って、「人を追い詰めるタイプ」と雑な注釈がついている。元の文脈を知っていれば、そんな解釈にはならない。だが、元の文脈を知らない大半の人間には、その一行だけで十分だった。


 当の本人――二年の男子生徒、篠原は、昼休みにはもう代表辞退の意思を口にしていた。


「別に、ぼくじゃなくてもいいし」

 準備室でそう言った彼の声は、妙に平らだった。

「続けても、周りが気を遣うだけだろうし」


 実行委の一人が慌てて否定したが、その言葉は軽かった。大丈夫、気にしなくていいよ、そんなの冗談だって分かるから。どれも優しい。だからこそ、いまの篠原には届かない。彼は自分が面倒の中心にいるという事実だけをもう受け取っていて、そのうえに乗せる慰めを信じられなくなっている。


 真白は机の端に手をつき、しばらく篠原を見ていた。正面から止めれば反発する。慰めれば引く。なら、別の置き方がいる。


「辞退するかどうかを、いま決める必要はない」

 真白が言うと、篠原が顔を上げる。

「でも」

「比較サイトが今朝動いて、昼には辞退。きれいすぎるでしょ」

 準備室が少しだけ静かになる。

「相手が作った順番の上で、こっちが決める必要ない。決めるのは、少なくとも今日じゃない」

 篠原は返事をしなかった。けれど、机の上の提出用紙に伸びていた手が止まった。


 放課後、真白は九条と校舎裏の渡り廊下で落ち合った。連絡を取り合うようになってまだ数日しか経っていないのに、待ち合わせの文面はもう必要最小限で済んでいた。九条は合同運営の打ち合わせを一つ終えたばかりらしく、腕に薄いファイルを抱えている。校内にいるのに、見ている層だけが少し違う人間だった。

『篠原』

 真白がそう送ると、

『把握済みです』

 九条はそれだけ返してきた。


「腹立つ」

 顔を見るなり真白が言うと、九条は書類を持ったままわずかに眉を動かした。

「挨拶の精度が落ちていますね」

「そっちも把握済みとか言わないで」

「実際、把握しているので」

 そんなやり取りをしながらも、二人とも同じ方向を向いていた。投稿の出どころではなく、投稿のあとに誰がどう動いたか。篠原の過去発言を知っていそうな人間。彼が辞退しそうだと読める人間。今日の昼休みに、その噂がどの順番で広がったか。


 九条が手元のメモを開く。

「切り抜き自体は去年の学年委員会の記録からでしょう。内部共有の議事メモが元です」

「見られるの?」

「見られます。合同運営側の資料は進行確認のために各校の共有範囲と一部接続しています。その範囲内です」

 真白はすぐに人数を思い浮かべた。現役委員、元委員、担当教員、その周辺。思っていたより多い。

「絞れない」

「発言の内容だけでは」

「じゃあ何で絞るの」

「辞退させたい相手が篠原だった理由で」

 九条は迷いなく答えた。

「彼が辞退すれば、だれが得をするか」


 その瞬間、真白の頭の中でも同じ名前が浮いた。別の候補生徒。討論会では目立つが、比較に弱いタイプではない。篠原が抜ければ代表に近づく。しかし、その本人が黒だとは限らない。周囲が勝手に動いている可能性のほうが高い。


「同じこと考えた?」

 真白が言う。

「ええ」

「気持ち悪」

「同感です」

 九条が平坦に返す。その温度が妙に噛み合って、真白はますます嫌な顔をした。


 一方で、悠真は校内の別の場所を見ていた。彼は比較サイトそのものより、篠原の周辺の空気を追っていた。誰が慰めるふりで距離を取り、誰が正義感で余計に追い詰め、誰が善意で「代わりに出てもいいよ」と言いかけるのか。その細い流れを見て、止められるものだけを先に止めていく。


「今日は篠原に代表の話をしないで」

 放課後、彼は実行委の友人にそう頼んだ。

「辞退するにしても続けるにしても、本人が自分で決めたって感覚を失うと、あとで戻れなくなる」

 頼み方はやわらかい。命令じゃない。けれど、相手が断りにくいだけの真剣さはある。悠真はそういう置き方がうまかった。


 夜、真白と九条は通話で情報を突き合わせた。会って話す必要もないくらい、確認事項が明確になっていた。元の議事メモを知っている人間の範囲。今日、篠原に近づいた者。昼の噂の回り方。二人は互いの報告の途中をほとんど補わずに、次の論点へ移った。


「その子、直接じゃない」

「ええ。周りが先に動いています」

「代表を取りたいっていうより」

「自分たちの学校側の空気を有利にしたい」

「だから篠原が邪魔」

「そうです」


 会話が短い。説明が要らない。そのことに真白自身が少しぞっとした。分かりやすい相性の良さは、ときどき危ない。相手の説明を待たなくていい関係は、考える前に前へ進めてしまう。


 翌朝、真白は篠原の机の前に立った。

「今日の放課後、もう一回だけ練習つきあって」

 篠原は戸惑った顔をする。

「辞退の話は、そのあとでいい」

「……なんでそこまで」

「まだ、あんたの順番じゃないから」

 言い切ると、篠原は少しだけ笑った。助かった、とは言わなかった。けれど、提出用紙を破かずに鞄へ戻した。


 その日の練習後、彼は小さな声で言った。

「朝比奈、さっきの言い方」

「何」

「助かった」

 それだけだった。


 真白は軽く手を振って受け流したが、教室の出入口に立っていた悠真だけが、複雑そうな顔をしていた。助かったという言葉そのものではない。その言葉が、真白の中の何を強めるのかを、彼だけがもう先に気にしていた。


 その日の午後、真白は去年の議事メモを保管していた共有フォルダへ当たりをつけた。閲覧権限の範囲、印刷履歴、担当教師の端末からの持ち出し記録。直接犯人を指せる証拠はない。けれど「どうやって辿り着いたか」を詰めるだけで、動ける人間の輪郭は少しずつ狭くなる。

「こんなの、普通は残ってると思わない」

 真白が言うと、九条は短く答えた。

「残っていると思わないから使うのです」

「ほんと嫌」

「そういう相手です」

 説明が足りないのに通じる。そのやりやすさが、やはり少し気持ち悪い。


 一方で悠真は、篠原の辞退が既定路線のように扱われ始めている空気を止めていた。二年の実行委に「今日は結論を聞かないで」と頼み、担任には「本人が人前で返事を迫られる場を作らないで」と伝え、篠原の友人には「励ますなら、続けろじゃなくて、まだ決めなくていいって言って」と置き方を変えた。派手なことは何もしていない。けれど、その小さな介入がなければ、篠原は夕方までに本当に辞退届を書いていたかもしれなかった。


 夜の通話の最後、九条が珍しく少しだけ間を置いた。

「あなたは、人を引き返させる言い方が上手い」

 真白は眉をひそめる。

「褒めてる?」

「事実を言っています」

「それ、今ほしい感想じゃない」

「ですが必要な感想です」

 真白は通話を切ったあと、ため息をついた。

 助けるために言った言葉が、また別の方法の中へ回収されていく感じがした。

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