第五章 絶対計算と人間の業
沈提督の『極限の合理』
中国南部、海南島。アジア最大の地下原子力潜水艦基地、楡林海軍基地。
岩盤をくり抜いて作られた巨大な軍事要塞の最深部で、沈威提督は、暗号通信用モニターの前に静かに座っていた。
画面の向こうには、北京の地下シェルターに逃げ込んだ中国共産党の最高指導部たちの顔が並んでいる。彼らの顔は一様に青ざめ、そして怒りに歪んでいた。
『——沈中将! 貴様の無能な指揮のせいで、我が国の主力空母打撃群は壊滅し、東京の特殊部隊も全滅した! 太平洋の封鎖線は完全に崩壊したのだぞ!』
『もはや日米との全面戦争を継続する余力はない! 貴様は直ちに北京へ帰還し、軍法会議に出頭せよ! すべての責任を負うのだ!』
それは事実上の「死刑宣告」であり、国家首脳部による醜いトカゲの尻尾切りだった。
「……了解いたしました。すべては、私の計算の甘さが招いた結果です」
沈は、表情一つ変えずに深く頭を下げた。
そのあまりにもあっさりとした従順さに、画面の向こうの党幹部たちが一瞬拍子抜けしたような顔をする。
「しかし、同志諸君。一つだけ、私から『論理的な忠告』をさせていただきます」
沈は、ゆっくりと顔を上げ、氷のように冷たい視線をカメラへ向けた。
「このまま停戦協定を結べば、我が国は敗戦国として国際社会から完全に孤立します。経済制裁によって人民は飢え、国内で暴動が起き、共産党体制は数十年かけて緩やかに崩壊していくでしょう。……それは、国家の『死』を意味します」
『貴様、自分の失態を棚に上げて何を……!』
「私は、感情論を語っているのではない。アルゴリズム(計算結果)を述べているのです」
沈の声には、怒りも、絶望も、狂気もなかった。
ただ、数学者が数式を解き明かすような、純度百パーセントの『極限の合理性』だけがそこにあった。
「現在の盤面において、我が国が生存するための最適解は一つしか残されていません。……それは、日米両国の首に『絶対に外せない爆弾』を括り付け、強制的に“勝者なき引き分け(現状維持)”を飲ませることです」
『……な、何を言っている?』
「——通信、切断しろ」
沈が低く命じると、背後に控えていた彼直属の忠実な情報将校が、北京との暗号回線を物理的に遮断した。モニターがプツリと暗転する。
「……提督。これで我々は、祖国からも見放された反逆者です」
情報将校が、わずかに声を震わせて言った。
「構わん。腐り切った老害どもの保身に付き合って、国を滅ぼすわけにはいかない」
沈は立ち上がり、軍服のシワを払いながら、要塞の奥へと歩き出した。
「私は発狂したわけでも、個人的な復讐に燃えているわけでもない。ただ、国家を存続させるための『最悪だが最も確実な一手』を打つだけだ。……行くぞ」
* * *
沈が向かった先は、地下ドックの最奥部。
そこには、黒光りする巨大な流線型の鉄のクジラ——中国海軍の最新鋭・晋級戦略原子力潜水艦『長征18号』が停泊していた。
その背中には、アメリカ本土をも射程に収める潜水艦発射弾道ミサイル(SLBM)『巨浪3型』が12基、静かに眠っている。一つの弾頭で数百万人の命を消し飛ばす、人類最悪の最終兵器だ。
「……沈中将。出港命令は出ておりませんが」
タラップの前に立っていた原潜の艦長が、訝しげに敬礼する。
「命令は今出た」
沈は、懐から一丁の拳銃を抜き、ためらいなく艦長の眉間を撃ち抜いた。
タァンッ!
銃声が地下ドックに木霊する。倒れ込む艦長。周囲の乗組員たちがパニックに陥りかけるが、沈の背後に付き従っていた完全武装の親衛隊(特殊部隊)が、一斉にアサルトライフルを構えて彼らを制圧した。
「抵抗するな。私は、お前たちと祖国を救うために来た」
沈は、硝煙の上がる拳銃を収め、震える副艦長を冷徹に見下ろした。
「私には、軍の中枢システムをハッキングし、核ミサイルの発射コードを強制的に書き換える権限と技術がある。……この艦は今より、私の直接指揮下に入る。直ちに出港準備を行え。目標、太平洋・マリアナ海溝」
超法規的な武力行使と、圧倒的な知能によるシステムの掌握。
沈提督は、超人的な武力や魔法を使ったわけではない。彼の持つ最大の武器である『冷酷な決断力』と『情報技術』によって、世界で最も危険な弾薬庫の鍵を、完璧に強奪したのだ。
数時間後。
戦略原潜『長征18号』は、誰にも気付かれることなく海南島の地下ドックを抜け出し、深く冷たい太平洋の暗黒世界へと姿を消した。
* * *
そして、その数日後。
EMPの被害から一部復旧しつつあった、アメリカ・ホワイトハウスの地下シチュエーションルームと、日本の総理官邸・危機管理センターに、一本の『暗号化されていない音声ファイル』が届けられた。
発信源は、太平洋の深海。
音声の主は、死んだと思われていた中国の天才、沈威であった。
『——日米両政府の首脳に告ぐ。私は中国人民解放軍・海軍中将、沈威。現在、核弾頭搭載の戦略原子力潜水艦の指揮権は、完全に私が掌握している』
スピーカーから流れる、一切の感情を排した機械のような声に、日米の首脳部は凍りついた。若林幸隆もまた、咥えていたタバコを灰皿に押し付け、鋭い目を細めた。
『私の要求は一つ。ただちに戦闘を停止し、開戦前の国境線を維持したまま、完全な『停戦協定』を結ぶこと。我が国への賠償請求や経済制裁は一切認めない』
「……狂人のテロリストめ! そんな脅迫に屈するはずがないだろう!」
アメリカの大統領補佐官が、通信機越しに怒鳴る。
『狂人ではない。私は極めて合理的な取引を提案している』
沈の声は、あくまで平坦だった。
『この要求が48時間以内に受け入れられない場合、あるいは本艦に対する攻撃の兆候が見られた場合。私は直ちに、東京、およびワシントンD.C.へ向けて、計12発の核ミサイルを発射する』
危機管理センターの空気が、絶望的な重さで沈み込んだ。
『これは報復でも、イデオロギーの衝突でもない。世界を最も安定化させるための『アルゴリズム』だ。……タイムリミットは、48時間後。賢明な判断を期待する』
通信が切れた。
世界最大の軍事力を持つアメリカも、首都を死守した日本も、深海という絶対的な密室に隠れた『一隻の潜水艦』によって、完全にチェックメイトをかけられた。
「……EMPで、対潜哨戒機も護衛艦のソナーも、ほとんど機能していないんだぞ。広い太平洋の底から、針の穴を通すように一隻の潜水艦を探し出すなど……不可能だ」
防衛省の官僚が、頭を抱えて座り込んだ。
圧倒的な絶望。
天才・沈提督が導き出した、人類に対する『極限の合理』。
だが。
その絶望のどん底で、東京の防衛本部(区民センター)に詰め込んでいた二人の若き天才——坂上鷹人と早乙女蘭の瞳だけは、決して光を失っていなかった。
「……探知機がないなら、作ればいいだけでしょ」
蘭が、ボロボロになった東京の地図の上に、氷砂糖を一つ、カチンと置いた。
「日本中の『泥臭い力』を全部繋ぎ合わせて、この海で一番デカい『探知網』を構築する。……天才の計算式のバグを見つけてやるよ」
最終章、開戦。
亡国の天才が仕掛けた絶対的破壊に対し、日本一億人の泥臭い知恵の逆襲が、いよいよ始まろうとしていた。




