EP 10
一杯のコーヒーと、父の背中
2027年9月末。臨時の補給港となった千葉県・木更津沖。
横須賀海軍基地がドローン攻撃で半壊したため、出雲艦隊は辛うじて機能しているこの民間の港へ入港していた。
岸壁に横付けされたヘリコプター搭載護衛艦『出雲』の姿は、惨憺たるものだった。
艦首には至近弾による巨大な破孔が開き、左舷側のキャットウォークは魚雷の衝撃波でひしゃげ、全体が赤錆と黒煙にまみれている。かつての美しい『灰色の城』の面影はなく、まるで地獄から這い出してきた幽霊船のようだった。
「……はぁ。やっと、地に足がついた」
タラップを降りてきた平上雪之丞1尉は、アスファルトの上に崩れ落ちた。
F-35Bのコクピットから降りた瞬間、蘭に施された『電気ショック』の後遺症が一気に襲いかかったのだ。全身の筋肉が鉛のように重く、指先は微かに震え続けている。
彼は震える手で、若林幹事長からの『特別配給』として全乗員に配られた、本物の缶ビール(サッポロ黒ラベル)を煽った。
「……くぅぅぅッ! ……生き返る。……閻魔大王、キャバクラの予約はキャンセルだ。俺はまだ、このクソみたいな現世で、サッポロビールを飲んでいたい……」
雪之丞は、ビルの合間に沈む夕日を見上げながら、涙ぐんだ。
生き残った。嘉手納で地上撃破された同僚たち、太平洋で轟沈したオーストラリア艦の乗員たち。彼らの命の犠牲の上に、今、自分がこのビールを飲めているという重い現実。
「……借金大王。そこで寝てると、クレーン車に轢かれるよ」
雪之丞の隣を、専用コンソール(の残骸)を抱えた早乙女蘭が通り過ぎた。
パーカーは汗と垢で真っ黒、目の下には黒々とした隈。過労で倒れる寸前のはずだが、その口には、若林から届いた最高級スイーツ『銀座・キルフェボンのタルト』が、ホールごと突っ込まれていた。
「……んぐ。……んまい。……糖分、最高。……おっちゃん、これ、五ホールじゃ足りない。五十ホール奢ってもらわないと、私の脳がサーバーダウンする」
「食い過ぎだ、三億円。……腹壊して戦えなくなったら、査定を下げるぞ」
タラップの上から、坂上真一将補が声をかけた。
彼もまた、ボロボロだった。制服は汚れ、無精髭は伸び放題。だが、その瞳には、最前線で地獄を潜り抜けた男だけが持つ、凶暴なまでの生命力が宿っていた。
岸壁の陰。自家用車(防弾仕様のセンチュリー)の横で、若林幸隆が一人、ピースを燻らせながら待っていた。
「……真一。よく生きて帰った。……同盟国の犠牲を前提とした、私の非情なトリアージ(切り捨て)を、許してくれとは言わん」
「……」
坂上は若林の前に立つと、静かに敬礼を捧げた。
「幹事長。……喧嘩の作法は、俺も裏社会で嫌というほど見てきた。……一億人の胃袋を守るために、数百人の命を切る。……あんたの背負った業の重さは、俺には測れん」
若林は苦笑し、懐から一本の缶コーヒーを取り出した。
それは、坂上がかつて広島の不良だった頃から愛飲していた、安っぽい甘ったるい微糖コーヒーだった。若林が自ら、動いている自動販売機を探して買ってきたものだ。
「……ほら。お前の大好物だ」
「……ありがとよ、ユキタカ」
坂上は缶を受け取り、プシュリと開けた。
一口すする。……甘い。泥水と塩飯しか口にしていなかった体に、チープな甘さが染み渡る。それは、彼が『カタギの人間』、いや、『父親』に戻れる、唯一の瞬間だった。
「若林。……恵たちは、無事か」
「ああ。奥さんは元銀行員の知恵を使って、地域経済(物々交換)のトップに君臨している。……鷹人も、金属バットで暴徒を撃退し、千姫を守り抜いた。……お前の家族は、お前以上にタフだ」
「……ハハッ。そうか。……なら、俺もまだ、死ねねえな」
坂上は、缶コーヒーを飲み干し、空き缶を若林に投げ返した。
「……さて。休戦協定は終わりだ。……若林。次はどうする」
若林の顔から、友人の色が消え、冷徹な政治家の顔に戻った。
「ジャック大将からの情報だ。中国は日本列島の完全封鎖(鳥籠作戦)に動き出した。太平洋側に機雷と無人潜水艇による『絶対封鎖線』を構築する気だ。……今回のような強行突破は、二度と通用せん」
「……なるほど。相手の土俵(ドローン戦)から、こちらの土俵(大艦巨砲主義の現代版)へ引きずり込むわけか」
「ああ。次の補給船団を送り届けるには、俺たちAUKUSと日本が束になって、中国海軍の主力艦隊と正面から殴り合い、太平洋の制海権を完全に取り戻すしかない。……艦隊決戦だ」
「……艦隊決戦。……上等じゃねえか」
坂上は、獰猛な笑みを浮かべ、再び修理が始まった『出雲』の巨体を見上げた。
ミサイル防衛の盾は尽きた。ドローンのハッキング(チート)も対策された。
ここから先は、国家の総力、船の性能、そして乗員の練度を掛け合わせた、真正面からの『殴り合い(消耗戦)』だ。
「若林。船を直せ。タマ(ミサイル)を詰めろ。蘭のサーバーを最新鋭にしろ。……そして、国民にはもっと飯を食わせろ。……準備が整ったら、俺たちが先陣を切って、太平洋の鳥籠をブチ壊してやる」
「……ああ。頼んだぞ、出雲艦隊司令。……日本国の運命は、お前の仁王の背中に、再び託された」
* * *
その夜。電気が復旧した坂上邸のリビング。
恵が配給の小麦粉で焼いた素朴なパンの匂いが、部屋を満たしていた。
「パパの……におい」
千姫が、パンを頬張りながら、ボソリと呟いた。
かつて坂上が帰宅した時にいつも舐めていた、コーヒーキャンディの匂い。
恵は、千姫の頭を優しく撫でながら、暗い窓の外を見つめた。
(……真一。電気がついたわ。千姫も、お腹いっぱい食べてる。……あなたが海の上で、他の誰かが流した血の上で……私たちは今、生きている)
「母さん。……俺、決めたよ」
金属バットを壁に立てかけ、東大の教科書を開いていた鷹人が、恵を真っ直ぐに見つめた。
「親父が帰ってくる場所は、俺が死守する。……母さんのコミュニティ経済圏を、もっと強固なシステムにするんだ。円が死んだなら、俺が東大生らしい知略で、新しい経済を作って、この街を守り抜く」
「……ええ。頼んだわよ、四番打者」
前線では、父親が。銃後では、息子と妻が。
それぞれの戦場で、それぞれの武器を持って、絶望に抗い続ける。
臨時の港の岸壁。
修理が始まった『出雲』を見上げる、坂上真一の背中。
制服の隙間から覗く、仁王像の刺青。
それは、日本という国の、決して折れることのない『怒り』と『意地』そのものだった。
来るべき『太平洋の大決戦(第三章)』へ向けて、仁王の背中は、夕日に照らされて、静かに、しかし熱く疼いていた——。
【第二章 Phase 2〜兵糧攻めと多正面作戦】 完




