じゅうに
頭が痛い。
主に側頭部が。
舞踏会に出ていたはずなのに、気が付くと私は控室で眠っていた。
そして戸惑いながら起き上がった私は、すぐそばにいたらしいヴァルターに問答無用で頭を鷲掴みにされた次第である。
ご自慢かどうかは知らないが、ヴァルターの長い指がこめかみに上手いこと食い込んで、なんならちょっと持ち上げられている感覚もあるし、骨がきしむ音もするような気がする。
となればさぞかしヴァルターは恐ろしい形相をしているに違いないと思われるだろうが、これが満面の笑顔なのだ。
逆に怖い。
本気で命の危機を感じる。
「も、もうしわけありませんでした……」
などととっさに謝ったものの、なぜ自分がここにいるのか、ヴァルターに頭を鷲掴みにされているのか、よくわからなかった。
ルーデルハイトに手を引かれて、ダンスを踊り始めたあたりまでなら覚えているのだが、その後の記憶は水をすくうように上手く思い出せない。
なにやら頭がふわふわして、いつもならこれをやっちゃまずいだろうという脳内検閲が全く仕事をしていなかった、ような……。
いや、だいぶまずくないかそれ?
もしかしなくとも、やらかした?
「へぇ、覚えているんだな」
ヴァルターはにたぁと嫌な笑い方をして、私の頭を鷲掴む力を強くした。
「いだだだだだ!何も覚えてないです!ぎゃー!頭、頭が砕ける!」
彼の手を掴んでじたばた暴れると、案外あっさり解放される。
こ、こめかみに穴が空くかと思った……。
遠巻きに私たちを見ているフェルは困ったように眉尻を下げ、ハイデマリーは顔を覆って小刻みに肩を震わせている。たぶん笑っているのだろう。
思ったよりも深刻な雰囲気ではないので少しだけ安心しながら、私は鈍く痛むこめかみをさすった。
恐る恐るヴァルターの顔色をうかがうと、意外なことに彼は怒っていなかった。どちらかというと、ちょっと安心したようなほっとしたような表情をしている。
拍子抜けしたような気持になって私がポカンと口を開けると、待ってましたとばかりにヴァルターの眉間にクワッとしわが寄り、見慣れた険しいものになった。
なんだったんだ今の。
「どこまで覚えている」
「どこまでって……」
最初に思い出したのは、香水と食べ物、そして汗の匂いが混ざり合ったホールの空気だった。
ルーデルハイトの茶色い髪がステップに合わせて揺れていて、彼ら兄弟のちょっと複雑な話を聞いて、そういえばルディと呼んでいいと言われたんだっけ。
それでちょっと考えごとをしていたらつま先が彼の足に引っかかってこけそうになって……その後の記憶はあいまいである。
自分でも自分がコントロールできない状態にあったような気はする。
というようなことを素直に告げると、ヴァルターは難しい顔で黙り込んでしまった。
代わりにフェルがのんびりとはたから見た私の様子を教えてくれた。
なんでも急に大声が聞こえてきて、はじめはルディに対して私が怒っているように見えたという。
しかしどう見ても、私の状態が尋常ではないので、慌ててヴァルターが駆け付け、まるで酩酊状態にでもなったかのように支離滅裂な振る舞いをする私を落ち着かせようとした。
「でも全然ダメで、僕の魔法で強制的に眠らせることにしたんだ」
「重ね重ね申し訳ありませんでした……」
あと秘密とか言っていたわりに、さらっとフェルの魔法が眠りの魔法だとわかってびっくりである。
「僕の魔法は眠りの言葉を理解できないと使えないから、正直通じるか不安だったけどいちおう言葉は理解できていたみたいだったから」
「それって私が野生動物みたく暴れていたってことでしょうか……」
「暴走した馬みたいだったわよ」
「そ、そんなぁ。というかハイデマリー様、さっきからずっと笑ってません?」
「笑ってないわよ」
言った側からハイデマリーは肩を震わせる。
なぜだ……。
「正直凄く、それはもう凄く聞きづらいのですが、自分のしたことなので聞きますね。私はいったい何をしてしまったんでしょうか……?」
フェルとハイデマリーは顔を見合わせ、何も言わなくなってしまったヴァルターに代わって答える。
「私はメリナです!と誰も聞いてないのに大声で喚いていたかな」
「うわー!?」
「誰かさんの眉間を突きまわして、キスもしてたわね」
「ぎゃー!?あ、え、だからヴァルター様のおでこ、赤いんですか!?」
ずっと額の一部が赤いから不思議に思っていたのだ。
これ、私の口紅か!
「早く言わんかー!」
私が羞恥に震えながら納得していると、額に口紅がついたままだったことを知ったヴァルターは真っ赤になって額をこすった。
それはもう煙が出るのではないかというほどに激しいこすり方だった。
そんなに嫌だったのだろうか……。
「そこまで怒らなくても」
「怒ってるんじゃなくて、照れてるんだね。殿下は初心だから」
「違う!」
いまだ赤い顔をしたヴァルターがフェルの胸倉をつかみ、その様子を指差してハイデマリーはお腹を抱えてひぃひぃ言っている。
私がとんでもない失敗をしたというのに、意外と三人とも明るいので一人だけ取り残されたような気持ちになってしまった。
「クソッ、話を進めるぞ」
口紅と汗を拭いて、ヴァルターは気を取り直すように一つ咳ばらいをする。
「お前の奇行はひとまず、養父であるゴルトベルク公爵が酒を無理に進めたが、酒に慣れていなかったために具合が悪くなったからだ、ということにしてある。今頃、公爵自身がそう広めて謝ってくれているはずだ」
自分の知らない所で、偉い人が頭を下げている事実にちょっと呼吸が浅くなる。
ごめんなさい、ゴルトベルク公爵様……!ちゃんとお話したことないですけど!
「でも私、お酒なんて一滴も飲んでませんよ」
「もちろん俺たちも唐突にリアがおかしくなったなどとは思っていない。お前はおそらく精神に干渉する魔法をかけられたんだ。精神を不安定にさせるものか、自白剤のような効果を持つ魔法だろう。この手の魔法は普通の状態なら簡単にはかからない。だが裏を返せば普通じゃない状態、何か強い不安を抱えている時、悩みがある時ほど強くかかってしまう」
その瞬間、脳裏に一つのイメージが蘇った。
「あの目だ」
「目?」
「はい。こけそうになった時、目があったんです。黒い目でした。それから訳が分からなくなって」
「黒い目、か」
低い声でフェルとぼそぼそと一言二言交わして、ヴァルターはそれでと私に向き直った。
「何を悩んでいた」
「はい?」
「言っただろう。何か強い不安や悩みがあるほど、この手の魔法はよくかかる。対抗手段があるすれば、魔法が付け入る隙をなくすしかない。リア、何を悩んでいる」
ということはあの時の私には魔法が付け入る隙があったということ。
確かにあの時、私は悩んでいた。
目の前のヴァルターに不信感を抱いていた。
現役の聖女であるリリー様のこと。
聖女について、何か重要なことを私に隠しているであろうこと。
それらを打ち明けてしまっていいのだろうか。
しょせんメリナの、聖女の代理品でしかない私に、この人はちゃんと向き合ってくれるのだろうか。
……わからない。
わからないから、言ってみるしかない。
黙っていても何も伝わらないし、また魔法にかかって迷惑をかけるのは勘弁だ。
それにメリナのためにも私は聖女についてちゃんと知らなければならない。
意を決し、私は重たい唇を開く。
百合の塔は、まるで百合の花をさかさまにして地面に置いたような形をしているからそう呼ばれている。見た目も白いので、なおのこと巨大な百合の花のように見える。
聖女が女神へ祈りをささげる場所であり、生活のほとんどをする場所でもある。
王都の東、巨大な六角形をした神殿の中央にそびえるその塔について私が知っているのはそれくらいである。
あとはその塔の前で、私たちを歓迎するように両手を広げているおじさんが神官長というもの凄く偉い人だということくらいだろうか。
「おお、聖女様!最近王宮の方ばかりで顔を見せてくださらないから、みな寂しがっていましたよ!」
「ごめんなさい、神官長様」
神官長はやせぎすで王宮の侍女みたいに色の白いおじさんだった。
柔和そうに見えるのだが、見た目ほどいい人間ではないとハイデマリーからは忠告されている。
彼女は祖母である現聖女のリリー様に会いに度々百合の塔を訪れているので、神官長ともそれなりに交流する機会があったのだという。
「今日はリリー様との面会を望まれているとお聞きしましたが……」
神官長は私の隣に立つヴァルターを見て、一瞬顔をしかめた。
「ハインリヒ様も百合の塔へお入りになるわけではないですよね?」
「入ってはいけない道理はないかと思うが」
「ええ、そうですね。ですが私がこういう理由もあなたが一番よくわかってくださるかと」
静かなにらみ合いが数秒続いた。
その緊迫した空気を破ったのは、ヴァルターの方だった。
彼はフッと鼻で笑って、罪人のように両手を体の前に差し出した。
「心配なら手かせでもつけるといい。この手袋が決して外れないように」
ヴァルター自身からここに来る前に、自分は神殿と折り合いが悪いと聞いていた。
これは折り合いが悪いというより、険悪、と言うべきではないのだろうか。
冷や冷やしながら、私は二人の間をとりなすようにメリナらしく小首をかしげてみせた。
「今日はリリー様に私の婚約を報告するためにも面会を申し出たのです。ですからどうか、ヴァルター様も一緒に通してくださいませんか?」
「……ええ、次期聖女様のお願いとあらば。それに何かあれば、メリナ様がリリー様を守ってくださるでしょう」
思わず、え、私ですか!?という言葉が喉元まで出てきたが、飲み込んで曖昧にほほ笑んでおいた。
残念ながら私はメリナではないので、できることと言えば風を吹かせて神官長の長いスカートみたいな神官服をわずかに捲れさせることくらいだろう。誰も得しないことは明らかだが。
そうして、ついに私は現聖女であるリリー様と対面することとなった。
結論から言うと、リリー様とは会えた。
けれど言葉を交わすことはできなかった。
「夢を見ているらしい」
百合の塔の中。
らせん状の階段を上った先にある聖女の部屋は、部屋というよりも巨大な鳥の巣のようだった。たくさんのシーツ、クッションが積み重なり、部屋一つがまるまる大きな寝床になっているのだ。
真っ白な空間の部屋の中には、ふよふよと大小さまざまな水が美しい球体で浮いており、ゆっくりゆっくり回転している。奏者もいないのにハープが一人でに子守唄を奏で、風の魔法も使われているのかそよそよと心地の良い風が室内に吹いていた。
そしてその中心に、一人の老女が埋もれるように丸まって眠っていた。
「この塔に聖女が入ることで、結界の強度が増すようになっている。聖女は要石のようなもの。そして百合の塔はその聖女が入ることで完成する一つの装置なんだ」
「つまり聖女は一度この塔に入ったら出られないということですか」
「何不自由ない暮らしでも、外界との接続を絶たれた歴代の聖女たちはほとんどが心を病んだ。リリー様は比較的耐えられた方だ。ここで聖女として祈りを捧げ、ゴルトベルク公爵を産み、家族のためにと耐え続けた。だが十数年前から子供のような態度をとるようになり、次第に眠って過ごすことが増えた。夢の中ならば、自由に世界を歩ける。そう言い残して、もう二年は眠り続けている」
「少しでもここから出ることはできないんですか?」
リリー様は実際の年齢よりもずっと老けて見えた。
けれど眠るその横顔は、確かにハイデマリーと似ている。
「神殿が許すわけがない。この国を守る聖女を盾にして権力を得ている連中だぞ。みすみす金の卵を外に出して割るようなことはしない。その代わり、聖女になる前までは寛容であるらしいがな」
「……メリナはこのことを知っていたんですか」
「もちろん。だから逃げたんだろう。大勢の命を見捨てでも、自由を選んだんだ」
淡々とした口調だが、だからこそ強い非難に聞こえた。
「そんな言い方ってないと思います!」
「では他に何と言えと?」
「それは……」
二の句がつけず、私はうつむいた。
私だけはメリナの味方でいようと、いや、味方であるべきだと思って、考えないようにしていた事柄をずばっと言われてしまった。
でもこのまま黙り込むのだけは、ダメだと馬鹿な私にもわかる。
「せめて皆知るべきです。誰か一人を犠牲にして得た平和なのに、それを私たちは知らずに……。私、呑気にメリナは聖女になって、きっと私たち平民なんかよりもずっと贅沢でいい暮らしをするんだろうって思ってました。立派な役目を持って、魔法にも祝福されて、文句なしに幸せになるんだろうって。聖女が家族と暮らすことも、外に出ることすらできないなんて、知らなかったから」
「知ったところで何ができる。聖女を崇める過激派が聖女解放運動などと馬鹿なことを始めて神殿と抗争になることが目に見えている」
「じゃあヴァルター様はこのままでいいと言うんですか!」
ヴァルターは答えず、ふよふよと空中を漂う銀色の球体を突いた。
水の球はふるふると怯えるように表面を波立たせ、ヴァルターから離れていく。
「メリナが誰に匿われているのか、予想はついているんだ」
「え?……えぇ!?じゃあなんでメリナを迎えに行かないんですか!」
思わず肩を掴んで揺さぶる。
なんでそんな大事な情報を黙ってたの!?
「誰が匿っているのか予想できているだけで、どこにいるかはまだわからないし、予想が間違っている可能性もある」
私にされるがままゆすぶられながら、ヴァルターは平然とした顔で続ける。もちろん私が揺らしていたので、だいぶ聞き取りづらかったが、たぶんそんな感じのことを言った。たぶん。
そして一言こう言った。
「俺自身も今すぐにメリナを連れ戻すのが正しいことなのか悩んでいるのかもしれない」
驚いて私は揺らす手を止めた。
だってヴァルターは迷ったりしない人だと思っていたのだ。
「望まない大役を押し付けられ、実感も湧かない国民という大勢のために自分の命を捧げることが自分のあずかり知らない所で決められることがどんな苦痛なのかわからないわけではない。だからといって逃がしてやるわけにもいかない。ならばせめて逃避の時間を少しでも長くしてやるのが慈悲なのか、ただの自己満足なのか」
私に話しかけているというよりは、ひとり言というふうだった。
ハープがぽろぽろと優しい音を奏で、眠りを誘う。
ここはどこよりも清潔で、心地よい、孤独な監獄だ。
私たちは答えを探して、ただただ静かに眠り続ける聖女という装置を見つめ続けた。
百合の塔を後にした私たちは言葉少なに帰路についた。
私は聖女の運命や、ヴァルターの迷いについて思いをはせ、答えの見えない霧の中をさまよう。
けれど薄情なもので、怒ることができなかった。
私はメリナのために真剣にもっと怒るべきなのだろうと思う。だって私たちは双子だったから。
でもきっと離れている時間が長すぎたのだろう。
双子の姉が一度塔に入ったら出られない運命だというのに、それは遠い誰かの話のようだった。かわいそうとは思うけれど、自分のことのように怒れない。
それよりも目の前の人が見せた迷いの方が、心に刺さる。
私はこの短い期間で、ヴァルターが本当は優しい人だと知ってしまったから。
「ずっと考えていたんです。あなたが何を隠しているのか」
「もう隠し事はない」
「聖女についてならば、ですよね。ヴァルター様はまだ私に隠し事をしている」
私は彼の手袋を嵌めた手を指差した。
ヴァルターは決して手袋を外さない。
そして右利きなのに、握手をしたり、手を貸したりするときは必ず左手を差し出す。一度だけ右手で握手したときに感じた震えは、彼の秘密に起因する震えだったのだと今ならわかる。
そして神官長とのやり取り。
この手袋が決して外れないように。
俺は呪われ王子だからという自嘲する言葉。
ここまで揃っていればいくらなんでも、彼の右手になにか秘密があり、手袋を外すことができないのだということくらいわかる。
ヴァルターは否定も肯定もせずに、まっすぐに緑の瞳で私を見つめた。
「知らない方がいい。と言っても納得はしないだろう」
やっぱり教えてくれる気はないか。
少しだけ落胆したけれど、ショックではなかった。まぁそういうだろうなって、短い付き合いの中でもわかっていたからだ。
私は深く息を吸って、ピンと頭のてっぺんまで背筋を伸ばして答えた。
偽物聖女としてではなく、ただのリアとして。
「確かに納得はできないです。だから、信じます」
まさにポカンという擬音がふさわしかった。
呆気にとられたのか深く刻まれた眉間のしわもなくなって、なんだか幼く見える。
こんな表情、きっと他の人は知らないんだろうなと思うと気分がよくなって、ついつい笑みがこぼれた。
「本当は知りたいけれど、あなたは今日ちゃんと本当のことを教えてくれたから、いつか教えてくれると信じることにします。だから今は知らない方がいいという言葉を信じるし、知らないからと不安にもなりません。知る必要が来れば、ちゃんと教えてくれるってわかったから」
「なんだそりゃ」
「おかしいですか?」
ヴァルターは決して善良な人ではない。
すぐに怒るし、意地悪なことも言うし、平気で嘘もついて、人を騙そうとする。
言いたくないことは言わないし、隠している事すら隠そうとする。
でも悪人じゃない。
ちょっと悪い人かもしれないけど、悪人じゃない。
だからひとまずはこの人を信じようと思う。
メリナにとって何がいいのか迷ってくれる人と一緒に、偽物を務める以外に私がメリナのためにできることを探したい。
ヴァルターはおかしいかという私の問いに、緩く首を振る。
「……いや」
そしてぐったりと脱力して、座席に体を預けた。
「……いいや、全然」
その緑の瞳はほんのり青くて、凄くほっとしたような、ちょっと情けないような、でも少しだけ嬉しそうな色をしていたので、私は何もしていないのになんだか満足してしまったのであった。




