じゅうさん
夜の森を私は駆けていた。
踏みしめた梢がパキパキと折れる音、肺がひっくり返りそうになりながら繰り返される喘鳴、それを包む異様なまでの静けさ。
背後から何かがひたひたと追いかけてくる気配がある。生臭い、冷たい匂いがしていて、ひと呼吸するたびに冷や汗が噴き出た。
「なんで、こんな目に……!」
女神様よ、私が一体何をしたというのですか!
などと嘆きを口にしてみたが、よくよく考えなくとも聖女の振りをしている時点でいつ天罰が下ってもおかしくはない。
いやでもこの状況は不当だと思う!
私は私利私欲で偽物聖女になったわけじゃないし、私がこんな目にあって当然ならばヴァルターとかどうなるのだ。辺鄙な森の奥に飛ばされて、魔物に追いかけられる以上に恐ろしいことがあるだろうか。
そう、現在、私はとんだピンチのただなかにあった。
絶体絶命、崖っぷち、命の瀬戸際、剣が峰。
気が付いたら虎穴に迷い込んで、帰り道もわからない。
ただただ逃げ回って、哀れな獲物のように走り回り息を切らしている。
どうしてこんな目にあっているのか。
もつれそうになる脚を必死に動かしながら、一体何が悪かったのだろうと私は酸欠の頭で数時間前の出来事を思い出す。
百合の塔から戻り、私はヴァルターと二人だけでじっくりと話しあうこととなった。
メリナが誰に匿われているのか。
聖女の運命をメリナにそのまま負わせていいのか。
私の目的はメリナが幸せになること。
ヴァルターの目的は自身の世継ぎとしての評価に傷をつけないこと。
お互いの目的やメリットを改めてすり合わせて、一番納得のできる解決策を私たちは模索した。
私はなんとなく嫌だとか、もっといい方法がある気がする、というようなふわふわと要領の得ないことしか言えなかったが、ヴァルターは辛抱強く付き合って、理論立てて解決していこうとしてくれた。
彼は時には厳しいことを言って私を叱責したが、それは責めているというより、避けては通れない問題と向き合わせるためのものだったように思う。
カップの底に残った紅茶を親の仇のように睨みながら、ヴァルターはメリナの恋人はおそらくルーデルハイトだろうと言った。
「じゃあ、もしかして舞踏会で私に魔法をかけたのもルディ様?」
「おそらく。そしてお前に魔法をかけたのも舞踏会が初めてじゃない」
では一体どこで?
答えはすぐにわかった。
「中庭で具合が悪くなったのも?」
「あの時から変だとは思っていた。そこまで神経の細い女だったなら、ぶっつけ本番であそこまで立派にパレードを乗り切れるわけがない」
「あ、ありがとうございます」
「それだけ神経が図太いのに、ルディと対面した時に限って様子がおかしくなった。まだ二回だけだが、馬車のこともある。一番可能性は高いだろう」
褒められてちょっといい気分になったが、図太いは余計だったと思う。
確かにどちらかと言えば図太いほうですけども。
「馬車のことって?」
「馬車が消えた路地には、黒い煤のようなものがこびりついていた。俺の記憶が正しければ、ルディの魔法は炎だ。しかも並みの魔法使いじゃない。粗末な馬車なら塵も残さず燃やし尽くせるはずだ。馬車が忽然と消えた理由はこれでいちおう説明がつく」
メリナが乗ったと思われる黒い馬車が、路地で忽然と消えた。
そんな話もあったような気がする。
ここ三週間は自分のことで手一杯すぎてあまり覚えていないのだが、それを悟られると怒られそうだったので真面目な顔で頷いておいた。たぶんこういうところが図太いのだと思う。
「ルディがメリナを匿っているとして、問題はあいつが何をしたいのか、だ」
「え?恋人であるメリナを聖女の運命から解放してあげたいってわけじゃないんですか?」
ヴァルターは無言で片眉を器用に吊り上げた。
言葉では発していないが、態度からお前は馬鹿か?という声が聞こえる。
「それならあちらにとって、偽物の存在は好都合だ。本物はいなくてもいいんだからな。だが中庭でも舞踏会でもルディは魔法をかけてきた。それは偽物に馬脚をあらわさせてやろうというたくらみがあってのことだろう。となると、目的は俺の世継ぎとしての評判に傷をつけることにあると考えるのが自然だ。第一王子ハインリヒは長男というだけで世継ぎになった支持基盤の脆弱な王子にすぎないからな」
「自分のことをそこまで卑下しなくてもいいじゃないですか。ヴァルター様は去年までお勤めで外遊してらっしゃった立派な王子です」
「そんなこと誰でもできる。だいたい俺は神殿から嫌われているから、信仰心の厚い貴族共にも必然的に嫌われている。だからこそ女神の神威と護国の象徴である聖女が必要だった」
神殿がヴァルターを嫌う理由は、百合の塔でのことを鑑みて、彼の右手の秘密にあるのだろう。
「……ハインリヒ王子は呪われている」
そういえばこんな噂もあったなと思っていると、無意識に声に出していたらしい。
気が付いて、あ、やばいとヴァルターを見たが、特段怒った様子はなく、むしろ平然とした顔で彼は肯定するように首を傾けた。
その態度はいかにも言われ慣れているという感じで、少しだけ悲しくなる。
「自身の魔法を秘匿し続けている俺と、圧倒的な炎の魔法を使えるルディ。大声では言わないが、弟の方が王にふさわしいのではないか、などと考える奴は多い。そしてルディ自身もそう思っていたとしてもなんらおかしくはない」
淡々と事実のように語ってはいるが、ヴァルターの表情は渋いものだった。
「本当はそう思いたくないって顔をしてますけど」
「そんなわけないだろ」
少しむきになって言うあたり、たぶんそうなのだろう。
ヴァルターは顔に似合わず優しい人だから。
彼は自分でもむきになっていることに気が付いたのか、むっと黙り込み少し考えこんだのちこうも呟いた。
「だが少し腑に落ちないとも思う」
「というと?」
「弟は政治の話が苦手で、軍事のほうが性に合っていた。本人もそれは自覚していたし、俺も王になった暁には軍のことは任せるつもりでいたんだ。だからもし本当にルディが俺から世継ぎの座を奪おうとしているのなら、誰かに唆されたと考える方が納得いくような気もする。……いや、わからんな。知らないだけで本当は、あいつは俺を憎んでいるのかもしれない」
「……私はルディ様のことも、お二人の関係もよく知りません。でも、あの人はあの人でヴァルター様に嫌われているんだと言っていました。本当に憎んでいるならそんなこと私なんかに言わないと思うんです。……私も双子なのにメリナのことは何もわからないから、説得力なんてないんですけど」
「誰も自分以外の人間のことなんてわからないでいいと常々思っているんだが、今だけはお互いの真意がわかっていれば楽なのにな」
少し重たくなった空気を軽くするように、ヴァルターは笑った。
「当面の問題はルディの真意がどこにあるのかということ。精神魔法の使い手は誰なのかということ。ルディ本人は炎の魔法を使うし、いつも連れている子供……名前はなんだったか」
「カーヤちゃんですか?」
「カーヤか。あの子はまだ十歳になっていないはずだから違うな。王宮の中庭にも舞踏会にも紛れ込める人物か……。もしかしたらルディを唆している人物と同一人物の可能性もあるか。そうなると色々と面倒だな」
「じゃあ私たちは何をしたらいいんでしょう?」
「お前はどうしたい?」
私なんかの意見が求められるとは思っていなかったので、えっと大きな声が出た。
ついついヴァルターの考えに付き従えばいいと考えることを放棄していたことに気が付いて、少し恥ずかしくなる。
そうだよ、私もちゃんと考えなきゃ。
「私はルディ様が何を考えているのか知るよりも、ひとまずメリナと会いたいです。会って話して、どうしたいのか知りたい」
「確かにメリナの身柄を抑えれば、あちらが何を考えていようと有利には立てるか」
ヴァルターの考えはいささか物騒な印象なのだが、メリナを見つけるという点において意見は合致しているようだった。
すでに王家が持つすべての屋敷、ルディと交流を持つ貴族の屋敷へ探索の手を伸ばしているとヴァルターは教えてくれた。ただ探すべき屋敷の数と回せる人員が釣り合っていないために時間がかかるとも。
「何か手掛かりがあれば」
そう言って眉間のしわを揉むヴァルターに、私は何か自分にできることはないかと必死に考える。
「私がメリナの振りをしてみるのはどうですか?」
「もうすでにしてるだろ」
「えっと、そうじゃなくて、匿われている屋敷から見つかったというていでルディ様の前に現れるんです」
「かまをかけるわけか」
「そうです!」
細かい設定とかはたぶんヴァルターとかフェルが考えてくれるとして、私は見た目だけなら本物そっくりなのだからできないことはないはずだ。
「悪くはないな」
「本当ですか!」
役に立てたことが嬉しくて、思わず私は椅子から立ち上がった。
そして作戦に向けてやる気をみなぎらせたわけなのだが、残念ながらこの作戦は実行に移されることはなかった。
なぜなら、その晩、この国の平穏は魔物たちによって破られたからである。
というわけで長い回想終わり。
私とヴァルターが話し合っているだけの実に退屈だが、重要な回想だったことだろう。
安心して欲しい。
そこから先、なぜ私が深夜の森で魔物に追われているかという説明は手短に済ませるつもりだから。
夕食の時間をかなりすぎていたので、とりあえず何か食べようという話をしていた私たちのもとに、魔物が領土に侵入したという知らせが届いた。
西の外れ、結界に近い小さな町に、数匹の魔物が突然沸いたように現れた。
被害は不明。
数年前に魔物が入り込んだ時と同様、ヴァルターが兵を率いて向かうことになったのだが、なんと私もついていくことになったのだ。
公の理由は聖女の力を借りるということになっているが、私は偽物で使える魔法だってしょっぱいものだ。実際の理由は、ヴァルターもフェルもいない王宮にハイデマリーと二人で残ることのほうが危険だというものだった。
正直魔物がいるという西の町へ行くのは怖いし、嫌だったが、ヴァルターがきっと守ってくれると信じて、私は彼らとともに転移門をくぐった。
……わけなのだが。
端的に言うと、なぜか私だけはぐれた。
転移門はいくつもの魔法を複雑に掛け合わせて、瞬時に長距離の移動を可能とした門だ。
行き先は確かに結界の守護をする西の砦だったはずだ。
なのになぜか門をくぐった私が降り立ったのは、真っ暗な森の中だった。
しかも先に門をくぐったはずのヴァルターはいないし、後から誰か来る気配もない。
「ど、どういうこと!?」
などと声を荒げても誰も答えてくれないし、聞こえるのは木々のざわめきだけ。
「え、嘘……。まさか私だけ変なところに飛ばされた?いやいやそんな、まっさかぁ」
生まれたての小鹿みたく足を震わせ、私はとりあえず人影を探して周囲を歩いてみたのだが、人間どころか生き物の影すら見つからなかった。
「誰かー!誰かいませんかー!」
不安を消し飛ばすように大声で呼びかけながら私は森をさ迷い歩いた。
夜の森はひんやりと冷たく、まるで墓地のように静かだ。
どれくらい歩いたか、唐突に背後で枝の折れる音がした。
自分以外が発した音に期待をもって私は振り返った。
何故かはわからないけれど、ヴァルターだと思ったのだ。
けれどそこにいたのは、人間ですらなかった。
それは鹿ほどの大きさの生き物だった。
ただ鹿よりも狼に近く、がっしりとした体は赤黒い針のような太い毛におおわれていた。
ぎょろりと額に一つだけある目が私を見た。
「……もしかしてだけど、君、魔物?」
違うよね、ちょっと個性の強い狼だよね?
「ヴァアアアアアッ!」
「ぎゃー!」
狼なわけなかった。
どこからどう見ても魔物だった。
魔物が突進してきて、その鋭い爪で私を引き裂こうとした。
幸運にも木の根っこに引っかかった私は、そのままくだりになった斜面を転げ落ちることで爪を避けることができた。
そして私は暗い森のさらに奥へと迷いこむこととなった。
「もうやだぁー!こっち来ないでよぉ!」
十六にもなって泣きながら走る羽目になるなんて誰が予期できただろうか。
なんなら鼻水もちょっと出ていたかもしれない。涙と汗でぐしょぐしょだったから、もはや何なのかわからなくなっていたけれど。
ドレスの裾が何かに引っかかって、つんのめる。
「わぶっ!」
自分でも何と言ったのかはよくわからなかったが、とにかくこけた。
顔面に湿った木の葉の感触。
土の匂いは死の匂いがした。
一にもなく起き上がろうとしてついた手が滑って、私はまたもや地面に突っ伏してしまう。
顔を上げる。
魔物は楽しむように二又の尻尾を揺らしてこちらに歩み寄ってくる。
どうしよう、どうしよう、どうしよう!
額の巨大な一つ目がひたりと私を捉えている。
前足がぐっとたわんだ。
跳躍。
私の頭なんて一口で食べれそうな空洞が魔物の顔面に広がる。
月明かりに牙が光って、それが口なのだと理解する。
そして粘度の高い、赤い飛沫が、濡れた土と木の葉の上に飛び散り、不規則な模様を描いた。




