第1話「上司の灰原さんは、なんか」
新卒で入社した会社の上司、灰原さんは、
「——日暮さん」
海色に整えられたネイルの先が、手の甲をなぞる。
くすぐったくても動揺しても表情を変えないのは、単に顔に出にくい性格だからというのもあるが、デスクの上で乱れたくもないからだ。
仕事は仕事。そう、割り切りたいのに。
「少し、休んだらどう?」
やけに艶のあるリップが、視界の端で心配な声を漏らす。吐息感のせいか、脳の端で上品な甘さがチラつく。
——考えてはだめ。私。
社会人として、職場の人を色眼鏡で見るなんて。ましてや、普段お世話になっている上司。純粋な優しさに、不純な邪で返してはいけない。
「……お気遣い、感謝します」
無反応なのは良くないと、なんとか笑顔を浮かべるも、
「いいのよ。上司として、当然だもの」
髪を軽くかきあげただけで香る大人な色気が鼻腔をついて、表情筋すら機能しなくなってしまった。
なんか。
なんだろう。
「何かあれば、声かけてね」
肩に置かれたさり気ない温度も、去り際に鳴るヒールも、破けそうな薄さの黒タイツも、ふんわり広がるカールがかった長い茶髪も。
ツリ目の印象なのに、蕩けるような潤いを保った瞳も。
「なんか、えろ……」
いやいや。気のせい。
そんなことより仕事。ただでさえ新人で未熟なんだから、できる限りのことはしないと。
上司の灰原さんがエロいとか、考えてる場合じゃない。
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恋愛対象として見てるわけでも、欲求が溜まっているわけでもない。そもそも、同性に限らず恋だのなんだのはあまり興味がない。もちろん、他人の裸体にも。
だから、性欲を掻き立てられるというよりは、なんというか。
「あれ?日暮さん」
伸びてきた手が触れたのは、口元。
奪われたのは米粒ひとつだけではなく、視界も。
「ふふ」
一瞬だけ覗いた赤色に、吸い込まれた。
「意外と、抜けてるところもあるのね」
「す、すみません……」
にこにこと微笑む純白そうな相手に、私は何を。
——こんなにも、無垢な人なのに。
とにかく、灰原さんは性的な魅力が強い。それ以外に、表現できないほど。
なぜだか分からないけど、所作の全てがいやらしく映ってしまう。本人に、他意はないだろうに。
だからこそ申し訳なくて、目を合わせられない。なのに、目を離せない。矛盾した感情が、心の中でのたうち回っている。
「そういえば今日の歓迎会、日暮さんも参加する?」
「あ……はい」
「仕事とはいえ、一緒に飲めるの嬉しい。楽しみ」
相手は、混じり気のない様子で交流を心待ちにしてくれている。
ズキリと良心が痛んで、やらしい目で見るのは金輪際もうしないと心に誓った。灰原さん、本当にごめんなさい。
「私も、楽しみです」
絶対に、エロいとか考えない。
って、意気込んでいたはずなんだけど。
「——大丈夫ですか?灰原さん」
具合が悪いとトイレに行ったのを見かけたから、後を追ったら、
「大丈夫じゃない……かも」
弱々しい力がシャツの布を引っ張って、そのまま心ごと引きずり出されそうなのを、耐えて。
見上げてきた、大人びているのにどこか幼女のような可愛らしさを備えた表情にも、惹かれないよう歯を食いしばって。
「家まで、送ってくれる……?」
——家。
想像するのは、もつれこむ女ふたりの姿で。
普段は頼りがいがあって、大人の余裕を体現したような人が、大人としてはまだまだな自分を頼ってくれた喜びにも舞い上がりそうになって、諌めて。
「タクシー呼びます」
あと一歩のところで踏み留まり、その場を離れた。
脳内は灰原さんの甘えた声で満たされ、結果的には敗北。“そういう目で見ない”という固い決意も、無駄に終わった。
どうして、こうなっちゃうんだろう?
原因は分からないまま、その夜は車に乗り込む不満そうな灰原さんに深々と頭を下げて、別れを告げた。




