6 悪魔の子守唄
毒を経ちひと月ほどすると、解毒薬の効果もあったらしく、若いジョアナリーザの体は目に見えて回復してきていた。
「あれだけ弱くなっておられたジョアナさまの脈が、ほぼ正常な状態に戻られておりますぞ。奇跡が起きたとしか思えません!」
ジョアナリーザの部屋で、往診に来ていた主治医カーンが驚きの声をあげ、首を傾げてみせた。
ジョアナリーザはベッドの上ではなく、椅子に姿勢良く腰掛けて診察を受けている。
「ああ、なんというありがたい奇跡!! 神さまの御加護がありましたのね」
母レイナの目には嬉し涙が光る。
「良かった、ジョアナ!」
ロッドリー伯爵が両の腕を広げる。
温かい両親ふたりにギュっと抱きしめられ、ジョアナリーザはそれに応えるように腕をまわしながら、側に控える家令の悪魔に舌を出してみせた。
(神さまの御加護ですって。笑っちゃうわね。奇跡でもなんでもない、しかも悪魔の所業なのにね)
以前は重苦しい空気が立ち込めていたジョアナリーザの部屋は、今は温かい陽が差し込み、明るい雰囲気に包まれていた。
迎えに来たオルテに促され、カーンが退室すると、ロッドリー伯爵はシェイエーズに軽やかな足取りで歩み寄り両肩に手を置いた。
「ロエ……、いや、シェイ。改名させてしまい済まなかった。だが、感謝しているよ。おかげでジョアナがこれほど元気に。本当に夢のようだ」
そういえば、両親にはそんな作り話をしていたとジョアナリーザは冷静に思い出す。信じやすい両親で良かった。いや、それもどうか。
「旦那さま、私の名前ひとつでジョアナさまがお元気になられて、この上なき幸せ。この先も変わらずジョアナさまにお仕えいたす所存でございます」
シェイエーズが手を胸にあてた。
そういう契約である。
「それはありがたいことだが、ジョアナとそなたが望むなら、ジョアナの正式な婚約者として迎えても良いと思っている。私の跡を継いでもらうことも……」
父の言葉に、ジョアナリーザは即座に反応する。
「お、お父さま、まだ早いわ」
ロッドリー伯爵家を、領地を存続させるため誰かと結婚するという避けられない問題、わかっていてもジョアナリーザはまだ心の準備ができていない。
目の前の悪魔と婚約しなければならないという縛りはなかったはずだ。
「有り難きお言葉ですが、そのことは、まだ。もう少し領地経営、その他諸々、学ばせていただいてからと考えております」
シェイエーズからの返答は控えめだった。その意図はわからない。
「殊勝な心がけ、ありがたく思う。だがジョアナの体調が良くなってきた以上、年齢的に早めに結婚相手を探さねばならん。そなたも候補に入れてよいのだろうな?」
何も知らない父親の発言は、ジョアナリーザの心臓の鼓動をさらに大きく響かせる。
(結婚相手……。シェイはそのことはどう思っているのかしら)
チラリとシェイエーズを見やると、涼しげな視線が返される。
その心は読めない。人ではなく悪魔なのだから。
「旦那さま、ありがとうございます。候補の末席にでもお加えいただければ、幸いでございます。何卒、ジョアナさまのお心を優先に。まあ、まずは体調のせいで遅くなってはおりましたが、王宮での宮廷舞踏会でジョアナさまの社交界デビューはいかがでございますか?」
(宮廷舞踏会!? 社交界! ああ、ようやくあの噂に聞く煌びやかな場所へ行けるの!? シェイったら、契約を守ってくれようとしてるのよね?)
シェイエーズの提案に、ジョアナリーザの心は羽根のようにふわりと舞い上がる。
「確かにそうだな。それだ! そこで婚約者候補を探し、品定めをして参るとしよう」
その場の雰囲気が盛り上がって来た。
「ジョアナ、まずはダンスができなければ、壁の花どころか花瓶同然。注目を浴びて眩く輝くためにはダンスの練習が必要ですよ」
「はい。お母さま!」
浮かれながら返事をしてみたものの、母親の言葉にはたと気づく。自分は体調が思わしくなかったせいで、ほとんどダンスなど練習していなかった。舞踏会における礼儀や作法もあやふやだ。
「大丈夫ですよ、ジョアナ。このわたくしが直々に教えてさしあげましょう」
胸を張りながら一歩進み出た母は、侯爵家から嫁いで来たと聞いている。おそらくひと通りなんでもこなせるに違いないとジョナリーザは期待した。
「ありがとうございます、お母さま。よろしくお願いいたしますわ」
ジョアナリーザは嬉しさに、思わず母親に抱きついていった。
「そうと決まれば、ジョアナのドレスを新調せねばならんな。シェイ、王都から仕立て屋を呼びなさい。次回の王宮での舞踏会の日程を確認し、間に合わせるように予定を組んでくれ」
「かしこまりました。旦那さま」
「わああ! 嬉しい! お父さま、お母さま、シェイも本当にありがとう」
早くも四ヶ月後、第三皇女の十二歳の誕生日を祝う祝賀会が行われるとのことで、ジョアナリーザの社交界デビューは、その日に合わせることとなった。
かくして、ジョアナリーザの社交界デビューに向けた準備とダンスをはじめとする様々な作法の訓練が始まった。
四ヶ月しかないとのことで、いつもは天使のように優しい母である伯爵夫人だが、まるで悪魔が乗り移ったようだと、伯爵に言わしめるほど初日からとばしていた。
「ジョアナ、何度言ったらわかるのです! 頭を下げない! まずは体で三拍子のリズムを覚えるのです!」
特にワルツに関しては、父ロッドリー伯爵やシェイエーズを相手に何度も繰り返し練習させられ、クタクタになった。
病み上がりでもあるので、体力はまだそれほど戻ってはいない。
練習を始めて三日後、その夜、体が悲鳴をあげたジョアナリーザは、節々の痛みで疲れているのにも関わらず、ベッドに横になってもなかなか眠れない。
そのため、温めたミルクを部屋へ運んできたシェイエーズに、ジョアナリーザはおねだりをしてみる。
「疲れ過ぎて眠れないわ。シェイ、子守唄を歌ってくれないかしら?」
「は? なんですかそれは。悪魔に子守唄を歌わせるなど。悪魔が歌えば子守唄も鎮魂歌になりますゆえ、遠慮させていただきます。まあ、添い寝でしたらいつでもお気軽にお声掛けください」
悪魔らしい妖艶な笑みを浮かべる悪魔。一瞬その瞳が赤く染まったように見えたが、ジョアナリーザは気のせいにする。
「そ、そ、添い寝!? それは、嫁入り前だから、さすがに遠慮しておくわ。ところで、確認なんだけど、あなた体は人間なのよね」
「その通り。ただの人間の体を器として借りているのと同じです。ですからジョアナさまと共に普通に老いますし、あなたが望めば子種をあげることもできる。あなたは普通に人間の赤子を産めるのです」
「こ、こ、子種って、あなたと結婚しても、人間の後継ぎが普通に産めるってこと?」
ジョアナリーザは、ベッドから勢いよく体を起こした。
「そうなりますね。ご希望とあらば、今すぐにでも可能でございますが」
悪魔が受け皿に載せたミルク入りのカップをジョアナリーザに渡しながら、口元に美しい三日月のような笑みを作る。
「そ、そ、それはすぐじゃなくていいわ。もし、あなたと結婚することがあれば、……その時はお願いするから」
そう言いながら、ジョアナリーザの体が熱を持つ。
「では、その時までお子さまは、さっさとミルクを飲んでお休みください」
「ふぇ、そ、そうするわ」
程よく温められたミルクをグイッと飲み干すジョアナリーザ。
「おやすみなさい、シェイ」
カップを受け取ったシェイエーズは、少し屈むと持っていたナプキンでジョアナリーザの口元を優しく拭いた。
「おやすみなさいませ。口髭乙女のジョアナさま」
「やだっ、もう〜〜」
恥ずかしくなり、ジョアナリーザはパフっと横になる。
空になったカップを片付けるシェイエーズの背中をぼんやり眺めていたジョアナリーザだったが、その目はうとうとし始め、瞼の重みに耐えかねると深い眠りに落ちていった。
シェイエーズは、小さき虫の羽音くらい聞き取れぬほどの声で、口ずさんでいた。
それは遠い遠い昔の、曖昧な記憶から呼び起こされた歌。
子守唄なのか、鎮魂歌なのか、悪魔も誰もわからない。




