2 悪魔の暇つぶし
悪魔視点です。
シェイエーズには、自分が悪魔だという認識はなかったが、気がつけば、そう呼ばれていたのだから、きっとそうなのだろう。
誰につけられたのか、自分だけの名前もあった。
いつの頃か、シェイエーズはとても気になる魂を見つけた。薄暗い中、ぼんやり光るそれは、小さくて今にも消えそうな微かな光。少し濁りがあったけれどもしぶとく輝いていた。なぜこれほど気になるのか、わからない。ずっとその光を追い続けていたいと思った。
《あんなに小せぇんだから、さっさと乗っ取って食っちまえよ》
《ただ見てるだけなんて、おまえは変わりものだな》
周りの悪魔たちからはそんな言われかたをした。
けれども、食べてしまったらそれは一瞬の快楽だけで、取り込んだあとは自分の養分となり、永遠にそれを感じることができなくなる。
シェイエーズがそのように説いても、名前の無い刹那的な下級の悪魔たちにとっては、その意味はわからない、あるいは関心がない。
その小さき光よりも、その傍に寄り添うどす黒い塊のほうがよっぽど美味そうで食べごたえがありそうだと言う。
それ以上は話にならないので、いつものように、シェイエーズは境界でひとりになった。
人間界と魔界の境界。
そこからだと、人間界をよく観察できる。
魂を宿す生き物、宿さない物、さまざまな物体や自然に起こる現象。
そして人間界で起こる人間同士の関係。
興味もなく、延々とただ漠然と眺めているだけだったが……。
ここ十年ほど、シェイエーズは、先ほどの小さく光る魂を観察していた。人間の娘の魂だった。片や暗黒に近い濁りのある大きな塊は人間の若い男の魂。下級の同族たちがこぞって美味そうだと言う代物だが、シェイエーズにはそうは思えなかった。
いつも繰り返される光景のひとつを、境界でただ眺める。
娘は、近頃ほとんどいつも同じ部屋にいて、起きて書物を読んでいるか寝ながら書物を読んでいた。
たまに別の部屋に移動して、書物を交換してきては、また読むの繰り返しだった。
「ジョアナさま、お薬の時間です」
黒い闇の魂を持つ男が娘の部屋に運んできた手押しのカートの上には、水差しとグラスと紙に包まれたお薬と呼ばれるもの、それと焼き菓子と呼ばれる食べ物が乗っている。
「ロエル、もう薬の時間?」
「そうです。今日もお口直しに美味しい焼き菓子がありますから、薬は残さずお飲みください」
男に渡された紙に包まれた粉状のものを、ジョアナあるいはジョアナリーザと呼ばれる若い娘は眉をしかめながらグラスの水と共に飲み干した。そしてすかさず焼き菓子もほお張る。一瞬だけ魂の光がより強くなる。シェイエーズには、それがなぜなのかはわからなかった。
けれども、悪魔は、何度もその光景を見ているうちに、その焼き菓子という食べ物が実は魂の光を弱める根源だと知った。だが、どうにかするという感覚がなかった。
◆
シェイエーズは、暇さえあれば境界にいた。人間界での狩りをあまり好まない悪魔は、たいがいは暇なのである。
「……いっそのこと悪魔にでも祈ろうかしら」
そんなジョアナリーザの声は、悪魔を魅了する甘い誘惑だった。それは、悪魔に魂を売るのと同等のことだ。
ならば、自分が欲しい!
シェイエーズは、強い衝動を感じた。
その衝動は、境界の入口をこじ開ける。
ずっと気になっていた光を持つ娘の魂……。
他の悪魔になど渡すものか。
シェイエーズの意識が覚醒した。実体が無く、声を持たないシェイエーズには、娘の声に返す手段が無かった。
はずだった。
ところが、そこに手段を見つけた。
人間が文字を書く時に使うものが、娘のいる部屋の机の上に置いてある。
念じると、インク壺の蓋を開けることができた。
羽根ペンを持ち上げ、インク壺のインクをつけ、数百年ぶりかで文字を書く。
ーーワレヲヨンダカ? ワレト、トリヒキスルカ?
その古えの文字は、ジョアナリーザが夢中で好んで読んでいた、この世界の最古の大国の騎士物語が書かれてある書物に使われているものだった。
シェイエーズはそれを知っていた。
「悪魔なの? そこにいるの? 取り引きしてもいいわ。わたしの余命を延ばすことはできる? そのための対価は何?」
娘の魂は強い輝きを放っていた。かつてないほどの光にシェイエーズも打ち震えた。
対価。
どうせ暇を持て余しているのだから、この人間界で少し遊んでいくのも良いかもしれない。
ーーヨメイヲ、ノバス、デキル。タイカハ、タマシイ
羽根ペンを操り、また文字を綴る。
ああ、もどかしい。
早く直接この光の主と魂の交わりがしたい。
ふと、黒い闇を纏う男の、魂が抜けかけている姿に気がついた。これは好都合かもしれない。
ジョアナリーザのほうは、眩しいほどの光のヴェールが、彼女を包み込んでいた。これならば持ち堪えるだろう。
「まずはわたしの余命をおばあさんになるまで延ばすのよ。……わたしが死ぬまで、わたしだけに仕えること! そして、できる限りわたしの願いを叶えて。そうしたら、わたしが死んだあとの魂は悪魔の好きにしていいわ」
ーーショウチシタ
シェイエーズは待ちきれずに、半ば強引にロエルの魂を肉体から追い出しにかかる。
悪魔ども、見ているか?
この美味そうだと言っていた魂をくれてやる!
さあ、早く持っていけ!
悪魔にしか届かないロエルの断末魔。
大きな黒い塊のようなロエルの魂は、境界のゲートからすぐに集まってきた下等な悪魔たちの奪い合いになった。
食い散らかされ跡形もなく消滅しそうな間際、天の使いが僅かになった霞を大切そうに抱えていったのをシェイエーズは確認した。
ジョアナが死ぬまでのあいだ側にいて、暇つぶしをしていくことにしたシェイエーズは、ロエルの肉体との同化を始める。
記憶を巡る。
その生立ちは、兄弟一飛び抜けた美形ゆえに兄たちから酷く妬まれ、いじめられ、歪まされた性格。表向きは真面目で優秀な家令。ところが裏では金、女、闇取引。
(これは、これは、いかにも何処ぞの悪魔憑きかと思うほどだが、本来気が弱かったことが幸いして、人を殺めることだけはしなかったようだ。それで死の神が慈悲をかけたのか)
シェイエーズは、ロエルの記憶と経験をすべて取り込んだ。
ジョアナリーザのほうを見ると、空間のひずみに負けずに踏ん張っていて、微笑ましかった。
悪魔は、数百年ぶりに人間界に降り立った。
《アガレスさま、私は、……そうですね、たった数十年ほどですが、地上界で暇つぶしをしていきますゆえ、あなたさまの側を離れることをお許しください》
悪魔は彼の上位の悪魔に暫しの別れを告げた。
この目の前の小さな人間のおかげで、しばらくは退屈しのぎができそうだ。
「はじめまして、ジョアナリーザさま。悪魔のシェイエーズです」
ロエルの記憶と経験と肉体を引き継いだシェイエーズだが、あくまで自分は自分。
跪き、美しいと思われる笑みを作る。
惚けているジョアナリーザがなんとも可愛らしい。
この状況は、人間には不可解な現象だろうとロエルの脳でシェイエーズは分析する。
ジョアナリーザがふらついたので、素早く抱えあげる。
「ひゃあ〜」
ジョアナリーザの声は小鳥のさえずりのようにシェイエーズの心をくすぐった。
ジョアナリーザの体は柔らかく、羽根ペンにも劣らず軽かった。自然死に見せかけるために、ロエルに弱い毒入りの焼き菓子を長年食べさせられていたのだから無理もない。
これからは、毒を抜き、子猫のように丸々と健康的に太らせるつもりだ。
「ジョアナさまの足元がおぼつかなく、危のうございましたので失礼いたします。では、あなたさまの願いを何なりとお申し付けください」
シェイエーズがジョアナの耳元でそう囁くと、接している彼女の鼓動が早鐘のようによく響いた。それがとても心地よく感じた。
シェイエーズは、自分がジョアナリーザをこれからどうするかは決めていなかった。
美しいと思える光の魂を宿す娘。
シェイエーズは、欲深い人間に同化したことで、人間のあらゆる感情、欲望を瞬時にまた知ることとなった。
ロエルの言葉では娘を自分のものにする場合は、堕とすと言うらしい。なんとも悪魔らしい言葉だ。
暇つぶしなのだから、家令という役をこなすのもいいと思えた。
自分の腕の中で頬を染めながら小さくなって狼狽えている娘のぬくもりに、シェイエーズは体の中に火が灯るのを感じた。娘に仕えて甘やかし、その望みを叶えてやるのも悪くない。
娘の寿命が来たら、その時はもちろん魂をいただくが、その時にどうするかはまた考えればいい。




