猫登場
昼に近づいた光が、通りをゆっくりと満たしている。
朝のやわらかさはそのままに、
少しだけ温度が加わっていた。
ひだまり商店街の空気は、穏やかに流れている。
モチオは、その通りを歩いている。
足取りは変わらない。
急ぐこともなく、立ち止まりすぎることもない。
ただ、流れの中に身を置いている。
パン屋の前を通ると、
焼き上がったあとの、少し落ち着いた匂いが残っている。
花屋の前では、
ユズの声が遠くで弾けて、すぐに空気に溶けていく。
ミナの静かな動きも、変わらずそこにある。
それぞれの場所が、それぞれのままで存在している。
モチオは、そのあいだを歩く。
そのとき――
足元で、何かが動く。
小さな影。
するり、と通り抜けるような動き。
モチオは、ほんの少しだけ立ち止まる。
視線を落とす。
そこに、一匹の猫がいた。
灰色の毛並み。
ところどころに、やわらかな白が混ざっている。
体は細く、しなやか。
尻尾が、ゆっくりと揺れている。
猫は、モチオを見上げる。
大きな動きはない。
ただ、静かにそこにいる。
モチオは、そのまま動かない。
猫も、動かない。
しばらく、同じ時間が流れる。
音は、ほとんどない。
遠くの気配だけが、かすかに続いている。
モチオは、ゆっくりとしゃがむ。
急な動きはしない。
そっと、距離を縮める。
猫は、逃げない。
でも、近づいてくるわけでもない。
そのままの位置で、モチオを見ている。
モチオは、手を少しだけ前に出す。
触れるかどうかの距離。
でも、それ以上は近づけない。
猫は、その手を見る。
そして、ゆっくりと目を細める。
一瞬だけ、まばたきをする。
それだけの動き。
でも、どこかやわらかい。
モチオは、そのまま手を引く。
無理に触れようとはしない。
それでいいと思った。
猫は、小さく体を伸ばす。
背中をゆるやかに反らせる。
それから、ふっと方向を変える。
モチオの横を通り過ぎる。
足音は、ほとんどしない。
でも、その気配は確かに残る。
モチオは、その動きを目で追う。
猫は、通りの端へ向かう。
花屋の前で、少しだけ立ち止まる。
ユズが、それに気づく。
「あっ、来た!」
弾む声。
すぐにしゃがみこむ。
「おいでー」
手を伸ばす。
猫は、少しだけ近づく。
でも、触れられる直前で止まる。
その距離を保つ。
ユズは、笑う。
「今日もツンだねー」
楽しそうに言う。
無理に近づけようとはしない。
そのままの距離で、受け入れている。
ミナも、少しだけ視線を向ける。
何も言わない。
でも、その存在をちゃんと見ている。
猫は、またゆっくりと歩き出す。
次は、パン屋のほうへ。
扉の近くで、日なたに丸くなる。
男性が、それに気づく。
「また来たのか」
低い声。
でも、やさしい。
何もせず、そのままにしている。
猫も、動かない。
ただ、そこにいる。
モチオは、その様子を見ている。
どの場所でも、同じように受け入れられている。
誰も、無理に近づかない。
追い払うこともしない。
ただ、そのまま存在を置いている。
モチオは、ゆっくりと立ち上がる。
猫を見る。
猫も、ちらりとこちらを見る。
それだけ。
でも、さっきとは少し違う。
ほんの少しだけ、距離が縮まっている気がする。
モチオは、小さく息を吸う。
この町の中には、言葉だけじゃないやりとりがある。
触れない距離。
踏み込まない関係。
でも、確かにつながっている。
モチオは、その感覚をそのまま受け取る。
言葉にしない。
でも、ちゃんと残る。
モチオは、また歩き出す。
足音は、小さい。
猫は、動かない。
でも、その存在は、通りの中に溶けている。
パン屋、花屋、雑貨店。
そのあいだを、自由に行き来する小さな存在。
誰のものでもない。
でも、どこにもいる。
モチオは、そのことを思う。
この町の輪は、人だけでできているわけではない。
もっとやわらかく、広がっている。
見えないところまで、つながっている。
モチオは、雑貨店の前にたどり着く。
扉の前で、少しだけ立ち止まる。
さっきの猫の感触が、まだ少しだけ残っている。
触れてはいない。
でも、確かにそこにあった。
モチオは、そっと扉に手をかける。
ちりん、と音が鳴る。
その音が、やわらかく広がる。
そして――
モチオは、またひとつ、この町の中の“やさしいつながり”に触れていた。




