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ひだまり商店街の小さな奇跡 〜海辺の雑貨店と、言葉にできない贈りもの〜  作者: ゆうぎり
第1章「はじまりの通り」

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町に来る

 その町には、急ぐ理由がひとつもなかった。


 通りの入り口に立ったとき、モチオは、ほんの少しだけ呼吸がゆっくりになるのを感じた。


 見慣れない石畳が、まっすぐ奥へと伸びている。

 その両側には、低く連なる屋根と、小さな店が並んでいた。


 新しくもなければ、古びているわけでもない。

 ただ、長くここにあり続けてきたものだけが持つ、静かな落ち着きがあった。


 古い、というより――

 時間が、ここでは急いでいない。


 風が、通りをやわらかくなでていく。


 その風は、どこか丸い。

 角がなく、急ぐ気配もない。


 遠くで、かすかな音がした気がした。

 人の声かもしれないし、何かを運ぶ音かもしれない。


 けれど、それが何だったのかは、すぐにわからなくなる。


 この町では、音もまた、長くとどまらないのかもしれない。


 モチオは、少しだけ空を見上げる。


 春の光は、強すぎない。

 目を細めなくても、ちゃんと見える明るさだった。


 空は高く、雲はゆっくり流れている。


 その動きすら、急いでいないように見えた。


「……ここか」


 小さくつぶやく。


 その声は、誰にも届かないまま、空気にほどけていく。


 自分の声が、少しだけ遠くに感じた。


 理由は、はっきりしていない。


 この町に来ようと思ったきっかけも、うまく思い出せなかった。


 誰かに勧められたわけでもない。

 特別な目的があったわけでもない。


 ただ――


 気づいたときには、ここに来ていた。


 来てみよう、と思った。


 それだけで、足りていた。


 モチオは、一歩だけ前に出る。


 石畳に触れた足の感触は、思っていたよりもやわらかい。


 固いはずなのに、どこかやさしい。


 踏みしめたはずの音は、ほとんど残らない。

 小さく鳴って、すぐにどこかへ消えていく。


 もう一歩。


 さっきより、少しだけゆっくりと。


 歩き出した、というよりも――

 通りの中に、そっと溶けていくような感覚だった。


 自分だけが進んでいるのではなく、

 この場所に、少しずつなじんでいくような。


 モチオは、足を止めることなく歩く。


 急ぐ理由はない。

 立ち止まる理由も、見つからない。


 ただ、進んでいく。


 その歩幅が、この町に合っている気がした。


 ふと、自分の呼吸に意識が向く。


 さっきより、少しだけ深い。


 少しだけ、ゆっくりだ。


 気づかないうちに、体がこの空気に合わせている。


(……いいな)


 心の中で、小さく思う。


 言葉にするほどでもない、ほんのわずかな感情。


 けれど、それは確かにあった。


 通りの奥は、まだよく見えない。


 どんな店があるのか。

 どんな人がいるのか。


 何も知らない。


 それでも、少しだけ先に進んでみたいと思えた。


 理由は、やっぱりない。


 でも――


 理由がいらないことが、ここでは自然だった。


 モチオは、もう一度だけ空を見上げる。


 光は変わらず、やわらかい。


 そのまま視線を戻し、通りの奥へと向ける。


 そして、また一歩、歩き出した。


 その足取りは、来たときよりも、ほんの少しだけ軽くなっていた。

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