第3話 魔女襲来
「よかった、ちゃんと来てくれたんだ。6年振りだね、日下部君」
イーゼルに置かれたキャンバスに向かって絵を描いていた彼女は、椅子から立ち上がりこちらを振り向くとそう微笑んだ。
(6年振りだね、か。ああ、間違いない。奴だ)
おまけに僕らの間にはあんな過去があるというのに自然な笑みを絶やさないとは。
(予想通り自己欺瞞中か)
(そうでなければ煽動者として役に立たんよ)
(再度接触は時間の問題だったな)
思わずそんな一人芝居を胸の内で繰り広げると、僕はとりあえず彼女に謝った。
「……ごめん。ちょっと、遅くなった」
わざと少し時間を遅らせて美術準備室の周囲の様子をうかがってから入室した僕は、そう言いながらも今度は慎重に部屋の中を観察する。
(やはり他には誰もいない、か)
小湊玲奈に視線を戻すと、彼女はゆっくりと首を振った。
「ううん、そんなことない。それに、あんな手紙で呼び出したのは私の方なんだし……」
はにかむようにそう言うと、彼女は身をよじるようにモジモジとした。
意味深な手紙といい、クラスの馬鹿な男どもなら確実に勘違いするだろうその仕草に僕は吐き気がする思いだった。
「それで、僕に何の用かな。小湊さん」
わざと冷たく突き放したような声でたずねてやると、彼女の顔が微妙にこわばった。
だけど、その程度の通常攻撃でその面の厚さを貫けはしない。思惑を外されたはずの彼女は、すぐにまた完璧な笑顔に戻って再度侵攻してきた。
「呼び出したのが私だってことには驚かないんだね、日下部君」
驚くわけがない。
「君のことはよくおぼえているよ。こないだの自己紹介で美術部だって言ってたし。こんな人をもてあそぶような悪質なやり方で呼び出す人間は、今のところ君しか思いつかない」
それでようやく彼女の笑顔にヒビが入った。
「ひ、酷いなあ日下部君は。久々の再会を祝した、ちょっとしたイタズラじゃない。そ、そこまで怒らなくてもいいんじゃないかしら」
そう言う彼女の声は少しかすれていた。
「怒ってなんかいないさ。ただ正直な感想を述べただけだよ」
「もっと酷いじゃない!」
思わずといった感じで叫ぶ彼女に、僕は驚いてその顔を見返す。
すると彼女はシマッタという顔でしばし固まっていたが、やがてコホンと咳払いをするとニコリと笑った。
「それはちょっと、悪く取り過ぎじゃないかしら」
(言い直したよこの女。さっきのは無かったことにするつもりだ……)
さすがの僕もヒいていると、ようやく彼女はばつの悪そうな顔をした。
「お、思わせぶりな呼び出し方をしたのは……わ、悪かったと、思ってるわ」
思いのほか素直に己の非を認める彼女に、僕は少し意外な気がした。
(いやいやいや、これも何かの策略かもしれない。僕はまだ彼女の目的すら把握していないんだぞ)
気を取り直した僕は再び彼女に問いただす。
「それで、一体全体僕に何の用なんだい。イタズラならもう帰ってもいいかな」
すると彼女が少し慌てたように叫ぶ。
「く、日下部君! 私のこと……おぼえてる?」
僕はよく意味が分からずに困惑した。
「だからおぼえてるって、さっき言ったじゃないか」
「そ、そういう意味じゃなくて……」
彼女はそこで言いよどむと、おずおずと口を開いた。
「しょ、小学校の時。委員長だった日下部君を、みんなが非難してやめさせちゃったことがあったじゃない」
(そう仕向けたのは君だろ?)
「あの時みんなを注意してた日下部君に、私が思わず反発したのがマズかったんじゃないかって、ずっと気にかかってたの。
私、まさかあんなことになるとは思わなかった。みんなが興奮して口々に叫ぶから怖くなっちゃって。でも、その時にはもう止めようもなくて……」
(自分から煽ったくせによく言う)
「あれ以来、日下部君は人が変わったように大人しくなっちゃうから、私心配してたの。でも中学校は別々になってしまって。あれからどうしたんだろうって、ずっと気掛かりだった」
(自分が蹴落とした哀れな落伍者の末路を見届けられなくて残念だとは、さすがいい趣味をしている)
「でもまさか同じ高校に来てるだなんて知らなかった。日下部君、あれからまたかなり雰囲気が変わってるんだもの」
(君ほどじゃないよ。そこまで化けるとはさすがだ。将来の職業はキャバ嬢か結婚詐欺師なんかいいんじゃないかな)
「今日呼んだのはね、日下部君にあの時のことを一言謝りたかったの。私がちょっと余計なことを言ったばかりにあんな騒動に発展しちゃって。ごめんね、日下部君」
そう言うと、彼女は申し訳なさそうに弱々しく微笑んだ。
(あ、あの煽動をクラスメートたちの勝手な暴走で片付けるつもりか!? この魔女め……)
怒りのあまり言葉が出てこない。僕は震える手をただギュッと握り締める。
それをどう受け取ったのか、彼女が慌てて付け足してくる。
「あ、ごめんなさい。日下部君にしてみたらそんな昔の嫌な出来事なんか、今更思い出したくもないよね。もう私からこの話はしないから心配しないで。今のクラスの人たちにも知ってる人はいないと思うし。私さえ黙ってれば日下部君がクラスで変に浮くことはないと思うから、だから安心してね」
そうしてニコリと笑いかけてきた。
(つまり、僕の平穏な日常は君の気分次第でたやすく崩壊するというわけだ。それが嫌なら今君が語ってみせたカバーストーリーを受け入れて、大人しく黙っていろということか)
僕はようやく呼び出された理由が分かった。
あの時、勝利を確信した彼女が僕に向かって浮かべて見せた嘲笑は、彼女にしてみれば自身の正体を晒すことになる若さゆえの危険な過ちなのだ。
完璧な変貌を遂げた今、思いがけず再会した僕を見て彼女は今更ながらそのことが不安になったのだろう。だからその口を封じる必要性に駆られた。
だけどもしここで僕が怒りに任せて彼女の申し出を断れば、様々な難癖を付けられて徹底的に潰されることは火を見るより明らかだ。なお悪いことに、クラスでの戦力差は当時とは比較にならない。
巧みな恫喝で静かにこちらの退路をふさぐ彼女のやり口に、僕はもう笑うしかなかった。
「フフフ。分かった、分かったよ小湊さん。僕だって馬鹿じゃないんだ。色々と思うところはあるけれど……。飲むよ、その条件。いいや、飲むしかないんだ」
「え? じょ、条件って何!? 日下部君は一体、何を言ってるの?」
目を白黒させながらわざとらしく条件の詳しい復唱を迫ってくる彼女に、僕はうんざりと答えてやった。
「だから僕は、君が本当は大衆を狡猾に煽動して目障りな人間を血祭りにあげては権力を誇示するような、性悪で冷酷な最低の人間だってことを絶対に秘密にする。その代わり君は僕の平穏な日常に干渉しない。それでいいんだろ?」
すると彼女は、思いがけないことを聞いたとばかりにポカンという顔をした。
どうやら僕には下種な交換条件のことを口にさせても、自分はあくまでそれに気付かない綺麗な外面を保っておきたいようだ。汚い政治屋どもがよく使う、秘書が勝手にやりましたと同じ手口なのだろう。
(どこまで腐ってるんだ!)
「どうやら用は済んだみたいだから、もうこれで帰らせてもらうよ」
僕は白々しい演技を続けるこの女の顔をそれ以上見ていたくなくて、吐き捨てるように言うときびすを返した。
すると後ろで慌てたような声が上がる。
「あ…。ちょ、ちょっと待って日下部君! あなた一体何を言って…」
用が済んだはずの彼女は、なぜか僕を逃がすまいと背後から僕の腕をつかんでくる。
そのおぞましさに僕は思わずその手を乱暴に振り払った。
「キャッ!」
バランスを崩した彼女が、まるでスローモーションのように僕の後ろから前方に向かってたたらを踏みながら倒れていくのが見えた。
いくら嫌いな人間とはいえとっさに振り払ってしまった罪悪感からか、それとも単なる反射行動か。僕の体は勝手に動いていた。
「だ、大丈夫か」
彼女を背後から抱きとめるようにして支えた僕は、戸惑いながら彼女に聞く。
しばらくして、乾いた声でポツリと彼女が答えた。
「あ、ありが、とう……」
だけど、僕の耳にはその言葉がうまく届かない。
ふわっと立ちのぼる甘い香りの中で、僕の両手は中身がガッチリと詰まった大きな桃をなぜか2つ握っていた。
(何だ……これは?)
しかし僕がその違和感の正体に気付く前に、「キャー!」という耳をつんざく悲鳴が美術準備室に響き渡った。




