第66話 小さな神託
交換日記[魔法神]
やれやれですなあ。
水や火などに頼っているから苦戦するのですぞ?
惑星でも召喚して側頭部あたりにゴチーンしてやれば簡単に倒せるでしょうに。
毒竜が再び灰色の翼を広げ、両脚を曲げました。
「――!」
わたしは足もとの泥水を蹴って、とっさに躍りかかります。
「飛ばせない……ッ」
空は竜のもの。まともな騎竜なしでは、とてもではありませんが敵いません。飛び立たせてしまえば、もうどうすることもできなくなります。
噛み付こうとした毒竜の鼻先に片手を置いて、その頭部と長い首を一気に跳び越えます。狙いはもちろん翼。蝙蝠のような、悪魔のような、骨張った翼。
宙で前方に一回転した勢いのまま、わたしは拳を毒竜の翼の付け根へと叩き込みます。
「~~ッ、やっ!」
手応え。まるで分厚い金属を殴ったが如く。夜の廃墟に鋭い音が響きました。
硬……っ!
鱗は破壊できませんが、飛び立とうとしていた毒竜の脚が泥水を跳ね上げて崩れました。灰色蜥蜴は再び地に這います。
――ギィアァァァァ!
「~~ッ」
毒竜が背中のわたしへ喰らいつこうと、長い首を曲げて持ち上げました。
「蓮華!」
わたしは汗の雫を飛ばしてスカートを翻しながら、一瞬早くその背中をバックステップで後退し、尾の側から後方の泥水へと着地します。
けれども次の瞬間、わたしとアデリナを足しても足りないと思われるほどの太さの、灰色の尾が勢いよく振るわれました。
「く……ッ」
避けきれない――!
とっさに腕をクロスして身を固めたわたしを、毒竜の尾が薙ぎ払いました。両腕に感じたそれが痛みだと気づくより早く、わたしは――。
背中から泥水に落ちて跳ね上がり、月を見た直後に地面で頭部を擦り、再び跳ね上がって背中から傾いた柱に叩きつけられ、泥の中へと半身を沈めていました。
「あ……」
ぐにゃりと、夜の視界が歪みます。
「蓮華ぇーーーっ!」
アデリナの声が頭蓋の中で多重に反響しています。手足に力が入りません。どうにかしなければと考えても、頭の中で金だらいを打ち鳴らされているかのように音が響き、思考は定まりませんでした。
脳震盪……?
けれども重く大きな足音は、たしかに迫ってきていて。
どん、どん、という爆発の音が断続的に響いて、わたしの前髪を熱波が揺らします。視線の先では、橙色の炎が渦巻いていました。
「止まれ止まれ止まれ止まれッ!」
けれど、炎が眼前で爆発しようとも、天をも焦がすほどの橙色の特大剣を振り下ろされようとも、灰色蜥蜴はその足を止めません。
泥水を跳ね上げ、大地を揺らしながら、わたしへと走って。
早く、早く、視界、戻って!
壊れかけのテレビのように歪む視界の中、炎槌や轟炎の大剣を受けて鱗を焦げ付かせながらも、毒竜は高速で迫ってきます。
その首が下がり、周囲の泥ごとわたしの身体を大口で掬い上げようとした瞬間、多重にぼやけて斜めに揺れていた視界が一点に収束しました。
「……っ」
わたしはすんでのところで両腕を大地で突っぱね、全身を跳ね上げます。そのすぐ真下を毒竜の大口と首が通過して――。
「こ……ンのお!」
毒竜の首を蹴った勢いで距離を取って後方回転し、汚泥で足を滑らせながら着地します。けれども、すぐに片膝を落としました。
まだ完全には回復できていません。頭の中がぐるぐるしています。
「痛――っ」
その段に至り、ようやく全身に痛みが舞い降りてきました。
一瞬にして凄まじい量の汗が滴ります。
「か……っ……はあ……っ」
「蓮華!」
「大……丈夫……っ」
アデリナが駆け寄ってきます。
彼女が炎槌や轟炎の大剣を放ち、毒竜の進行方向を阻害してくれていなかったら、わたしはもう、毒竜の胃袋にいたでしょう。
毒竜が緩慢な動作でこちらに振り向き、再び翼を広げました。
わたしは早口で呟きます。
「アデリナ……ッ、翼の強度なら……ッ」
「――!」
アデリナが右腕を毒竜の方向に伸ばし、人差し指と中指を揃えます。次の瞬間、泥水が彼女の眼前に集約し、細長い槍を創り出します。
「貫けッ! ――水乙女の槍!」
汚れたレーザービームのように放たれた泥水の槍が、空へ飛び立とうとしていた毒竜の左の翼を射貫きました。いくらかは水滴となって散ってしまったけれど、それでも。
「……通った……通ったぞ!」
「はい!」
空をつかんだはずの翼に拳大の穴が空き、それでも飛び立とうと毒竜が勢いよく翼を振り下ろした瞬間でした。風船が弾けるような音がして、左翼が空気抵抗に耐えられずに破れ、大きく広がります。
半ばまで飛び立っていた毒竜の足が、再び汚泥の大地に沈みます。
――ガギャアアアァァァーーーーーーーーーーーーッ!!
混乱でしょうか。それとも怒りでしょうか。毒竜が夜空に首を振って咆吼を上げます。
これでようやく地の利は同等。けれども、あの頑丈な鱗を破壊できない限り、わたしたちに勝ちはありません。
「来るぞ!」
毒竜はすぐさまわたしたちへと視線を戻すと、再び牙を剥いて走り出します。泥水を跳ね上げ、獰猛なる咆吼を上げながら、凶悪な牙を剥いて。
「蓮華、あたしの腰を後ろから抱えて真上に跳べ! なるべく高くだ!」
「……ッわかりました!」
何をするつもりかはわかりませんが、考えなしに言葉を吐く人ではありません。
大地の震動が激しくなります。
「来るぞ! 急げ!」
わたしはアデリナの背後に回り込んで細い腰に両腕を回し、迫る毒竜の牙から逃れるように跳躍します。
「――やぁっ!!」
ガチン、と足もとから空間ごと牙で囓り取る音が響き、灰色の巨体がわたしたちのいた場所を泥水ごと喰い破ります。
びゅおおと、夜の風がわたしとアデリナの髪をさらって吹き荒びます――!
上空、およそ十メートル。一人ならばもっと高くまで跳べますが、他者を抱えてではこの程度で精一杯です。
眼下には、すぐさま方向転換をしてわたしたちに視線を向けた毒竜がいて。
「上出来だっ」
アデリナが右手を拳にして、左手で右の関節をつかんで固定します。
「――雷電の弩!」
直後のことでした。直視に耐えないほどの青白い光がアデリナの右拳から溢れ出し、目にも止まらぬ速さで吸い込まれるように毒竜の頭部に落ちたのは。
雷電の光。すなわち稲妻。
毒竜の全身を抜けた青白い光は泥水を這い、八方に散ってゆきます。耳をつんざく音が廃墟に響き渡ったのは、その後のことでした。
そっか。毒竜の鱗がどれだけ頑丈でも、雷撃なら肉体内部まで通るんだ。
「これでどうだッ! 醜い化け物め!」
わたしとアデリナが、硬直している毒竜の前に着地します。
近くで見れば一目瞭然。ぶすぶすと鱗は焦げ付き、全身から煙を立ち上らせ、毒竜は首を空へともたげたまま硬直していました。
効い……た……?
アデリナが長い安堵の息を吐きました。
が――。
「~~ッ」
殺気を感じたわけではありません。そんなもの、最初からこの生物にはないのだから。だからそれは、本能。動物的な勘だったのだと思います。
縦長の瞳孔がぎょろりとアデリナへと向けられた瞬間、わたしはアデリナに体当たりをしていました。
「アデリナ!」
その直後、アデリナの立っていた場所を、毒竜の大口が喰らいます。泥水を跳ね上げ、凄まじいうなり声を上げながら。
――ぐるるるるるるる……ッ!!
アデリナを押し倒して泥水の中を転がり、彼女を抱えて走り出したわたしの後を、毒竜が先ほどまでとなんら変わらぬ速度と凶暴さで追ってきます。
「なぜだッ!? 生物なら内臓まで爛れたはずだぞ!」
初めてかもしれません。アデリナが取り乱すだなんて。
「逃げます! 一度引きましょう!」
わたしは足を取る泥水から跳躍して崩れかけの建物に跳び乗り、さらに走ります。毒竜は泥水を跳ね飛ばしながら建物に体当たりをし、まるで障害物などないかのように追ってきました。
「く……っ」
しつこいっ!
わたしは瓦礫にまみれて建物が比較的残っている住宅街らしき方面へと走り、かつては路地だったと思われる通りに飛び込みます。けれども、足を止めることはできません。
怒り狂った毒竜が、風化した建物など蹴散らしてまっすぐに追ってくるのだから。
だめ、だめ、追いつかれる――!
怖い、と思いました。
建物を避けて走るしかないわたしたちとは違って、毒竜は直線距離を突き進んできます。これでは到底逃げ切れるものではありません。
まるで小さな頃に映画館で見た、恐竜映画のティラノザウルスみたいに。
「クソ! 蓮華、あたしを置いていけ! もう一度雷電の弩をぶつけてやる!」
「できません!」
たぶん、そういうんじゃない。あれは違う。
「このままじゃ二人まとめて殺される! おまえだけでも生き残れ! あたしは足手まといだ!」
「嫌です!」
「剣士に恥を掻かせるな!」
アデリナがわたしの腕から逃れようと、身をよじります。
後方から弾き飛ばされてきた瓦礫を走りながら身を屈めて躱し、わたしはアデリナを抱く両腕に力を込めて叫びました。
「都合のいいときだけ剣士にならないで!」
走り続けているのに、生臭い息がすでに届いています。振り返らなくたってわかります。背後。もう数歩の位置に、毒竜がいます。
わたしに抱えられているアデリナには、その姿が見えているんです。もう逃げ切れないことを、彼女は知っている。
「言うことを聞け! どちらかが生き残って黑竜を討つんだ!」
「そんなのお断りですッ!」
アデリナが叫びました。
「蓮華ッ、このバカッ!!」
――かあああぁぁぁぁ~~~~…………っ。
夜の空気が変化しました。毒竜の体内の臭いがするものに。
全身が粟立った直後、巨大な影が、逃げるわたしたちの影を呑みます。
「……っ」
とっさにアデリナを側方へと投げ飛ばし、わたしは足を止めます。
「蓮――ッ」
「はああああぁぁぁぁっ」
呼吸を整える暇はありません。全身に血液を行き渡らせ、歯を食いしばり、筋繊維を二倍、ううん、三倍に膨らませます。全身に浮き出た血管が、激しく脈動し始めました。
これが、今のわたしの限界!
振り返ると同時に右の拳を腰の横まで軽く引き――。
――ガギャアアアァァァーーーーーーーーーーーーッ!!
毒竜が牙を剥きながら、わたしを呑み込むべく迫ります。赤い舌から、粘性のある唾液をまき散らせながら。
「~~っ」
ぞくっと背筋が痺れました。全身が萎縮しそうになります。
……恐れるな……。
誰かの声が聞こえた気がしました。
瞬間、冷たい恐怖を追いやるように、胸の奥に炎が灯ります。
やれる!
わたしはかまえます。無数の牙が生えた毒竜の大口がわたしの全身へと襲いかかった瞬間、わたしの震脚と毒竜の踏み込みが重なりました。
ずん、と大地が大きく上下し、シャラニスの大地がクレーター状に陥没します。
牙が届くよりも一瞬早く、腰溜めにしていた右の拳を毒竜の鼻面へとあてます。叩き込むのではなく、あてたのです。
「阿ッ!」
――崩拳!
それは、達人であれば、鎧の外側から肉体を破壊することもできるとされる拳法。
右腕から伝った毒竜のすべての衝撃は固定した足から大地に抜け、反対にわたしが伝えたすべての衝撃は毒竜の動きをぴたりと、止めました。
まるでこの瞬間だけ、時間が止まったかのように。
どちゅっと奇妙な音がして、毒竜の顔の鱗の隙間から黒い体液が噴出します。
入った――けど、この手応え……っ!?
衝撃が抜けきった瞬間、わたしはさらなる踏み込みと同時に全身に力を込めて身体をねじり込み、自らの背中で毒竜の胸部を打ちます。
――鉄山靠!
今度は衝撃とともに、肉を打ちつけたような凄まじい音が響きます。
ぶわり、と毒竜の巨体が浮かびました。
まるで重力を忘れたかのように、巨躯が夜空に浮いてひっくり返ったのです。大地を震動させ、崩れかけの建物を背中で圧し潰し、毒竜が腹を見せて倒れ込みました。
濛々と、砂煙が立ち籠めます。
その直後、わたしの全身から恐ろしいほどの汗が噴き出しました。
「れ、蓮……華……?」
がくがく足が震えます。今さら、歯をがちがちと鳴らせて、涙まで滲み出てきて。
けれど、震えている場合ではありません。
「逃げ……ましょ……う……」
「お、おい、いくらなんでも、あれならもう死んでるんじゃないか?」
わたしは問答無用でアデリナの手をつかみ、ふらつく足取りで再び走り出します。
どくん、どくんと、胸を突き破るような勢いで心臓が跳ね回っていました。
あれでは倒せない。
雷電も気功も、毒竜には効くものではないのだから。
あの毒竜がなんなのか、崩拳を通じてわたしにはようやくわかったのです。
交換日記[アデリナ・リオカルト]
人類ごと死滅させるつもりかバカ神が。




