表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
燈幻郷奇譚  作者: 月宮永遠
4章:天狼と見る夢
42/42

40

 霧雨の降る、蓬莱山。

 亜沙子は日課の月胡を手にしたものの、欄干らんかんで弾く気になれず、部屋に籠っていた。

 あの晩、宴で笹良と一世の共演を聴いてから、人前で、とりわけ一世に聞かせるのが恥ずかしくなってしまったのだ。

「誰かと比べても、しょうがないのだけれど……」

 亜沙子は憂鬱なため息を零した。

 気分は晴れず、音にまるで魅力を感じられない。

 ふと、どこからか、雨の音にまじって月胡の調べが聴こえてきた。

 亜沙子の好きな曲だ。

 雨滴を地面が吸うように、その音色は、不思議なほど亜沙子の心に染みとおった。

 聴き入っていると、ぱたりと旋律が止んだ。少し間を置いて、簡単な和音が聴こえてきた。

「あ……」

 これは音遊びだ。お互いの音を真似する遊び。音に誘われて、亜沙子も和音を鳴らした。

 また別の音の並び。同じように真似をして、今度は亜沙子が音を鳴らした。一世も同じように音を真似る。

「ふふ」

 繰り返すうちに、自然と笑みがこぼれた。言葉はなくても、音が教えてくれる。

 もっと遊ぼう。楽しもうよ、と。

 音楽を分かち合うのに、言葉なんていらないんだってことを、改めて実感した。

 音遊びを繰り返し、やがて美しい旋律を共に奏で始めた。先日の笹良と一世のように。

 いや、もう人と比べるのはやめよう……今こうして、共に弾くことが楽しいのだから。

 清々しい気持ちで、亜沙子は月胡を弾いた。

 一曲を弾き終えると、音が止んだ。もう少し遊びたくて、亜沙子の方から部屋を出た。

 欄干へ向かうと、おとないを知っていたかのように、一世はそこにいた。

「亜沙子。久しぶりだね」

 一世は眼を優しく細めて、憂いを含んだほほえみを浮かべた。

「……はい。こんにちは」

「こんにちは。とてもいい音だったよ」

「ありがとうございます」

「寂しかったよ。ここのところ、私の前では月胡を弾いてくれなかったものだから」

「すみません……」

 亜沙子は気まずげに視線を落とした。

「こっちへきて、お座りよ。そうしたら許してあげる」

「はい」

 隣に座ると、心得たように、灯里が茶を運んできた。

 しとしと降る雨を眺めながら、亜沙子は湯呑茶碗を手にとった。

 斜めに突き出たひさしから、降りしぶく雨は水晶の連なりのように滴り落ちていく。灰色の石畳に落ちては弾け、濡れそぼったまま貼りつく若葉色の木の葉を、いっそう鮮やかに見せている。

 風情のある情景を見ているうちに、心は凪いでいった。

「……雨もいいものですね。癒されます」

「私は亜沙子に癒されるよ」

「……」

 甘い台詞に、亜沙子は赤面して言葉を失った。

「雨の音をお聴きよ」

 そういわれて顔をあげると、しとしと降る、優しい雨の音に耳を澄ませた。

「心の安らぎに技巧の有無は関係ないことを、教えてくれる。私にとって、亜沙子の月胡そのものだよ」

 一世は目を細めると、強く亜沙子を抱き寄せた。覆い被さるように端正な顔を寄せて、そっと唇を重ねた。

「好きだよ、亜沙子」

 胸が、じんと甘く痺れた。

「……私も好きです」

「これからも、傍にいてくれる?」

「許される限り」

 祈るように告げると、一世は怖いくらいに真剣な瞳で亜沙子を見つめてきた。

「亜沙子をつがいにしたい」

 しとしと、雨の音が聴こえる。

「……他にも番はいる?」

 衝撃にそなえて、心を無にしながら亜沙子はそっと訊ねた。

「何をいう? いないよ」

 え、と亜沙子は目を瞠った。一世もまた、驚いたように亜沙子を見ている。

「……天狼は長寿だから、番うのが遅いんだ。その分、愛情深い。生涯ただひとりと添い遂げる」

「でも……」

 本当に、生涯ただひとり? 答えを探すように見つめていると、額に柔らかく唇を押し当てられた。

「おかしいな。かなり率直に、態度で示したきたつもりなのだけれど」

「……え、でも、恋人はいるでしょう?」

 首を傾げる亜沙子を見下ろして、一世は不機嫌そうに眉をひそめた。

「……私は亜沙子に求婚しているのだが? なぜ、他の女の存在を疑われねばならぬ」

 視線を泳がせると、顎に手をあてがわれた。顔を背けられない。

「いいから、私の番になりなさい。不安に思うことなど何もないから」

「……はい」

 亜沙子もようやく、素直に返事をした。一世の言葉を疑う気持ちより、喜びの方が遥かに大きい。

 見つめ合ったまま、一世は、おもむろに陶製の酒瓶の口をあけた。

 馥郁たる香りが辺りに漂う。

 ぐいっと煽ったかと思えば、亜沙子の腕を引いて、胸の中に抱き寄せた。端正な顔が降りてきて、唇を塞がれた。

「んっ!?」

 唇をしっとりとふさがれる。隙間なく唇が重なり、冷たい酒が喉に流れこんできた。

 亜沙子は慌てて腕を突き出そうとするが、びくともしない。

 観念して喉を鳴らした。

 酒の香のたえなること。

 馥郁たる芳香が口いっぱいに広がり、まろやかな酒精が舌の上を転がっていく。ゆっくりと嚥下すれば、五臓六腑にしみこんでいく。いつまでも味わっていたい、夢のような酒だ。

 しばし陶然としていた亜沙子だが、濡れた唇を優しく指でぬぐわれて我に返った。

「一世さんッ」

「ふふ」

 額に、ちゅっ、とかわいらしいキスが落ちた。亜沙子の胸は、はちきれんばかりに高鳴ったが、誤魔化すように平坦な表情を装った。

「いきなり何するんですか!」

 諫めると、一世はおかしそうに笑った。

「怒る亜沙子もかわいい」

「信じられない! 口移しで飲ませるなんて」

 亜沙子は睨みつけたが、一世はどこ吹く風だ。

「もっと飲ませてあげようか?」

「自分で飲め……ン――ッ」

 再び唇が重なり、酒を流しこまれた。

「もうやめて……」

 喘ぐように小声でささやくと、一世はぴたりと止まった。探るように亜沙子の顔を覗きこんだ。

 青と金の双眸に、心の底まで見透かされそうで、亜沙子は目を合わせることができなくなった。

「……かわいい、亜沙子」

 耳元でささやかれて、亜沙子は息をのんだ。

 かわいい、という言葉に、これまでにない甘さが含まれていることに気づく。

 焦燥と喜びを同時に感じながら、もう、と抗議を唇に乗せる。

「亜沙子、好きだよ。どうかずっと傍にいて」

「……いますよ。口移しで与えなくても、自分で飲みます」

 青と金の双眸を見つめて亜沙子が告げると、一世は安堵したように、肩から力を抜いた。最近、万能不死の霊薬を口にしていなかったことを灯里から聞いて、心配していたのだろう。

「驚かせて、ごめんね」

「私も、ごちゃごちゃいってごめんなさい……好きです。こちらこそ、どうか傍にいさせてください」

 そっと頬に口づけると、一世は眼を瞠った後、花が綻ぶようにほほえんだ。

(なんて嬉しそうに笑うんだろう……)

 胸がいっぱいになり、たちまち視界は潤んだ。

 懸命に笑おうとしたが、諦めて、亜沙子は両手で口を被った。幸せで、胸がいっぱいで、笑いたいのに、咽の奥が熱くなる。ぽろぽろと涙が零れた。

「ふ、ぅ、ぅぅ……っ」

 一世は蕩けそうな笑みを浮かべると、しゃくりあげる亜沙子を胸の中に抱き寄せた。

「どうしたの、私のお姫様」

 しがみつく亜沙子をあやしながら、唇で優しく涙を拭きとる。尽きぬ泉のように、次から次へと、涙は溢れてくる。

 泣いて、泣いて、気が遠くなりそうになりながら、亜沙子は心を洗われていくような、不思議な心地を味わった。


 一世と出会えた縁を、ただの偶然とは思わない。

 蓬莱山に辿る神仏の功徳というものかもしれない。

 この先もずっと、彼の傍で生きていきたい。強い想いが、滾々(こんこん)と胸の底から湧き上がってくる。

 閉じた瞼の奥に蘇る、美しい燈幻郷。

 萌ゆる緑、清らかな山河、さえずる小鳥の啼き声、土の香り、木々の香り、花の香り、雨の匂い……淡雪のように風に舞い散る桜。

 仏様の蒼い蒼い、空の世界。

 暖かな腕の中で、亜沙子は声をあげて泣いた。これ以上はないという、幸せをかみしめて。





― Fin ―





評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
cont_access.php?citi_cont_id=691078197&s
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ