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最近、一世の顔を見ていない。
晩酌を好む一世は、どんなに帰りが遅くなろうとも、星月夜を肴に盃を傾ける癖があった。間に合えば亜沙子も同席するのだが、ここのところ、一世は蓬莱山の哨戒で忙しいらしく、顔を合わせない日が続いている。
今夜は、どんなに遅くても出迎えよう。亜沙子は夜更かしをして待っていた。
月が真上に昇る頃――
就寝時刻をとうに過ぎた夜更けに、一世はようやく戻ってきた。
機嫌が悪いらしく、使用人達は三角の耳を横に伏せて、主の様子をうかがっている。
(……どうしたんだろう?)
亜沙子も近寄り難くて、廊下の陰から様子をうかがっていた。一世は眉間に皺を寄せて、紫蓮と何やら深刻そうに会話をしながら歩いてくる。
「――全く、神聖な注連縄を断つとは信じられん」
普段の一世からは想像もつかぬ、冷たい声で吐き捨てた。
「彼等は、短命で儚い生き物ですから、気が急くのかもしれませんね」
「解せぬな。怨霊を恐れるくせに、神罰は怖くないのか?」
「さァ。それだけ追い詰められているのではありませんか?」
紫蓮が淡々と相槌を打つと、一世は疲れたため息をついた。
「手負いの獣は、何を仕出かすか判らぬな」
「ええ……」
「主上はなぜ人間を気にかけるのだろう? 不思議でならぬ」
「慈しみで、夜那川に橋を架けたいのでしょう」
「主上の気が知れぬ。人と狼を区別したのは、天であらせられるのに」
「これではっきりしたのではありませんか? 畢竟、共存など考えるだけ無駄ということを」
「無論。澄花酒は渡さぬ」
二人が目の前を通り過ぎても、亜沙子は動けずにいた。
詳しい事情は知らないが、彼等の人間を疎ましく思っている口ぶりに、少なからずショックを受けていた。
郷の天狼は亜沙子に親切にしてくれるが、人間に対して嫌悪があるのなら、本当のところはどうなのだろう?
(今夜は部屋で大人しくしていよう……)
気落ちして踵を返すと、お待ちください、と使用人達に声をかけられた。
「え?」
「我が主は、ご気分が優れぬご様子。ここは一つ、姫様のお力で憂いを晴らしてくださいまし」
「えぇ?」
「ささっ、これをお持ちになって」
陶製の酒瓶を手渡された。
「ちょ、ちょっとぉ」
「ささっ、お通りくださいませ!」
ぐいぐいと背中を押されて、長い廊下へ追いやられた。
使用人達は廊下の左右で額づき、亜沙子の渡りをじっと待っている。
「う……一人でいたいのかもしれませんよ?」
弱り切った声で亜沙子がいうと、侍女の一人が顔を上げた。
「我が主の無聊をお慰めできるのは、姫様だけでございます」
「追い払われるかもしれませんよ……」
不安そうに独りごちたが、誰も何も答えない。無言の圧に気おされ、亜沙子は渋々、渡り廊下に足を向けた。
「……いってきます」
「いってらっしゃいまし~」
背中に、どこか呑気で無責任な声が幾つもかけられた。
気は進まないが、誰にも止められることなく、離れの書院に入り、一世の部屋の前についた。
控えの間に入ると、宿直が応じるよりも先に、誰だ? と中から誰何の声がした。
「あの、亜沙子です」
一拍して、すぐに扉は開いた。一世は亜沙子を見下ろすと、表情を綻ばせた。嬉しそうに尾を緩く揺らしている。
歓迎されていることに勇気づけられ、亜沙子は背中に隠していた酒瓶を持ち上げてみせた。
「今晩は。あの、良ければ一緒に飲みませんか?」
一世は瞳を輝かせた。
「嬉しいね。晩酌につき合ってくれるの?」
いまさっきの不機嫌が嘘のように、一世は優しくほほえんだ。
「私で良ければ」
「亜沙子がいいよ」
さぁさぁと部屋に招かれ、縁側に並んで座ると、月を肴に二人は手酌で酒を盃に注いだ。
「お疲れさまです」
亜沙子が盃を近づけると、一世も嬉しそう近づけて、軽く器を鳴らした。
「酷い気分だったけれど、亜沙子のおかげで良くなったよ。感謝しなくては」
「お山で何かあったんですか?」
「桜の樹に巻きつけた注連縄が、幾つか傷つけられていたんだ。誰かが、幻燈郷の結界を壊そうとしたのだろう」
「それは、澄花酒の為に?」
「だろうね……全く、どうして人は歴史に学べないのか」
「……」
沈んだ表情の亜沙子に気がついて、一世は慰めるように肩を抱き寄せた。
いつもなら、新緑の中に漂う伽羅のような、清涼で上品な香りに安堵するのに、今宵は仄かに火薬と硝煙の匂いを纏っていて、亜沙子を不安にさせた。
「案ずるな。結界が壊れることはない。幻燈郷には何人たりとも入れぬよ」
「……はい」
心配事はそれだけではない。天狼が怪我をしないか、亜沙子は不安だった。
何事もなければいい――暖かな腕の中で、燈幻郷の平穏を思い、瞳を閉じた。




