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就職浪人のスペイン留学

バブル世代に大学、就職を経験した皆に捧げたい作品です。

1.-就職浪人のマラガ留学


1986年8月のある日、僕はスペインの南端、マラガ県にある町、ネルハに来ていた。

 

ヨーロッパのバルコニーという地中海にそそりでた展望台からの眺めはいたるところ、紺青。

マラガの海からは、天気のいい日はアフリカ大陸が見えることがある。


アンダルシアの白壁の家と青のコントラストは、飲みすぎた翌朝の疲れた目には正直痛い。


僕は、就職浪人。その年は大学卒業を延期して、スペインに留学した。


僕は22歳。 

神戸にある公立外国語大学の4年生だった。

本当はもう卒業して就職しているはずだったが、めざす商社のどこにも就職できずゼミの教授に頼んで卒業をのばしてもらった。


親友の山田は、僕がねらっていた大手商社に就職した。

同級生の平野も銀行入社だ。


僕は逃げるようにスペイン留学をきめて5月には、ここ、マラガにやって来た。


マラガの8月は暑い。

その上、海沿いなので湿気が高い。

僕は、スペインに来て初めて、「日差しが痛い」という体験をした。


昨日はフラットをシェアするフェルナンドと、彼の連れ3人と一緒にバルをはしごして歩いた。

フェルナンドは、アルハンブラ宮殿で有名なグラナダの出身で、マラガで自動車の整備工をしていた。

ほかの3人は、一人が肉屋で働くホセ、もう一人が教師のマヌエルと、エンジニアでサラリーマンのアントニオだ。

苗字は知らない。

皆、名前で呼び合うのだ。


スペイン人は乗りがいい。

友達の友達は、友達だ。

でも、本当に親しくなるまでは、その次会っても、親しく付き合えるとは限らない。

その時に盛り上がればいい!!世界なのだ。


マラガ市はスペインの南、アンダルシア地方のコスタ・デル・ソル(太陽海岸)に位置する人口56万程の都市で、スペインの天才画家、パブロ・ピカソの出身地として有名だ。


人口56万人と言えば、日本では、東京都杉並区より多く、八王子市より少なく、ちょうど、埼玉県の川口市ぐらいの人口だ。


面積は398平方キロで、熊本市より若干広いほど。

長崎市より若干狭い。


冬の平均気温は12度ぐらい、夏は30度ぐらいと、寒暖の差が激しいスペインの中では、過ごし易い方だと思う。


僕がどうしてアンダルシアのこの街で勉強しようかと思ったかと言えば、出来るだけ、アフリカに近い、海岸地帯の住み良さそうな街だったからと思う。


僕は、本当はスペイン語なんか勉強しようとは思っていなかった。


本当は外国語大学で英語を勉強して、アメリカに行きたかったんだ。


でも、九州の温泉で有名な県の、福岡県博多に比較的近い地方都市で生まれた僕に、高校の英語担任は冷たく言った。

「お前は、ここで英語が出来ても駄目だ。田舎者だ。2次試験で都会モンに負ける!」

そう言われ、半ばやけくそに、先生に進められるままにスペイン語を専攻する事に決めたんだ。


高校時代、スペインの事なんか闘牛とフラメンコしか知らなかったし、興味もなかった。


僕は英語を勉強し、洋楽を口ずさみ、洋画をテロップ無しで見れるようになりたかっただけだ。


マラガに来て、最初に住んだのは、スペイン人とフィリピン人夫婦の家だった。

夫はホルへ、妻はアンヘラと言った。


彼女はフィリピン出身のジャズシンガー「マリーン」に似ていた。

先祖には、フィリピン人のほか、アメリカ人やスペイン人が居たという混血だった。

 

彼女は一度、ウィンクしながら「自分が混血なのには訳がある。フィリンピンは歴史的にアメリカや日本の植民地で、フィリピン人はアメリカ人や日本人に沢山殺されたので、純粋なフィリピン人は居なくなったの」と笑いながら、笑えないジョークを僕に言ったことがある。


彼らには小さい子供が3人居た。

7歳になるホルへと、4歳のマリア、それから5ヶ月のダヴィだった。


旦那はバスの整備工だった。

「自分は幸運にもいい仕事に恵まれた」というのが口癖だった。


アンヘラは、優しい綺麗な人だった。。

料理が上手な人だった。


お金をもらってホームステイをさせている家は、大体余り裕福な家庭ではない場合が多いようだ。


彼らの場合、旦那によれば「ホームスティを受けているのは、妻が外人で仕事が出来ないからだ」そうだった。

彼女も「少しでも家計の足しになればと思ってホームスティの学生を引き受けているのよ」と言っていた。


旦那のホルへはかなり嫉妬の激しい男だった。

僕は彼らには子供にしか見えなかったかもしれないけれど、心の底では、自分が仕事をしている間、少しでも妻が他の男と一緒にいるのが不満の様だった。


僕は月曜日から木曜日は午後2時過ぎには家に帰る生活だった。


帰ると彼女の手料理が待っているのは、正直嬉しかった。

スペイン料理は美味しいけれど、彼女のつくるアジア料理は、異国の地にいる僕には正直有難かった。


彼女は旦那が3時過ぎに帰るのを待って昼食を取るのが日課だった。


彼女は旦那が帰る30分の間、僕と話すのが楽しい様に見えた。


時々、旦那は嫉妬深く、道を歩いて自分に口笛を吹いた男が居たら、本気で殴りかかりそうになった、とか、義理の両親、子供の学校、近くの買い物に行く以外、一人で外出も間々ならない毎日だと言っていた。


ある日、「私は若い頃、故郷のミスに選ばれた事があるのよ」と彼女が言った。

フィリピンに居た頃の話をする間だけ、彼女は夢見る様な目で遠くを見つめ幸せそうだった。


ちょうど、この家に来て1ヶ月が過ぎ様とするある日の事だった。


僕は午後には、食事の後、語学コースを受けている大学の図書館に行くか、散歩をするのが日課だった。

その日は7時ごろに家に帰ったと思う。

スペインでは夕食は9時過ぎだ。

だから、午後7時に帰ってもまだ2時間ほど夕食には余裕があることになる。


家に戻ると、その日は珍しく誰も家に居なかった。


いつもは、子供達がTVを見ていたり、あっちこっち走りまわったり、喧嘩して泣いたりと賑やかな家なのに、その日は静まり返っていた。


9時頃、夫婦2人だけが帰ってきた。


奥さんのアンヘラが、台所で買い物袋を置くと、青ざめた顔で居間で音楽を聴く僕のほうに近づいてきた。

 

「アキラ、帰るのが遅くなってごめんなさい。今日の夕食はサンドイッチになるけど許してね」


僕は、二人に何かあったなと直ぐに思ったけれど、何も言わずに頷いた。


主人のホルへは、台所で赤ワインを飲んでいた。

僕が台所に行っても、一瞥もくれなかった。


アンヘラは、僕にサンドイッチが入った皿を渡すと、「悪いけど、居間で食べてくれないかしら」と言った。


僕は、頷くと居間に行って、ドアを閉め、音楽のボリュームを上げた。

音楽の合間に、男の怒鳴る声が聞こえる、その後に、女のすすり泣く声も。


僕は胸がムカつくのを我慢出来ず、何も口にする事が出来ず、音楽を消して、TVをつけてボリュームをあげた。


その頃、マラガのTVのチャンネルは2つしかなかった。

日本の総合と教育NHKだけという感じだった。

唯一の違いは、コマーシャルがところどころ入るところだった。


TVはニュース番組で、どこか外国の暴動を報道していた。

その時だった。

何かが落ちる大きな音と女の叫び声が聞こえた。


僕は本能的に台所に駆け出した。


そこには、頭を抱え泣きじゃくる彼女を壁に抑えて揺さぶるホルへが居た。

夫婦の喧嘩だ、僕は介入するべきではなかった。


でも、僕は衝撃的にホルへの腕を背後から取り「やめろー」と叫んでいた。

ホルへは僕より上背があった。

直ぐに腕を解くと今度は、僕をすごい形相で睨み、「この中国野郎引っ込んでろ!」と怒鳴った。


次の瞬間、僕の頭から血の気がうせるのが自分で分かった。


こちらに来て何度、この中国人という言葉を聴いただろう。

中国人という言葉は、国籍による中国人だけではなく、一般的に東洋人全体を指している。所謂「黄色人種」、黄色をさす、「アマリーリョ」の代わりに、彼らが使う言葉だ。


この言葉を聴くたび、「僕は中国人じゃない!」と怒りと、「結局彼にとっては僕が日本人でも中国人でもどうでも言いことなんだ」という複雑な気持ちになる。


この言葉がはじめて僕が体験した「人種差別」だった。


ホルへの口から「中国野郎」という言葉を聞いた瞬間、僕は生まれて初めて、心の底から殺意を感じた。


次の瞬間、ホルへの拳が目の前に迫るのをスローモーションの様に僕は見た。

「殴られる」と人事の様に思った瞬間。


ホルへの体が揺れ、拳が僕の顔をそれた。


アンヘラがホルへに体当たりしたからだった。


その瞬間、ホルへはバランスをくずしそうになり、何が起こったかわからない表情を浮かべたかと思うと、アンヘラを突き飛ばした。


彼女はイスにぶつかったが、踏みとどまった。


ホルへは、僕と、アンヘラを交互に見つめた後、まだそのままだった握りこぶしを凝視した後、アンヘラを連れて家から出て行った。


台所の床には、陶器製の果物皿の破片が落ちたリンゴとバナナと一緒に散らばっていた。


僕はそれを片付けながら、無性に悔しい気持ちで涙が出そうだった。

そして、僕は、その夜、その家を出て行く決心をした。



日本には、もう80年代から90年代初めにクライマックスを迎えたキラメク、バブル時代はもう来ないかもしれません。

でも、バブル時代を経験した世代は、いつも、せつない気持ちでその時代を思い出しているのです。

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