ラテン人と東洋人
ホームスティーの家を出た僕は、フェルナンドが管理するアパートで共同生活を始める
翌朝、ホルへもアンヘラも、子供達も帰っていない様で、家の中は静まりかえっていた。
僕は、着替えると、「今日で家を出る。午後に荷物を取りに来る」という書置きを残して家を出た。
荷物と言っても、大型のスーツケースがひとつだけだった。
引越しなど簡単だった。
大学に行くと、授業には出ず、まっすぐと総務課に行った。
大学が紹介してくれたホームスティ先だったから、「今日でホームステイ先を出て行く」と通知するためだった。
総務課では、金髪巻き毛の女性がホームスティ取消し用紙をくれた。
当初は3ヶ月いるつもりで予約したファミリーだった。
「取消しの理由」という欄があった。
何十秒か考えた後、「個人的な理由」と書いた。
総務課はシェア用アパートの斡旋はしていなかった。
学生の掲示板に行って自分でコンタクトする様に言われた。
外国人向け語学コースがある建物は、普通の大学キャンパスからは離れていた。
学生用掲示板には、いろいろな間借りアパートの広告が貼り付けてあった。
アパートの簡単な説明と値段、簡単な住所、電話番号とコンタクト先の名前。
僕はその中で、シェア用のアパートを3つ選択し、直ぐ電話をした。
最初に電話したのがフェルナンドのアパートだった。
その日は遅出で彼は家に居た。
あとの二つは留守番電話だった。
僕は彼に電話をかけ直し、すぐに、家を見に行ってもいいか聞いた。
それから20分後、僕は、フェルナンドのアパートに居た。
歩いて5分のところに中華食堂があるのが気に入った。
バス停からもそう遠くはなかった。
フェルナンドは、栗色の髪に茶色い目をした平均的なスペイン人だった。
平均的なスペイン人の印象は日本人には想像し難いと思う。
間違っても、メキシコ人を思い出してはいけない。
ハリウッド俳優のアントニオ・バンデラスを思い出して欲しい。
ああいうタイプが良くいるタイプのスペイン人男性だ。
彼は偶然、マラガの出身だ。
女性なら、ペネロペ・クルスが良い例だと思う。
本当は、もっといろんな髪や目の色の人がいて様々だけれど。
南はその昔5世紀イベリア半島を占領していたイスラム人を彷彿させる容貌の人も多いし、カタルーニャには、比較的、目の色や髪の色が明るいタイプが多いとか。
フェルナンドの年はその時は30ぐらいに見えた。
後で聞いたところでは28歳だった。
アパートには寝室が3つあり、僕の部屋は中庭に向いた部屋だった。
「静かなのと、比較的広いのがいいだろう」と彼は言った。
もう一人のルームメイトは国鉄に勤める男で、週末はマラガの田舎の実家に帰っているし、普通は仕事で余り家には居ないという事だった。
僕は、直ぐに手付けを払って、そこに住むことに決めた。
その足でホルへとアンヘラの家に帰ると、彼らが家に居た。
ホルへは僕を見るなり、「昨日は悪かった。仕事では問題があったし、妻が、子供を家の両親の家に預けてどこかに行ったきり、約束の時間に戻ってこなかったと母から電話があったので、心配で逆上してしまったんだ。」と謝った。
そして、「妻は外国人だら、何かあれば、全ては僕の責任なんだ。これはすごく大変な事で、僕はいつもストレスにさらされているんだよ。若し問題があったらどうする。彼女の家族は遠くにいて頼る事も出来ないんだ。。。。。。。」といつもの台詞が続くのだった。
そして、大学にはここから出て行く理由を何と言ったか知りたい様だった。
それが問題で、他の生徒が来なくなると困ると言いたいらしかった。
本当につまらない男だと僕は思った。
そんなつまらない男と一緒に居るアンヘラには同情するが、なんだか、彼女の事も嫌いになっていく気がした。
彼女は一言本当にすまなそうに謝ると、僕に、夕食だと言って、サンドイッチとフルーツが入ったビニール袋をくれた。
僕はスーツケースを持って、その後、家を出て行った。
フェルナンドのアパートでの共同生活は快適だった。
男3人、一緒に出かけたり飲みに行く事はあっても、皆、基本的に他人の生活に干渉しない主義だった。
フェルナンドは20歳の時からマラガで働いている。
16歳の時から付き合っていた彼女がグラナダに居たらしい。
23歳の時には、一緒にマラガにアパートを買って結婚準備をしていたらしいが、長い春の結果、二人の心がすれ違い、26歳の時に別れたらしい。
それから、女とは付き合っても、長続きしないらしい。
どうも、グラナダの彼女と別れたのは、彼女が住み慣れたグラナダ、家族、仕事を捨てて、マラガに来るのを躊躇したたからの様だ。
マラガからグラナダまでの距離は約130キロ、車まで1時間半ぐらいでいける距離。
スペイン人はもともと、住み慣れた土地を離れるのを嫌がる人が多い。
僕は、九州出身だ。
だから余り土地に執着する事はない。
そんな僕には、スペイン人のこういうところは余り理解できない。
でも、僕の大学がある、関西の人は、土地に執着する傾向がある。
関西は恵まれた土地だ。
経済規模も大きく、歴史も自然も多様性がある。
人の性格も、ラテン系だ。
マラガは、1年に天気の良い日は300日、雨の日は50数日しかないと言われている。
僕が、海にそそり出たネルハの展望台、ヨーロッパのバルコニーに初めてきた日も、目に沁みるような青空がどこまでも広がっていた。
そして、地中海から心地よい風が吹いていた。
「バイクでネルハに行かないか」
そう、フェルナンドが言った。
それでネルハにやって来た。
彼はバイクが好きだった。
時々、遠乗りするので後ろに乗らないかと誘いを受けた。
一度、バイクで彼の実家に行った事がある。
グラナダは、標高738メートル、人口24万人弱。
アンダルシア州グラナダ県の中心にある内陸の都市である。
グラナダは、「この世の中で一番不幸なのはグラナダの盲目者だ」とその昔言われた程美しかったらしい。
イベリア半島のイスラム文化の至宝と言ってもいい、壮麗なアルハンブラ宮殿がある。
グラナダのアルハンブラ、ヘネラリーフェ(離宮)、アルバイシン(迷路の様な白壁の家が立ち並ぶ旧イスラム人街)は、ユネスコの世界遺産に登録されている。
グラナダは今でも内陸の美しい街だ。
彼の家はグラナダ郊外にある一軒家だ。
家に着くと、バイクの音を聞きつけた彼の母のアナが、玄関のドアを直ぐ開けて出てきた。
泣きそうなくらいの笑顔で、腕を大きく広げながら「私の可愛い息子!」と言いながら彼に必死に抱きつくと、「うぅーむぁ」と、日本語で言えば「ぶちゅー」というキスの擬音だろうか、そういいながら、彼の顔を両手で包んで、両頬にキッスする。
彼女は若いころは相当美人だったに違いない。
今ではちょっと小太りではあるが、若くして母親になったらしく、今でも魅力的だった。
ラテンの母を持つってどういうものか君には分かるだろうか。
生まれた時から、「私の赤ちゃん、私の宝」と溺愛され、毎日ブチュブチュキスをされ、豊かな胸で授乳され、溺愛と抱擁、キッスの嵐は、成長しても続くんだ。その上、君の為に美味しい料理を準備してくれる。そして、その母が飛びっきりの美人だったら、君だって、ラテンの男に生まれたって良いと思うに違いない。
こっちの男は、そういった母の表現豊かな愛情をいっぱい受けて育てられる。
そして小さい頃から、女の世間話を聞くのに慣れて成長する。
ラテンの女は本当によくしゃべる。
そして、その話は延々と続く「私の」という所有格の羅列だ。
「私の母が」「私の彼が」「私の家が」「私のブーツが」「私の仕事が。。。。。。。。。。」
「私の!!!!!!!!!!!!!!!!!!!」
そして、男は、女はしゃべらしておかなければいけないという事を、自然のうちに学ぶ。
そして時には、「ママ愛しているよ」とか「ママ綺麗だね」と言えば、ママが大喜びして、上手くいけば、御褒美に、美味しいものを作ってくれたりする事をちゃんと知っている。
ラテンの家族は家族集会がもともと大好きだ。
いろんな理由をつけては、家族で親戚で食事会を行う。
祖父母を中心に、子供や孫が集まり大食事会をやるというのもそう、珍しくない。
子供が結婚しても、出来れば週末には子供を呼んで、孫が出来れば孫も呼んで、食事会をしようというのが母親達の昔からの伝統だ。
そして食事中、食後、皆で延々としゃべり合う。・・・・・・
一方、ラテンの女性は働き者だ。
君が、ラテンの女と結婚した場合を想像してみよう。
まず、ライオンの群れを思い描いてくれ。
ライオンの群れは、一頭のオスに複数の雌ライオンだ。そこを、複数のメスライオンを消去し一頭だけ残してみてくれたまえ。
そして、雌ライオンをもっとゴージャスな、トラに変えてみよう。
君がライオンだ。
そして、君の為に、毎日狩りをして餌を運んでくれるのは、君の妻であるゴージャスなトラだ。
彼女がその気があるときに限るが、いつでも抱くことも出来る。
彼女と上手くやるコツは、彼女の言う毎日の小さな命令に服従するということ。
「ダーリン、ゴミを出してきて!」「ダーリン、買い物について来て!」「ダーリン、今週土曜日は私の両親の家で昼食会よ!」
子供が出来れば、もっと大変だ。
「ダーリン、子供と遊んで!」「ダーリン、子供のミルクを買ってきて!」「ダーリン、子供を学校に連れて行って!」「ダーリン!!!!!!!!」
そのうちに、あんなにゴージャスだった君の妻も、年を取り、太り、女としての魅力がが薄れてくる。
そのうち、「ダーリン」が「あんた!」に聞こえる頃でも、「これをして!」「あれをして」「もう、あたしを愛していないわけ!」「他の女に目を向けるのはやめて」
と続く。
日本の男にはちょっと重い役割だと思う。
僕に、後々、ある会社のスペイン人社長が言ったことがある。
昼食後のコーヒーの時だった。
「イスラム人はクレイジーだ。」
「どうして?」
「複数の妻を持ちたがるからさ。俺達は一人でも持て余しているのに。」
確かにそうかもしれない。
僕達がネルハに行った前日の夜は、フェルナンドと彼の友達と飲んでいた。
昨日はフェルナンドの友達のエンジニアのアントニオと、アントニオの幼馴染の肉屋のホセと教師のマヌエルだ。
フェルナンドとは時々飲みに行った。
フェルナンドとアントニオとマヌエルはスペイン人に多い、栗色の髪に茶色の目、中肉中背。マヌエルは少々太っている。
肉屋のホセだけ、背が比較的高く、髪は金髪、目は緑がかっていた。
いい男だ。
女にもてるに違いない。
スペイン人に自然の金髪は少ない。
そういうスペイン人だが、小さい頃は金髪、目は青だったという場合が結構ある。
今では普通の中年の男だが、子供の頃の写真を見ると、思いのほか美少年というケースもあったりする。
こちらで男ばかりで飲みに行くと、話題は6割が女の事。
周りにいる女をみて、品定めだ。
後の4割は、欲しいものの値段やメカの話、最後はいろんなジョークを互いに言いながら盛り上がる。
上司の悪口で盛り上がる事もある。
でも、基本的に、僕ら男は余り自分の事を話さない。
なぜだろう。
自分の弱みを見せない為か。
女達とはそこが決定的に違う。
どうして女は、ああも「自分話」が好きなんだろう。
話もたけなわ、アルコールが回ってくると、必ず僕に「日本の女はどうだ」と話を振ってくる奴がいる。
僕は、そういう時、出来るだけ彼らが喜ぶような事を適当に答える事にしている。
「女は男の言いなりだってのは本当かい」
「風呂で背中を流してくれるのかい」
「絶対NOとは言わないのか」
「俺達が夜に友達と出かけても何も文句を言わないのか」等。
そうだ、そうだと答えていると、奴らの喜ぶ事、喜ぶ事。
肉屋のホセは、「胸が大きくて、金持ちのセクシーな日本人の女が居たら紹介してくれ」という。
そんな女が居たら、僕らが放っておくはずがないだろう。
お前などの出る幕はない。
僕は心の中でそうつぶやく。
その夜もバルを4軒はしごした後、ディスコを兼ねたバルに行って、家に戻ったのは朝の5時ごろだった。
ホセは女をひっかけて、途中でどこかにしけ込んでしまった。
ネルハのヨーロッパのバルコニーから、碧い青い地中海を眺めながらそんな事を考えていた。
すると、不意にフェルナンドが僕の横脇を肘で軽く叩いた。
「アキラ、あそこに僕の柔術の先生がいる。君に紹介するよ」
そう言えば、彼はちょっと前から仕事の近くの小さい道場で、柔術を練習していると言っていた。
「ペペ先生、こんなところで会うとは驚きだ。」
ペペと呼ばれた中年の男は、身長170センチぐらいで小太り、長く伸ばした髪をゴムで束ねていた。
ペペはあだ名だ。
ホセという名前の変形の呼び名だ。
スペイン人はこのあだ名をよく使う。
パコはフランシスコ、ニコはニコラス、ペピートはホセの子供形、女になると、ペパはホセフィーナ、トニはアントニア、マリピーはマリア・ピラール、ピリはピラール、マリルーはマリア・ルルデス、言い出すと、きりがない。
ペペと呼ばれた男は、僕らを見ると、顔中を笑顔で一杯にして近づいてきた。
「やぁ、フェルナンド。元気か。こんなところで何をしているんだ。」
そして僕を見て、嬉しそうに。
「ここに居るのは君の友達か」と聞いた。
フェルナンドは、いい天気なのでバイクで遠乗りしてきたと言い、僕の事は同じアパートに住んでいる日本人のアキラだと紹介した。
ペペは、笑顔で顔をくしゃくしゃにすると「なんだ、お前に日本人の友人が居るなんて初耳だ。何で前に紹介してくれなかったんだ」と言った。
そして僕に向かって「こんにちは」と日本語で挨拶した。
日本語を聞くのは久し振りだ。
僕の語学のクラスには、日本人の女は2人居るが、出来るだけ話さないようにしている。
東洋人は彼女らの他に韓国人の男が一人居るだけだ。
圧倒的に多いのはドイツ人だ。
ドイツ人のほかは、イタリア人、フランス人、カナダ人、ギリシア人等だった。
彼ら欧米人のスペイン語の上達は目覚しい。
皆、文法は余り勉強していないと言いながら、ベラベラしゃべる事ができた。
僕ら東洋人とは大違いだ。
ネルハの海の展望台でペペに会った僕らは、せっかくだから、どこかに座って話をしようという事になった。
時間は12時を回ったところだった。
昼食は午後2時頃が普通のスペインでは12時はまだまだ昼食には早かった。
それにペペは昼食は家で家族と一緒に食べるからと僕らに言った。
海の展望台、ヨーロッパのバルコニーの下には、レストランがあった。
取敢えずそこへ降りる事になった。
洞窟をモチーフにしたそのレストランの、上の展望台とほぼ同じ景色がみれる窓辺のテーブルに座った。
他に客は余りいなかった。
ボーイが注文を取りに来た。
ペペとフェルナンドはビールを頼んだ。
僕は二日酔いでビールを避け、シュエップスを頼んだ。
ペペは顔一杯の笑顔で僕に「アキラ、いったい、君はここで何をしているんだね。」と言い、「そういえば、スペイン語は分かるのかな」と聞いた。
僕はさっきの展望台では、彼の「こんにちは」に「Holaーオラ」とスペイン語で挨拶しただけだった。
「もちろん」と僕はちょっとムキになって答えた。
こちらに住む中国人には、スペイン語が出来ない奴が多いのだ。
僕は観光地に行くと「日本人」と言われ、それ以外は「中国人」だった。
その頃、スペインに居る東洋人と言えば、観光地に居る「日本人」と中華レストラン、それに出てきたばかりの100ペセタの店(100均の店)や駄菓子やに居る中国人だけだった。
東洋人は人種差別的に馬鹿にされていたが、「日本人」のイメージは「礼儀正しい」「頭が良い」とすこぶる良く、皆日本人、日本文化を尊重し、褒めるのが常だった。
「僕は大学でスペイン語を勉強しているんだ」とペペに言った。
「そりゃ、すごい」とペペ。「それで、ここで何をしているんだね」と続けた。
「スペイン語を勉強しに来たんだ」と僕が言うと、ペペは急に笑い出した。
「それじゃ、マドリッドかサラマンカに行くべきだったね。ここに居て勉強できるのはスペイン語(標準語)のカステリャーナ語ではなく、アンダルシア語だ」と。
本当にペペの言うとおりだった。
真面目にスペイン語を勉強する奴はマラガなんかに来ない。
真面目な奴は、正当なカステリャーナ語を話すサラマンカ(マドリッドの北西、電車で2時間半)かバリャドリッド(一時期スペイン王国の王宮が置かれた事もある、マドリッドから北西に160キロのところにある都市)、又は首都のマドリッドに行くんだ。
僕は笑うに笑えず、不機嫌になった。
そんな僕を笑い飛ばすように、ぺぺは「アキラ、心配するな。冗談だよ。マラガ大学は良い大学だ。ここでも十分スペイン語が勉強できるさ。それに僕らマラガ人は他の地域の奴より、オープンマインドの気の良い奴なんだ。ここに居る間、楽しく過ごせるよ。」と言った。
フェルナンドがすかさすビールのコップを掲げると「乾杯」とスペイン語で言って、皆で乾杯した。
それからペペは日本の文化は素晴らしい、人は皆行儀良く、自分達とは大違いだ、僕は柔術を通して日本の文化を学んだと、日本のあらゆる美徳を褒めた。
僕はこちらに来て日本文化、日本人を褒める日本賛辞を聞くたび、複雑な気持ちになった。
自己の国民、文化を誇りに思う抑えきれない喜びと、それに反論したいという激しい衝動を感じた。
アメリカの社会文学者、エズラ・ヴォーゲルが「ジャパン・アズ・ナンバーワン」の本を書いたのが1979年だった。
高度経済成長を続けた日本の経済バブルも頂点まで駆け足で登っている時期だった。ヴォーゲル教授は日本の高い経済成長の基盤になったのは、日本人の高い学習意欲と読書習慣だとした。
ヴォーゲル教授はユダヤ人だった。
僕は、ユダヤ人をある意味で尊敬していた。
そんな僕に、大学2年の頃、数ヶ月付き合った神戸大学で哲学を専攻するユキはこう言った。
彼女はフランス哲学に傾倒していた。
「アキラ、バカね。ユダヤ人なんて、特別でも何でも無いのよ。」
「どうして」と僕。
「ユダヤ人は、白人の中の東洋人なだけなのよ。他の皆が、バカンスだ、パーティだと遊んでいる間、彼らはコツコツと勉強しているのよ。それで勝たない訳がないでしょう。」とユキ。
「ユダヤ人が東洋人だったら、全然目立たないわよ。
だって、中国人も韓国人も、日本人も、結局彼らと同じだからよ。」
ユキは可愛い顔をしていた。
アイドル歌手並だった。でも、頭の中は超頑固で、左翼哲学者だった。
僕は彼女と討論をして勝ったためしがなかった。




