醜い神と美しい鬼は相性が良かった。白峰の場合
そう上手くは行かないか。
まあ、これでも結構よくやった方だろう。
大野は、自分の理想と現状との相違を冷静に分析する。
本来であれば、サイドミラーを天邪鬼の顎あたりにぶつけてやるつもりだったが。
どうも想像よりも車体へのダメージが大きいようである。
痛ってえ、腰のあたりにガラスかなんか刺さってるわコレ。
大野は、痛みに顔をしかめ、目を閉じる。
そろそろだ。
喧しいエンジンの音に紛れて、それをかき消す凄まじい爆音が、大野の鼓膜を襲った。
白峰が陰陽術による攻撃を主とするのに対し、鷹宮は銃器、謂わば物理攻撃を主な攻撃手段として用いる。
というか鷹宮は、陰陽術が使えないのであった。
そのため鷹宮は特例として、日本国内で唯一、許可を得ない銃火器の使用が許可されている。
銃火器にはもちろん、スタングレネードや手榴弾なども含まれる。
それらが生命線となる鷹宮はなんと、この二つをズボンのポケットに入れて持ち歩いていた。
もちろん調達が面倒であったり、後処理が面倒であったりするので、実際にそれを使うことは少ないが。
先程から一言も喋らず、影を消して何かを狙っている鷹宮ならば、この切り札をここで切る。
大野はそれを確信していた。
…
あっかん、これマジ、死ぬ。
白峰は割とガチで焦っていた。
目の前で炸裂した、無表情な害意の代弁者。
其れは確実に、白峰の三半規管を蝕み、脳を震わせていた。
鷹宮の奥の手については知っている。
大野を除いて、職場で唯一と言っていいほど関わりのある人間なのだ、当たり前である。
だから咄嗟に耳を塞げたし、目も閉じられた。
視覚の方へは大したダメージはない。
だが、耳を塞いだといっても片方だけであり。
それはつまり、180デジベルの暴力が、白峰の左耳を直撃したことを意味する。
何だコレ、みみが、熱い。
世界が、揺れる。
ああ、僕の血か。この熱いの。
耳から流れ出る液体に意識を遠のかせつつ、左手だけは壊れかけのトラックから離さない。
あー、ガチでやべえ。油断した。気絶するわコレ。
白峰は揺れる世界の中、左足が弾け飛んだ天邪鬼と、あちこちに広がる眼を見渡しながら、そんなことを考えていた。
……オイ待て。眼ってなんだ?
『汝よ汝、その命返し給へ』
『此れは余の国、黄泉の国なり』
『汝の命、其れは人の罪なり』
ああ、その悼ましい眼が、白峰という男の姿を、白峰の胸の底に眠る魂の在処のような何かを、凝視める。
無数の視線の前に、供物のように竦み上がる白峰の命が感じたものは、何も見えない深海の中、絶対的な捕食者の存在だけを知覚した時のような恐怖のみであった。
ガチの厄ネタですやん、これ。
白峰は溜息をついた。
そして。
「あ」
その一瞬の気の緩みが、白峰の左腕を、逃走を図る軽トラから引き剥がした。
不幸中の幸いと言うべきか、もう数秒と持たないであろう意識の中で、辛うじて受け身を取ることには成功したが。
『死せよ、人間』
目が開かない。
四肢の感覚がない、取れていなければいいが。
『不敬である』
そして白峰の意識は、暗闇へと消えていった。
…
頭が痛い。
一体どれくらい気絶していた?
白峰は目を開き、指に力を入れて起き上がる。
辺りは真っ暗闇だ。
視覚情報が、白峰の呼びかけに応える素振りはなかった。
ここはどこだ?軽トラは?天邪鬼は?
白峰は目を閉じ、恐らく機能するであろう自分の聴覚を叩き起こす。
そうだ、あの眼は?
閉じていた目を開き、目を細めて確認できる情報を探ろうとする。
が、鷹宮ほどの性能を持たない白峰の聴覚と視覚には、それを得ることもできなかったようである。
地面に右手を伸ばし、何か触れるものがないかと触覚を頼りに探索する。
ゴツゴツした地面の感触を期待した白峰の手は——自分の足元をすり抜け、大きくバランスを崩した。
「あっ!?っべ!」
自分が地面の上でないことを理解した白峰の体が、落ちる、落ちる。
オゥエ、気持ちわり。
てかほんとに、どこだよここ。
なんで誰もいねぇんだよ、ふざけんなガチで。
白峰は無限の落下の中で、段々イライラしていた。
『死を願え』
そして、またどこからか響く声。
そっち系のサブカルには触れている白峰は、ピンと来た。
「もしかしてこれ僕の精神世界的なアレっスか?異界的な?」
どうやら、そういうことらしかった。
『死を願え』
何だコイツ、定型文しか喋んねぇのか?
白峰が訝しんだ直後、異変が起きた。
「がっ…!んだ……こ…れ!」
後頭部を、バールで思い切り殴られたような痛み。
思わず頭が凹んではいないかと、手を当てて確認してしまう。
そして。
何か気色の悪い異物が、自分の中に紛れ込んだ。
そう考えるしかないほどの激しい吐き気が、白峰を襲う。
「あ……?」
その脳を灼くのは、後悔、嫉妬、孤独。
それまで意識もしなかった負の感情が、白峰を少しずつ、少しずつ、覆っていく。
先程の声の言った、「死を願え」という言葉。
恐らく意図的に植え付けられた悪感情。
「そういう、事かよ…ッ……!」
白峰は少しずつ、この敵を理解し始めていた。
後悔、嫉妬心、孤独感。
それらが白峰にもたらすのは、希死念慮。
そして、その希死念慮に影響されて、自ら死を願った瞬間ゲームオーバー。
『死を願え』
それが、白峰の思考によって導かれた結論であった。
ただしその情報が、白峰を大して有利にさせるわけでもなく。
「あ…あ……」
思い出すのは、かつての青春。かつての希望。かつての花のような記憶。
そして、それらを失った今のこと。
『死を願え』
白峰のこれまでの人生において、幸福を諦めたり、自分の意思で捨てたりした事は、多々あった。
だがしかし、自分の手の届く所にあった幸福をいきなり奪わるというのは、白峰の三十年足らずの生涯で、そう多く経験するものではなかった。
「死……い…」
白峰の人生とは、恵まれた幸運なものであり、見捨てられた不運なものでもあった。
要するに白峰は、絶望との対話を経験していなかったのである。
「死に……い…」
人が絶望するのは、不幸と邂逅した時でなく、幸福が奪われた時である。
だからこそ人は、過去の幸福を想起し、容易く絶望に身を落とすのだ。
「死にたい?僕が?」
だが、もし人が幸福を自ら諦め、手の届かないものと定義していたら?
もし人が、幸福を遠ざけ、自らを不幸と呪っていたら?
「ふざけんなよ」
人は絶望を諦める。
絶望とは不幸であり、今までの自分と何ら変わらないと、絶望を受け入れるのである。
「ふざけんなよ、お前」
白峰は夢を見る。
希望と幸福に満ちた、もう実現することはない夢を。
「何なんだ、お前ら」
白峰はその夢が、自分の実現できるものではないと、最初から気付いていた。
彼にとって、幸福は虚構であり、絶望は必然で必要だったのである。
「僕から…俺から、いつもいつも奪いやがって」
今の白峰にとって幸運だったのは、彼にとって絶望と不幸が同義だったことだろう。
彼は、割と絶望しない側の人間になっていた。
「何の許可があって、俺の人生に踏み込んでんだ」
そして、自分の中の感情を無視して、且つ精神的に吹っ切れた白峰は、絶望の元凶とみなした声にキレ散らかしていた。
「何が死を願えだよ、お前らが死ねよ。他人の人生に土足で踏み込みやがって」
要するに白峰は、絶望と希死念慮を植え付けるこの能力と、この上なく相性が悪かったのである。
「あーもうキレたもんね、俺も切り札使っちゃうもんね。どーなっても知んねーぞ」
不幸の責任をぶん投げて、開き直った白峰の目には、もう闇は映っていなかった。
先ほどまで感じていた吐き気も、浮遊感も、悪感情も、全てなくなった。
『死を願え』
「うっせ、バーカ。お前が願ってろ」
後は、このゴチャゴチャ五月蝿いクソを黙らせるだけだ。
白峰は、ベルトに下げてある筒を開けて、術を唱えようとして——
「お疲れさん」
「あ、ども」
もはや全壊したと言った方がいいトラックにもたれかかる鷹宮の前で、目を開いた。
一泡吹かせたかったというほんの少しの後悔と、死地から逃げ延びたという安堵。
白峰は、黄泉津大神との接触を生き延びた。




