愚かなる傑物
白い、白い月が人々を見下ろす夏の夜。
あるサラリーマンが、ふと足を止めた。
「なんだこれ……人魂……?」
ずっとスマホを見ていた女子高生が、花柄の袋を片手に店頭を物色していた主婦が、ひとり、またひとり、空を見上げ出す。
青い、炎だった。
「綺麗……」
誰かがそう一言呟いて、それきり誰も、何も喋らない。
白い月明かりに、冷たい、青い炎が映し出される。
夏の月夜という陶器に、青色のガラス玉を埋め込んだような美しさ。
誰もがその光景に目を取られて、そのうちの何人かがスマホを掲げ出す。
それが、彼らが見た最後のものだった。
2022年5月13日午後10時48分、日本国は《長野県》と定義される、面積にして約13600平方キロメートルの陸地を喪失。
当該地域の住民を含む、200万を超える国民が死亡。
《長野県》が、律儀に県境に沿って消失するこの珍事に、国防省及び日本国の行政機関は、揃って頭を抱えることになる。
三日あまり様々な陰謀論が飛び交い、最終的に、目の下に大きなクマを作った我らが国のトップの方々が言い渡したのは、『原因不明の事故爆発』であった。
この隠す気のない敗北宣言に、またもやネットは大いに荒れた。
日本中を上へ下へと掻き回す大騒動へと発展したこの事件は、何もできない政府関係者のクマを、ますます深くするばかりであった。
これが表向きの話である。
……
ビー、ビーというけたたましい警報音の鳴り響く部屋で、二人の男が慌ただしく動いていた。
「諏訪の天代からの返事はまだか!」
「皆神山の調整に行ったきり連絡が取れません!長野県各市処理官も一人残らずバイタルが消失しています!」
「クソッ!また超常絡みの事件かよ!政府の奴らは何してやがる!」
「先輩!僕らがその政府の奴らっす!」
「わーってるよ畜生!警察の無線は繋ぎっぱなしにしとけ!」
「警察無線の傍受にノイズが混じってます!微小の祟り現象が発生している可能性があります!」
「だっから超常絡みの騒動は嫌いなんだよ!人間の気に入らねーもんはすぐに祟り祟りだって!バカの一つ覚えかっつーの!」
「対怪異封印式『蜃気楼』の発動要請が通りません!」
「アイツを使うには第三級以上の霊的国防非常事態宣言とあのおとぼけクソジジイの承認が要る!クソジジイと連絡が取れねぇ今はどうしようもねー!」
「ふうむ、おとぼけクソジジイ、とね。」
政府関係者にしては割と人情味溢れる二人の男が、やいのやいのと騒いでいる部屋にやってきたのは、スーツ姿に黒ぶちの丸眼鏡をかけた、低身長で小太りの男であった。
「それはもしや、私のことではないかな、鷹宮君。」
決して大きくはない声、しかしそこにいた二人の愉快な男たちにとっては、日本で最も恐れる男の声。
「残念だね、君たちには期待していたんだが。」
「ウワアアア!総理サマ!嘘です!聞き間違いです!多分!風の音とかじゃないですか!」
「キョワアアア!先輩!無理ですって!バッチリ聞かれてましたって!無理!!僕ら二人とも首飛ばされますよ!終わったああ!僕の高収入安泰ライフ終わったああ!人生楽しかったなああああ!」
プルプルと震える、権力に弱い男たちに、トコトコと小太りの男が歩み寄る。
「冗談を交わしている時間はないことは分かってるはずだ。一つの県が、恐らくは数秒もしない内に滅んだ。中の人間も一人残らず消失しただろう。」
互いに抱き合ってプルプルしていた可哀想な男たちは、スンとなって、その小柄な男に耳を傾け始める。
「車を出したまえ、私が直接現地に赴こう。」
「許可できません。あそこは危険だ、あなたが死んだらこの国は滅ぶ。何の原因かも分からず県一つが滅んだ今、あなたが危険に晒されるべきじゃない。」
「僕も……許可できません。アンタは僕の上司である前に、この国のトップだ。《長野県》の国民はもういないんだ。そんで、アンタが守るのは今生きている国民だ。死んだ者たちの対処は、下の人間に任せるべきだ。」
自分の信頼する部下に揃ってノーを突きつけられ、男は首をすくめておどけてみせる。
「君たちが言っていることは十二分に理解している。今日本は私という駒を失うべきではない。」
「だったら……」
だがこの男は、部下に何か言われた程度で自分の意見を変えるほど、人間として出来てはいなかった。
「私はけっこうチェスが好きでね。」
「「は?」」
この男が多少頑固でも今まで問題なくやってこられたのは、確実にこの男が類稀なる能力を持って生まれたからであった。
「私はキングだ。ああ、誰がクイーンだとか誰がビショップだとか言いたい訳じゃない。例えの話だ。」
大野は、鷹宮達が自分の言葉に耳を傾け出したのを確認し、ご満悦とばかりに足の爪先をコツコツと鳴らす。
「敵の顔は見えないが、私が取られたらこの国は終わる。」
「敵ってあんた……」
「ああ、そうだ。この件には明確に、私たちに牙を剥いてきた敵がいる。」
周囲の人間の首を縦に振らせ、さらにその意見を実現するだけの能力がある。
それが大野がこれまで政界で生き残ってきた理由であり。
「話を戻そう。私たちは、その敵に先手を譲ってしまったようなものだ。その上、始まった瞬間に、正体不明の力でいきなりこちらの駒を粉々に粉砕してきた。」
その政界をメチャクチャに荒らし回ることが出来た理由であった。
要するに、この男は間違いなく、人間としてどこか決定的なところにおいてイカれていたのである。
「私はキングであるのと同時に、プレイヤーでもある。敵がルール無用で殴ってきた今、駒は出し惜しむべきではない。」
「だから、いきなりキングのあなたが取られたらやばいって話をしてるんですよ!」
「いいかい?私はプレイヤーなんだ。ルールを無視した動きができるのは、私だけなんだ。」
「先輩、こうなったらもう無理ですって。絶対意見変えませんよこの人。諦めましょ、もう出発した方が早いっす。」
「それにだ。《長野県》が前触れなく消えたように、今この場所が消えない保証がどこにある?」
「それでも、戦闘方面で不安の残るあなたを連れて行くことはできない。ここにいるより現地に向かった方が明らかに危険なんです。」
「先輩ー!!聞いてます!?どうせ無駄なんですから早く行きましょうって!」
「私が殺される可能性を考えているという話なら、今そうなる可能性は限りなく低いだろう。」
「……」
自分の意見に反対している人間が、一度沈黙を選び、こちらの話を聞き始めた。
この時点で、おとぼけクソジジイは勝ちを確信していた。
「都道府県をいきなり一つ消し飛ばすほどの人間なら、私のような人間の厄介さはよく理解しているはずだ。全面的にこの国に喧嘩を売るような真似をするなら、最初から私を狙うはずだ。」
「あれこれ僕無視されてます?」
部屋の警報はいつしか鳴り止み、外の噴水の音が次第に部屋の空気を洗い流していくようだった。
「だが、私はこの通りピンピンしているし、今日は一度も襲撃されていない。」
実際この場所——国会議事堂が襲撃されるのは、そう珍しいことではなかった。
「私たちに喧嘩を売った人間は、を殺せない理由があるか、まだ襲撃しに来ていないかのどちらかだ。」
相手が人間であるとは限らないがね、と男は付け加えて言った。
「後者ならばはここを離れるべきだし、前者ならばが動いた方が敵もやりにくいだろう。」
「なにこれ、いじめ?」
「いずれにせよ、だ。」
男は、懐から取り出したペンを器用にクルクルと回して見せた。
「私は《長野県》に向かう。それを決めるのはで、君たちじゃない。」
男の静かな声が途切れる度に、小さな噴水の音と、ブーンという空調の低い音が聞こえてくる。
「車を出したまえ、私が直接赴こう。」
「……死んでも知りませんよ」
男は、自分の選んだ優秀な部下の聞き分けの良さに満足して、にこりと微笑んだ。
さっきまでうるさかった部下の片割れも、なんなんだこの人たちとぶつぶつ言いながら男に着いて行く。
「夜中で良かったね、久々にアレをやろう。」
「またやるんですかアレ……危ないから嫌なんですけど……」
「レベルB以上の職員は、非常時に限り、午前1時から4時の間、私の許可のあるときに限り線路上の武装車の走行が許可される。これが一番早いだろう。」
実はこの男、割とヒャッハー向きであった。
「あと二時間で出発する。忘れ物のないようにね」
……
「おやつは持ったかい?」
「持ちましたァ!」
「チョコバーとコーヒー、コーラがそれぞれ五つずつ。フラッシュバンが三十、アサルトとスナイパーがそれぞれ一つずつ、それにRPGが二発分。サバイバルナイフが二本。対テロ級陰陽陣が三つ、対災害怪異級が五つ、対通常怪異級が百。これだけあれば充分でしょう。」
「いいね、ゾンビパニックものなら一カ月は無双できるかな。」
何ら危機感を感じさせない言葉を適当にかけ合いながら、男たちは軽トラに乗り込む。
ブロロン、ブロロロンとバイクのような音を立てて、エンジンが振動を始めた。
「レベルA職員、鷹宮 葵。非常事態につき武装車両の線路走行を申請します。」
「レベルA職員、白峰 蓮。同職員の補佐として申請の必要性を理解し、これを進言します。」
「第101代内閣総理大臣、大野 真。これを許可する。存分に飛ばしてくれ。」
「しゅっぱーつ!」
荷台ではしゃぐ部下と、それにため息をついて黙ってアクセルを踏む部下、その横で缶コーヒーをちびちびと飲む男を乗せて、緑の幌に包まれたトラックは物凄い速さで国会議事堂のトンネルの中に消えていった。
2022年5月14日、午前0時55分。日本の怪物、大野 真が動き出す。
同日午前1時0分ちょうどに、怪物を乗せた軽トラは北陸新幹線の路線上に到着することになる。
この後大野が(もしかして自分例え話下手じゃね?もう使うのやめとこ)ってなるのは別の話




