第34話「谷」
白の進む速さを、まず測った。慌てて削るのも、慌てて刻むのも、速さを知ってからだ。知らずに動く手は、手当てではなくただの動きになる。
担ぎをいちばん近い壁の窪みへ下ろし、傷の側をカリンに任せて、結びの際へ灯りを寄せる。浮いた端は、糸ひと筋ぶん。爪の先を当てると、浮いた分だけ引っ掛かりが立って、その下の画はまだ生きていた。息を二十数える間に、さらに半筋が浮いた。速い。基準にできる速さの持ち合わせは一つしかないが、その一つより、はっきり速い。ニナが手控えに、筋の幅と息の数を並べて書き付けた。書く手は乱れていない。乱れていないことを確かめてから、次へ移った。
剥がれ方には、順があった。食い込み止めの一画目から、引いた順の通りに薄れていく。読める順だ。速さを先に取って刻んだ線は、塔にとっても読みやすい線だった、ということになる。刻んだ時に分かっていて、それでも浅いほうを取った。取った理由も覚えている。理由ごと、いま白くなっている。
「全部、見せろ」と言うと、列は窪みの灯りの下へ装備を寄せた。
順に検める。ニナの靴は、踵の線の端に爪の先ほどの白。ボルグの杖は、根の一画が心持ち痩せて見える。見える、の段階だが、朝までは、動かない、の段階だった。一段深く鳴ってからこちら、層の目がこちらの字に慣れ始めている。慣れる、という言い方が正しいのかは分からない。確かなのは向きだけだ。白は、増える向きにある。
白の出ていない装備も、二人ぶんだけあった。ゲイルの革帯と、カリンの道具袋だ。どちらにも、字がない。字のないものは、食われない。食われない代わりに、何も守らない。素のままの装備が列の中でいちばん無事に見えるのは、無事の意味を履き違えた眺めだが、履き違えたくなる程度には、こちらの白は進んでいた。
六層の荒れで、重ねが食われたことは一度ある。あの時は、試しの鉄片と、張り替えたばかりの線だった。物だけの話だった。白いほつれが縁を回るのを、俺は台の上の眺めとして目に入れて、消え方の順を控えることまでした。同じほつれが、いま人の重さを吊っている縄の結びを回っている。眺めでなくなった白は、同じ白でも白さが違って見える。違って見えるのは目のほうの都合で、白は最初から同じ仕事をしていただけだ。物も、人の目方も、白は区別をしない。区別をして積んでいたのは、こちらだった。
カリンが手当ての合間に、一度だけこちらの手元を見た。白と、止まった鏨と、その両方を目に入れて、何も言わずに傷へ戻った。言わないことを選ぶ目つきというのがあって、この治癒師のは、宿の卓で見たどの沈黙とも別の種類に見えた。見えただけで、確かめる余裕は、こちらにない。
鏨は、手の中にあった。柄の握りは手の癖の形に減っていて、どこをどう握るかを、手のほうが覚えている。浮いた端を削り落として、脇へ新しく刻み直す。工房でも、路上でも、塔の中でも、手はいつもそう動いてきた。休みのたびに検めて、薄れる前に足す。考えるより先に動く手だと、ニナに言われたこともある。
その手が、動かなかった。
新しく刻む線は、新しく読まれる線だ。読まれれば、この深さでは食われる。保ちを足すことと、餌を足すことの境目が、ここでは分からなくなっている。分からないものの上に五人の目方を載せる手つきを、手のほうが先に拒んだ。鏨の頭に親指を掛けたまま、掛けた形のまま、止まっている。追い出された晩も、路上で寝た晩も、この手は止まらなかった。刻めば食えたし、刻めば保った。刻むことの側に、疑う場所がなかったからだ。疑う場所ができた途端に止まるなら、今まで動いていたのは腕ではなくて、疑いのなさのほうだったことになる。止まった手を見るのは、手の持ち主でも初めてだった。
この層まで三人を上げたのは、俺の刻みだ。上げた三人に、拾った二人が足されて、列は五人になっている。麦の板を食わせて、担ぎに載せて、俺の字の保ちの上へ、二人ぶんの目方を積み増したのは、ほかでもない俺だ。
刻みは保つ、を土台にして、その上へ全部を積んだ。道順も、検めの間隔も、担ぎの組み方も、水と油の残りの読みも、積み方は違っても土台は一つしかない。土台が食われるなら、積み上がっているのは高さではなくて、落ちる高さだ。ニナの靴も、ボルグの杖も、ゲイルを吊る縄も、俺の字で持っている。字が消える時、消えるのが字だけで済む場所は、もうこの列のどこにもない。
向きの答えは、二つに一つしかない。進むか、退くか。秤の皿に載る物は検め終えて、あとは載せた側が言うだけになっていた。
「降りよう」と、口が先に言った。
「抜けの手前まで戻る。吊りを組み直して、渡してから、下で白の速さを測り直す。下は軋みが浅い。浅ければ、白は遅い」
理屈は立っている。ボルグの周期の読みとも、ニナの残りの数とも、喧嘩をしない理屈だ。担ぎ列で抜けを渡る手間は重いが、手間は数えられる。数えられるものは、怖くない。立っているのに、自分の声の据わりだけが悪かった。理屈の下に、口に出していない一枚が敷いてあるからだ。俺の字から、早く、この四人を離したい。離した先で四人が立ち行くのかを、その一枚は数えていない。数えていない紙を土台に挟むと、積んだものは理屈ごと傾く。傾いだ分だけ、声が浮く。浮いた声で降りよう、と言われた側が何を聞き取るかまでは、言った後に思い当たった。この列の耳は、五層からこっち、俺の声の据わりで軋みの深さを測ってきた耳だ。
窪みの中は、灯りの輪の分だけの広さで、輪の外は圧と暗がりの取り分になっている。誰もすぐには答えなかった。カリンの手当ての布の音と、ゲイルの浅い息だけが、しばらく輪の中の音の全部になった。
ニナが、手控えを閉じた。数えかけの頁を、数え切らないまま閉じた。この娘が数を途中で置くのを、見たことがない。ボルグは杖の音の返りを聞くのをやめて、石突きを床へ真っ直ぐに立てた。カリンだけが手を動かし続けて、動かしながら、こちらの言葉の続きを待たない目をしていた。窪みの中で、灯りがひとつ、油の減りぶんだけ低くなった。
ニナとボルグが、同時に一歩、前へ出た。
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