第1話「お前の付与は不要だ」
「お前の付与は、もう要らない」
ゲイルは卓の上に、俺の取り分を滑らせてよこした。銅貨が数枚。六層まで往復して、隊の稼ぎからこちらに回ってきたのは、それだけだった。数える手間もいらない額だ。
宿の一階は揚げ油の匂いがこもっている。奥の卓では別の隊が明日の潜行を笑いながら決めていて、その声だけが場を埋めていた。こちらの卓には、誰の声もない。ゲイルの指が、卓の木目を一度だけ叩いた。
「六層で装備が保たなかっただろう。前衛の剣が根元から欠けて、盾の縁が割れた。あれで撤退が決まったんだ。お前が乗せた付与が、途中で切れたせいだ」
そうか、と俺は受け取った。付与術士が武器に効果を乗せ、それが保っているあいだに前衛が仕事をする。乗せたものが六層の途中で切れたのなら、乗せた俺の腕が足りていない。理屈はまっすぐ通っていて、恨む筋がどこにもなかった。
六層でのことは、覚えている。魔物の一撃で前衛の剣が半ばまで欠けたとき、鞘に戻す間もなく刃の根へ刻みを足した。盾の縁が割れかけたときも、割れ口に沿って一本入れた。刃を握る手は、そのたびに炭で黒くなった。それでも撤退になったのだから、俺の入れ方が浅かったのだろう。次はもっと早く、もっと深く入れればいい——そう考えかけて、次はないのだと思い直した。
「外れてくれ。次からは、付与のいらない組み方にする」
「分かった」
頷くと、ゲイルの眉が動いた。食い下がると思っていたのかもしれない。だが、食い下がる筋がない。役目を果たせなかった者が抜ける。順序として、それは正しい。
メイズは壁のほうを向いたままだ。俺と目を合わせない。こいつの触媒には、休憩のたびに刻みを入れ直していた。塔の中は物の傷みが早い。だから隊の全員のぶんを、休むたびに一つずつやり直すのが俺の役目だった。剣に、鎧の留め具に、杖の根に。今日も六層で、撤退の直前までそれを続けた。爪の間に、炭の粉がまだ残っている。
カリンだけが、口を開きかけた。
「あの、」
それきり続かなかった。ゲイルが横目を向けると、カリンは膝の上で手を握り直し、視線を落とす。何を言おうとしたのかは分からない。訊く立場でもない。
俺は銅貨を袋に落とし、床に置いた荷を担ぎ上げた。荷の中には、刻むための鏨と炭筆が一式入っている。武器も防具も置いていくが、これだけは俺のものだ。戸口へ向かう背に、奥の卓の笑い声だけが送りに来た。
「世話になった」
返事はなかった。
外へ出ると、塔の影が町を覆っていた。軋み塔は、ルヴァンのどこに立っても見える。今も上のほうの層で灯りがいくつか揺れていて、誰かが登っているのが分かる。七層より上には、まだ誰も届いていないと聞く。町ぜんたいが、この一本の塔の時間で回っている。
付与術士は、前に出ない職だ。隊に一人いれば足りるし、いなくても組み方でどうにかなる。外れた付与術士に次の隊がすぐ見つかるとは限らない。それも順序の話だと思えば、腹の立てようもなかった。
通りには、潜行を終えた探索者が下りてきていた。血の匂いをさせた隊もいれば、負傷者を戸板で運ぶ列もある。塔の口のほうから、撤退を告げる鐘が二度鳴った。誰かが今日も上で引き返したということだ。その音に足を止める者はいない。ここでは珍しくもない。
上へ行くほど、装備は保たなくなる。七層より上では鋼も付与も端から剥がれていくのだと、いつか酒場で誰かが言っていた。だから、誰もがそこで引き返す。六層で装備が保たなかったのも、突き詰めればその手前の話なのだろう。腕のせいだと思っていたが、塔のせいもあるのかもしれない。そこまで考えて、どちらでも同じだと気づいた。俺はもう、あの隊にいない。
袋の中身では、今夜の宿代にも足りない。明日のことは明日でいい。先に、今夜どこで横になるかを決める必要があった。恨みを転がしている暇があるなら、寝場所を探したほうが筋が通る。
腰から予備の短剣を鞘ごと外した。駆け出しのころに自分で打った、薄刃の安物だ。露店通りなら、この手のものでも引き取る店がある。歩きながら、鞘の合わせ目を指でなぞった。ここにも一筋、刻んである。錆びないようにと入れたものだった。手にした物には、たいてい何かを入れてしまう。癖のようなものだ。
露店通りは店じまいの時刻だった。半分ほどの露店が板を下ろしている。売れ残った干し肉や、欠けた防具が、灯りの落ちた台の上に放り出されたままだ。人通りはもうまばらで、通りの奥に一軒だけ、鑑定の看板を出した店に火が残っている。
台の向こうで、老人が帳面を閉じるところだった。客が来たとも来ないともつかない顔で、こちらを見上げる。指の節が太く、爪の先が薄く削れている。長く物を見て、長く物に触れてきた手だと分かった。
「これを、買い取ってほしい」
短剣を鞘から抜いて、台に置いた。安物だ、と言い添えようとして、やめた。見れば分かる。
老人は柄を取り、刃を灯りにかざした。それから角度を変えて、もう一度かざす。眉のあたりが動いた。刃を台に寝かせ、顔を近づける。文字を読もうとするような手つきで、指の腹を刃に沿わせていった。爪が、切っ先の裏の溝で止まった。老人の呼吸が、そこで一度止まる。息を継ぐのを忘れたように、指先が溝の上でとどまっていた。
俺がそこに何を入れたかは覚えている。この安鉄は刃こぼれしやすかったから、欠けないようにと、切っ先の裏に一筋だけ足した。習ったやり方ではない。付与は師につかず、拾い読みと我流で覚えた。だから、そのとき思いついた形でやっただけだ。丁寧にやれば、それだけ長く保つ。それ以上のことは考えていない。
老人は溝から指を離さない。周りの露店主が店を畳んでいく音の中で、その手だけが動かなかった。安物一本にかける時間ではない。それだけ買い取りをしぶっているのだろうと、勝手に見当をつけた。
「二束三文でかまわない。今夜のぶんになれば、それで助かる」
老人は答えない。刃から目を上げない。台の下から布を出して、刃の腹をそっと拭った。曇り一つ浮かんでこない。あの短剣を打ってから、もう二年になる。二年ぶんの使い込みがあって、雨にも塔の湿りにも晒されて、それでも刃は灯りをまっすぐ弾き返していた。
老人はもう一度、切っ先の裏の溝に指を戻した。そこを何度もなぞる。並べて売っていた古い短剣を一本取り、二つを見比べ、また溝へ戻る。値をつける手つきではなかった。
隣の露店が板戸を鳴らして閉まった。通りの灯りが一つ、また一つと消えていく。俺は急かさなかった。急かしたところで、安物の値が上がるわけでもない。老人は短剣を布の上に置き直し、灯りをもう一段だけ近くへ寄せた。刃の、たった一点を明るく照らすために。照らし出された溝は、細く、まっすぐに通っていた。
やがて老人が顔を上げた。俺を見て、刃を見て、また俺を見る。値を告げる口ではない。
「……これ、」
声が低くなった。
「誰が刻んだ」
本日6話まで投稿します!ぜひご覧ください。
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