エピローグ 正義の国
ローデンとの戦いから、二か月が過ぎた。
傷を治しながら町や村を渡り歩いたが、その間、一族の追手が現れることはなかった。
街道で騎馬の音を聞くたびに剣へ手を伸ばした。しかし、それが父の差し向けた者だったことは一度もない。
ローデンの言葉は、事実だった。
もう自分を追う者はいない。
リディアはようやく、行き先を自分で決められるようになった。
◇
それからも、リディアは国々を渡り歩いた。
力のある者が、弱い者から奪っているのを見れば止めた。
人を傷つけながら、身分や金によって裁きを逃れた者がいれば、自ら剣を向けた。
話を聞き、行いを改める者には剣を抜かなかった。
それでも悪を続ける者は、《断罪》によって斬った。
救われた者は、リディアを正義の剣士と呼んだ。
法の裁きも待たずに人を殺す、大罪持ちの怪物だと恐れる者もいた。
やがて、別の呼び名が広まった。
断罪の令嬢。
リディアは、どちらの評判も訂正しなかった。
自分が何と呼ばれるかより、目の前の悪を止める方が重要だった。
一つの町を救えば、別の町では人殺しと呼ばれた。
悪を止めたことで、その土地の法を破った者として追われることもあった。
旅を続けるうちに、同行する者も増えていった。
奴隷都市からついてきた者。
故郷を奪われた者。
腐敗した主君へ仕えることをやめた者。
リディアの考えに賛同し、自ら剣を取った者。
離れていく者もいた。
それでも、残る者へ忠誠を求めることはなかった。
共に進むかどうかは、本人が決めることだった。
◇
長い旅の末、一行は国境に近い平原で夜を迎えた。
焚き火の周りには、旅を共にしてきた者たちが座っている。
鎧を脱いで休む者。
剣の手入れをする者。
明日の食事を用意する者。
生まれも身分も違う者たちが、同じ火を囲んでいた。
「それで、次はどこへ向かうのですか?」
カイルに尋ねられ、リディアは膝の上へ広げた地図を見る。
これまで、いくつもの国を通ってきた。
豊かな国もあった。
争いの少ない国もあった。
立派な法を掲げる国もあった。
だが、リディアが留まりたいと思える国はなかった。
「行き先はない」
「ないのですか?」
「ああ」
地図の上を指でなぞる。
「どの国にも、見過ごされている悪があった」
身分が違えば、同じ罪でも裁きが変わる。
金を持つ者なら、誰かを傷つけても許される。
弱い者から奪う仕組みが、法律だからという理由で守られていることもあった。
それを正せば、今度はリディアが法を破った者として追われた。
「もう少しましな国を探しますか?」
「それも考えた」
リディアは地図から顔を上げた。
「だが、やめた」
「では、どうするのです?」
「正しい国がないのなら」
焚き火を囲む者たちを、一人ずつ見る。
「我々で作ろう」
誰も言葉を返さなかった。
薪が弾ける音だけが響く。
「国を作るのですか?」
「ああ」
リディアは迷わず頷いた。
「生まれや身分で裁きが変わらない国だ。人が人を所有することも、強い者が弱い者から奪うことも認めない」
「そんな国を、本当に作れるのでしょうか」
「分からない」
リディアは即答した。
「私は国を治めたことなどないからな」
何人かが顔を見合わせた。
やがて、小さな笑いが漏れる。
「剣の振り方も、最初から知っていたわけではない。知らないことは学ぶ。私にできないことは、できる者へ頼む」
リディアは立ち上がった。
「ただし、間違っていると分かっているものを、仕方がないと言って残すつもりはない」
カイルが最初に立った。
「俺は行きます」
「私が命じたからではないな?」
「俺が決めたことです」
「そうか」
別の者も立ち上がった。
「私も行く」
「俺もだ」
「今さら一人でどこへ行けばいいかも分からないからな」
笑い声とともに、立ち上がる者が増えていく。
リディアは、全員が自分の意思を示すまで待った。
「承知した」
地図を畳み、荷物へ戻す。
「では、明日から土地を探そう」
「そこからなのですか?」
「国なのだから、土地は必要だろう」
今度は、焚き火を囲んだ全員が笑った。
まだ国の名はない。
領土も、城も、法もない。
あるのは、自分たちの国を作るという意思だけだった。
リディアは右肩を覆っていた布を外す。
首筋まで広がった大罪の紋章が、焚き火の光を受けて浮かび上がった。
王冠に似た、傲慢の紋章。
それを見ても、立ち去る者はいなかった。
リディアはもう、紋章を隠そうとは思わない。
大罪の力であろうと、それを使うと決めるのは自分だ。
自分の判断が常に正しいとは、もう思っていない。
それでも、間違う可能性を理由に何も選ばないつもりはなかった。
判断し、行動する。
間違っていたなら、その結果も自分で引き受ける。
これから作る国でも、その責任から逃げるつもりはなかった。
大罪の紋章を戴く断罪の令嬢は、自らの正義を国にするために歩き始めた。




